3月10日の深夜、私は墨田川の畔を歩いていた。
 仕事の帰り道、忙しく何もできない私にとって、畔を歩きながら夜景を見るのが楽しみであった。
 腕時計を見ると蛍光塗料の針が23時50分を指している。
 もうこんな時間か、そろそろ家に帰らないと。
 すぐ傍にあるのタワーマンションに向かって歩みを進めていると、俯せに倒れている女性を見つけた。
「大丈夫ですか!?」
 私は女性に声を掛けた。
 女性は意識を取り戻し起き上がった。
「ここはどこですか?」
「隅田川の畔ですよ。佃島です」
「佃島? 本当ですか?」
 電燈に照らされた女性の顔は怪訝そうな表情を浮かべている。
「ええ、嘘じゃないですよ」
 女性は不思議な格好をしていた。
 上半身はセーラー服なのだが、下半身はモンペに運動靴という出で立ちだ。
 まるで戦時中の女子学生を思わせた。
 よく見ると頬や白いセーラー服は煤で汚れている。
「どうしてここへ?」
「わたしは空襲で逃げて隅田川に向かって全力で走っていたんです。そしたらいきなり爆弾の爆風で吹き飛ばされて……」
「そうでしたか」
 私は女性の言うことが俄かに信じられなかった。
 だが、真面目な表情で話している。
「全然、焼けていない! ひょっとして昭和二十年ではないのですか!?」
「今は平成二十九年です」
「へいせい!?」
「昭和は随分昔の話です」
「そうですか、私は違う時代に来てしまったのね」
 これは何だかの原因でタイムスリップして現代にやって来たのだろうか。
「良かったら、私の家に来ませんか、服も顔も煤だらけです、シャワーでも浴びて下さい。もちろん下心なんてないですよ」
 冗談ぽく言うと、女性はクスッと笑った。
 よく見ると細面で鼻が高くて綺麗だ。
 昔の女優で言えば原節子と言った所だろうか。
 そう言えば去年亡くなった祖母も若い頃は原節子に似ているのよって言われたって言っていたっけ。
 30階にある私の部屋に案内すると、使い方を教えてシャワーを浴びさせた。
 着替えはちょっと大きいが私のジャージを着てもらった。
 実際に着てみるとやはり大きすぎたようだ。
「申し訳ありません。一人暮らしで女性ものの服がないもので」
「いえ、気になさらないでください。お風呂まで頂戴して贅沢は言えませんわ」
 女性はバスタオルで髪を拭きながら言った。
 その情景が何とも美しく見えた。
 上気した女性の頬は私を魅惑した。
「ここから見える夜景はとても綺麗ですね。活動写真で見たメトロポリスを思い出します」
「活動写真?」
「活動写真を御存知なくて?」
 私はスマホで活動写真を検索した。
 映画の事であった。
「今では映画と言います」
「映画って言うんですね」
「まだ、あなたのお名前を聞いていなかったですね」
「人に名前を聞く前にご自分から名乗らないと」
 女性は笑みを浮かべ邪な口調で言った。
「私は野田敬一郎といいます」
「わたしは山野百合子と申します」
 山野は祖母の旧姓である。
 私はタイムスリップした祖母に会っているのだ!