じっとりと熱く湿った夜の事でございます。わたくしは縁側に腰を下ろして夜空を見上げておりました。
4321個の星たちが思い思いに瞬く中でも一際明瞭に輝くのは、蠍座のアンタレスです。
その妖しい程の赤はサソリの心臓で、星座の蠍ですら赤い血を有している事に驚愕と密やかな嫉妬を覚えながら片手で団扇を仰ぎ、頭を冷やしていた時です。
「ことば、こちらにおいで」
 先生の静かなお声が茶の間から響き、わたしの脈は一度強く打ちました。
「はい。今おそばに参りますわ」
 わたしは縁側の板を傷めないようにそっと立ち上がり、茶の間に向かいました。
 この間、頭の中では色々な疑問が渦巻きに渦巻きます。先生がお声を下さるのは実に305日と11時間ぶり。前回は生垣の向こうから迫る山々が赤く燃えておりました。
 あの時もわたしはやはり混乱し、それこそ何をどう考えるのが正解なのか分からずに、とりあえず沸騰する頭を冷やそうと、団扇をひたすらあおいでしまい、
団扇は夏に使うものだ、とお叱りを受けたのを覚えております。
 それを思えば今は夏。堂々と頭だって冷やせます。と、一種爽やかな解放感と共にぶんぶんと扇風機並みの速度で仰ぎ過ぎたからでしょう。
 団扇はわたしがつまむ柄から、乾いた、随分と素っ気の無い音と共に砕けました。やってしまった。
 全身に自然冷却を感じます。
 これがいわゆる血の気も凍るというものでしょうか。わたしは新しく学習をしました。

「ことば、こないのかい。それとも僕の声が分からなくなったのかな」
「今伺います。お待ちあそばせ」
 柄から砕けた団扇を乳房の谷間に忍ばせて、わたしは再び先生のいらっしゃる茶の間に歩き始めます。
 畳を傷めないように。でも、できるだけ速く。