二倍以上の敵に立ち向かった徳川軍であったが、鶴翼の陣が崩壊し始めた。
 このままでは本陣に何時、敵が殺到してもおかしくない。
 床机には家康が座っていた。
 報告を受けると愕然とした表情を浮かべた。
 恐怖に慄いていているようも見える。
 側に居た鈴木久三郎が、
「殿! このままでは御命が危のう御座います! まずは御城へ御逃げ下され!」
「久三郎! 儂は逃げんぞ! 此の儘では参河武士の名折れじゃ!」
「何を申すか! この戯け者が! 殿の命は御一人の物では御座いませぬぞ! 家臣、領民の事を御考え召されい! 命を容易く捨てるなど、匹夫の勇のする事じゃ!」
 久三郎は家康の胸倉を掴み左頬に鉄拳を加えた。
 この久三郎は家康の祖父である清康以来の譜代の家臣であった。
 家康は涙を浮かべていた。
 自分の無力さを感じていたのであろうか。
 言葉を発する事も出来なかった。
「男の癖に泣く奴があるか! 此処で死んでは天下は獲れませぬぞ! 此れを貸しなされ!」
 久三郎は家康が持っていた采配を奪い取った。
「次郎左衛門! 殿を頼んだ!」
 久三郎は夏目次郎左衛門吉信に後事を託した。
「承知仕った! 鈴木殿は如何なされる!」
「拙者は敵と太刀打ちに及び時を稼ぐ!」
「御武運を!」
 夏目が言った。
 それを聞いた久三郎は大きく頷き、莞爾と笑った。
「殿、これにお乗りくだされ!」
 夏目は用意した馬に家康を乗せ、一緒に退却した。
 共にする者凡そ二百ばかりであった。
 家康は気持ちを取り直し、追って来る敵を弓で射倒していた。
「殿! このままでは敵の本隊に追いつかれます! 此処は某が殿を仕りまする!」
「其れでは、次郎左衛門が死んでしまうではないか、義は命よりも重し! 某の倅を頼みまする!」
「承知した!」
「では、参りまする!」
 夏目は配下の二十五騎を率い武田軍に向かって突撃し散華して果てた。
 因みにその子孫である文豪夏目漱石として活躍するのは明治の御代になってからである。
 這う這うの体で浜松城に帰った家康は馬から降りると、
「腹が減った何か」
 側近が椀に入った粥を差し出した。
「美味い! 斯様に美味い粥は食べたことがない、だが大事な家臣を失い、これ程、胸に詰まる夕餉は初めてじゃ」
 この戦いで家康は己の無能さと家臣の大事さを学んだ。