翌朝3時に起きた美世は格闘の末3段重ね弁当を詰めた。
「ふう、量の調節がなかなか難しいな
しかしまあこんだけあったら夕飯までは賄えるやろ」
 クーラーボックスの底に−16°cの強力な保冷剤を入れてランチボックスをセットする。そして弁当を入れ、空きスペースにお茶を3本突っ込んだ。

 仕事で新しい企画が入ったようなわくわくを抱えながら、美世は山田を迎えに行った。自分が豪腕投手の送り迎えをする。精密機械を運ぶ運送屋の気持ちを初めて知ったような気分だった。しかしその日、積み荷はけだるそうだった。
「あくびばっかりしとるな」
「あ、すいません」
「なんで謝んねん」
 美世は笑った。まだ真っ暗な早朝から山田を迎えに行き、学校へ向けて車を走らせている車中で話していた。
「その、あの後ちょっと寝られなくて」
 美世は昨夜のやりとりを思い出し、気がつくと少し顔が緩んでいた。
(なんか、学生の時分には告白はちょいちょいされたけど、わりかし淡々とした気持ちで、あんな気持ちになった事はなかったなぁ、あれがまともな人間の反応なんやろなぁ)

「ほな、気張るんやで」
 校門から少し離れた所で車を止め、山田にバッグを手渡した美代はパーンと山田の背中を叩いた。
「はい、今の僕は無敵です、背中に勝利の女神を背負ってますから」
「よっしゃ行け」
 山田は美世を見てニコリと笑うと校門に向かって走っていった。山田の背中が見えなくなると美世は車をグラウンド側に回して止めた。少し薄暗いグラウンドでは既にキャッチボールをしてる部員が何人かいる。
 校舎側の階段の下にあるベンチではバッグをゴソゴソとして準備している部員がいて、何人かはパンのようなものを食べている。そこへ山田が走ってきた。ひときわ長身の山田はすぐに判別できる。
 山田がベンチに座って弁当を取り出すと周りの人間が集まって来た。ゾロゾロと校舎側の階段を降りてきていた寮生も一連の流れで山田の周りに集まった。山田は次々に弁当に手を出そうとする部員の手の甲をもぐらたたきのように叩いている。
「ふふ」
 美世はほくそえんだが、ふと人だかりの横を見ると、試合の時のように女の子が突っ立っている。ただ、格好はジャージではなく制服だ。表情は全くわからないがこちらを見ているような気がする。こちらには目標物らしき物は美世と車以外には樹木とフェンスしかない
 美世は後ろを振り返って風景を見回したが、ただの低層住宅街だ。
「なんや気持ち悪い、ホンマに幽霊ちゃうか」

「やっぱり昼までしか持たんかったか
 夕方、山田の様子を見ようと学校まで出かけ、フェンス際に車を止めた美世に気づいてグラウンドを走ってきた山田は片手にクーラーバッグ片手に齧りかけのパンを持っていた
「いえ……実は朝練前と朝練後に全部……すいません」
「はあ?周りのもんに食われたんか
いえ、一口たりとも他人には……」
 絶句して言葉を失っていた美世だが気を取り直して言う。
「こら騒動やな、あの量で朝練前か、いや朝練後ぐらいまではなんとか耐えたか」
「すいません、美味しくってつい」
 山田の言葉に美世の顔がほころんだ
こら料理人の腕が鳴るで、こうなったらお前の食欲との勝負やな」
「そんな頑張らなくていいです、配分できなかった僕がバカなだけなんですから無理しなくていいです」
「いいや、このままでは食い倒れの町で生まれたもんの名折れや、意地でももう食べられませんと言わせてみせる」
「ほんとすいません」
 言葉とは裏腹に山田は嬉しさを隠せない表情を浮かべた。
「ちょっと待ってください」
 山田はフェンス沿いに走っていくとしばらくしてわき道から歩道に出てきてこちらに走ってきた。そして美世の所まできて立ち止まるとバッグを差し出した。
「ご馳走様でした、マジ美味しかったっす」
 美世は胸の奥にかつて感じた事のあるむず痒い感情が沸き起こるのを感じた。料理の手を抜いたわけではないが、ことさら特別な事はしていない。
 作れば食べてくれるという単純な構図に美世は心が潤んだ。料理は自分で覚えた。料理番が不慮の事故で亡くなった後、新しい料理人の食事には手を着けず、故人の書いた料理帳を見ながら必死に再現した。時に食べさせてくれた母の味もひたすら思い出しながら研究を重ねて
近いものが作れるようにはなったものの、誰と分かつこともない食卓での儀式。腹が減ったら自分で作る。作ったら自分で食べるという単調な生活をひととき変えてくれたのは鷹山だった。人に与える喜びが沸々と蘇る。山田は屈託なく笑った。