降り頻る雨の中、いつものように近所の住宅街を徘徊する妻を見つけた。時刻は午後三時、傘もささず、ずぶ濡れで立ち尽くすワンピース姿の妻に近づいていく。
「千紗。ここにいたのか」
 傘に入れると、ぼんやりとしていた妻がようやく俺を見た。
「あなた。お腹の中の赤ちゃんの為に洋服を買い行こうとしたのよ。でもここがどこかわからなくなっちゃって。せっかく買いに行ったのに。確かに駅に向かったつもりなの」
「それは大変だったね。なぁ千紗、今日はもう帰ろう。買い物は今度一緒に行けばいいじゃないか。じゃないと君の身体が心配だ」
「そうね。帰りましょう」
 俺は、妻の手を引いて自宅へ戻った。帰り着くと濡れた体を拭いてやった。
 着替えを済ませた後、妻はキッチンに立った。慣れた手つきで夕ご飯の仕込みを始めた。外を出歩いた事で少し気持ちが落ち着いたのかもしれない。
 俺はソファーに腰かけると妻の鼻歌を背中で受けながら、止みそうで止まない雨を眺めた。
 今年四十歳になる妻が若年性認知症とわかった。診断されたのは三年前の事だ。この若さで発症するのは珍しくないと医師は言ったが、俺自身やはり動揺した。
 特に妊娠していると思い込んでいた事に関しては衝撃的だった。妻は子宮筋腫で子宮を摘出している為、妊娠するはずがないのだ。
 認知症の発症により妻の介護を余儀なくされ、心身共に負担は大きかった。
 かといって落ち込んではいられなかった。それに伴侶として選んだのは俺だ。守る義務がある。仕事をこなしながらも妻の為に精一杯の事をしてきた。
 だが、人生はそう上手くいかなかった。
 雨音と妻の鼻歌を聞きながら、昨日受けた医師からの告知を思い出す。ステージWの胃癌。俺はあと数ヶ月で死ぬ。
 身体の違和感を感じた時には遅かった。今すぐにでも入院を勧められている。だが、妻はどうなる。
「あなた」
 声をかけられ振り返る。屈託のない笑顔を向ける妻に微笑んでみせた。
「なんだい?」
「冷たいお茶いれたの。はいどうぞ」
「ありがとう」
 一気に飲み干すと妻が口に手をあてて笑った。
「あなたったらそんな一度に、子どもみたい」
 柔らかな表情を見て、込み上げてくる思いに目頭が熱くなった。介護が必要な妻よりも先に死ぬ運命から抗う事など出来ない。
 一人っ子である妻の両親は既に他界している。俺の親も重い持病を抱えており頼れない。俺がいなくなったら妻は施設に入るしかなかった。この若さで死ぬまで施設で暮らす事になると思うと胸が痛んだ。
 零れ落ちる涙を見られまいと俯き手で顔を覆う。
「あなた、どうしたの? どこか痛いの? ねぇったら」
 俺の顔を覗き込もうとする妻を強く引き寄せた。背中に回した手から伝わる華奢な身体。涙で濡れた手が妻の服を濡らす。
「あなた……?」
 妻が耳元で囁いた。不安そうな声を聞きながら、俺はゆっくりと語りかける。
「なぁ、もしも……俺が先に死んだら……どうする? 寂しいかい?」
「急にどうしたの?」
「それとも、俺の事なんてすぐに忘れてしまうのかな……。なぁ、答えてくれ。俺が先に死んだら……辛いか? 苦しいか? それなら……一緒に死んだほうが……」
 背中に回した手をそのままジワリと上に移動させていく。
「ねぇ、あなた?」
「……きっとそっちのほうが」
「あなた。お願い。聞いて」
 その声はひどく穏やかだった。俺は妻の首にかけようとしていた手を止めた。
「……なんだ?」
「あのね私、嬉しいの。あなたと出会えた事、こうやって一緒になれた事。毎日が楽しくて仕方ないの。こんな日がくるなんて思わなかった。今、すごく幸せよ」
「……千紗」
 妻が体を離して、ニッコリと笑いかけた。再び涙が込み上げてくる。もう我慢できなかった。大粒の涙が頬を濡らした。
「どうして泣いているの? 死ぬなんて随分と先の話をしたり、突然泣き出したり、今日のあなた変ね」
「ごめんな。そうだよな。今日の俺、変だ」
「なにそれ。おかしな人」
 そう言って妻はまた笑った。幸せだという妻の想いを強く感じて、己の愚かさに気づいた。
 俺は馬鹿だ……本当に。
 雲の切れ間から光が射し込んできた。気づけば雨は止んでいた。
「千紗。少し散歩しないか?」
「ええ、もちろんいいわ」
 外に出ると、俺たちは手を繋いで歩き出した。雨で濡れた世界が陽の光を浴びて輝きを放つ。ゆっくりと流れていく時間は穏やかで幸せな気持ちになった。
「あなた、見て。虹よ」
 妻が空に向かって指差した。見上げた先には、透きとおるような眩い虹が弧を描いていた。
 愛する者と共に眺める景色。
「あぁ、綺麗だ」
 それは本当に、綺麗だった。