天正九年三月二十二日、今宵の総掛かりを前に城将の岡部元信殿が主殿にて、最後の軍議を開いていた。
 某、横田甚五郎尹松も軍議の席に居た。
 諸将は長期に渡る、兵粮攻めで食う物にも事欠き、痩せ細り頬はこけている。
「今宵、亥の刻に生き残った兵が一丸となり大手門から敵陣に切り込む。若し首尾良く敵を突破出来たならば一路、甲斐へ向かうべし。主力の七百は儂が自ら先頭に立って突っ込む。手練れの五十は甚五郎、其方が率いよ」
「承知仕りました。此の横田甚五郎、父、祖父の名を汚す事無く、見事に散って見せまする」
「勘違いをしてはならぬ。甚五郎、其方は抜け道の犬走りから此の囲みを突破し、生きて御陣代様に最後の様子を知らせるのじゃ。良いな」
 岡部様は斯様に申されると拙者の右肩を軽く叩いた。
 顔を見上げると優しく微笑んでいた。
「某が生き残れと申されますか」
「左様。死ぬ事だけが御奉公と考えるな。其方はまだ若い、生きて戦場を駆け回り自慢の槍で武功を挙げるのじゃ」
 某は岡部殿の気遣いに胸を打たれ、不覚にも双眼から涙が零れ落ちた。
 此の時、某は岡部殿に甲斐の御陣代様に送った文について話さなければと思った。
 今言わなければきっと後悔するに違いない。
「岡部殿、某、御陣代様に後詰は無用との文を送りました。今は織田との和議が進み事を荒立ててはいけないと思いその旨を書いた次第で御座いまする。誠に申し訳なく、此の首であれば喜んで差し出しまする」
「甚五郎、もう良いではないか。儂が其方の立場であればきっと同じ事をした筈。気にするでないぞ」
 岡部様は怒り出すどころか、優しく諭す様に言ってくれた。
 某は板床に蹲った。
 童の如く泣き始め、床板を両手で叩いた。
「よし、よし、よし。甚五郎は泣き虫であったか。じゃが、それは優しき心を持った証じゃ」
 岡部殿は童をあやすが如く某の背中を擦ってくれた。
「御陣代様は若しもの時は城を明け渡し城兵を救う事を仰せで、矢文で知らせたが拒絶された。此の皺首一つで多くの命が助けられれば本望であったが。斯様な愚痴を申しても始まらぬな」
「岡部様、大鎧に身を包みまして御座います」
 岡部殿の便女である、つるの声がした。
 水干袴を穿き水干衣の上に大鎧を着用し天冠を被っていた。
「おお、つる、綺麗じゃ。よう似合っておるぞ」
「有難き幸せ、岡部家に伝わる大鎧に身を包み戦えること、誉れに御座いまする」
「誰か、化粧道具を持て参れ!」
 岡部殿が側近に命じた。
 運ばれてきた化粧道具から紅を取り出し、岡部殿自らつるの唇に紅を差した。
「美しい」
「誠に御座いまするか」
「嘘は申さん、見てみよ」
 岡部殿が手鏡を取りつるの顔を映した。
 つるは無言であったが、満面の笑みを浮かべていた。
 死地に赴く者とは思えない華やかさを某は感じた。
「皆の衆、いざ打って出るぞ!」
 岡部殿が大音声で叫ぶと、
 一斉に、
「応!」
 と大地を揺るがす声が響き渡った。
「石附殿、後は頼む」
「岡部殿、承知仕った。御武運を」
 武田家一の槍の名手石附丙三殿が別れを告げた。
 某率いる五十名は犬走に向かった。
 大手門から喊声が聞こえた。
 此れを合図に一気に闇夜を駆け抜けた。
 途中百名ばかりの敵兵に遭遇するが何とか十一名が突破出来た。
 無事に甲斐に戻り御陣代様に城の悲劇を報告した。
 御陣代様は涙を流されながら聞いて居られた。