「別れるなら春がいいね」とあなたは言った。
「そうだね」と僕は答えた。
はらり、はらりと花びらが舞う庭の池のほとりで、君は静かに佇んでいた。

 彼女を最初に見たのは、母の四十九日が終わった春の午後だった。幼い僕が、それ以来思い出したように現れる彼女に抱いたのは、
今思えば慕情だったのかもしれない。
 灰青色をした小格子の紬に桜の小袖を着た古風な成りの彼女を、子供のころは近所の綺麗なお姉さんくらいに思っていたのだ、今考
えれ呑気な話だ。そういえば、彼女を見なくなってずいぶんと経った気がする。あのうららかな春の日は何年前の事だろう。

 ――帝国陸軍発表、昨年八月以降引続き上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し激戦敢闘、克く敵戦力を撃砕しつつありしが、
其の目的を達成せるに依り……。

 僕が中等学校を出るころに、ずいぶんと威勢のいい話が聞こえてきた戦況も、高等学校に入るころには大人たちの半分はもう勝てる
とも思っていなかっただろう。母を亡くして以来、父親は放蕩の限りを尽くしていて、名家と言われたうちの家も残っているのはせいぜい
屋敷くらいのものだ。
「ヨネ、親父は?」
 僕の問いに乳母が黙って首を振る。
「そうか」
 また、妾の……といってもどの妾のところかは知らないが、まあそういう事だろうと小さくため息をつく。とはいえ、この戦争のさなか、
こうして学校に行けているというのは、ありがたい話ではある。

 戦況が益々切迫し、僕の住む地方都市ですら時折、空襲警報が鳴り響くようになってなお、まだ勝てると喧伝する国家を、内心笑い
飛ばしていた僕たち学生にも、その影は確実に手を伸ばし、それはもはや身分や生まれで逃れる事ができるレベルの話では無くなって
きたある日の事、ふと庭を見た僕の目に彼女の姿が飛び込んできた。

 ――ああ、なるほどな

 なぜだか僕は納得して、引き戸を開けると縁側から庭へと降りた。素足に草履がひやりと冷たく、突き刺さるように感じながら。

「久しぶりだね」そう僕は話しかける。
「別れるなら春がいいね」とあなたは言った。
「そうだね」と僕は答えた。
 はらり、はらりと小雪が舞う庭の池のほとりで、君は静かに佇んでいた。

 他の学生たちと共に汽車に揺られる。薄いベールのように粉雪が車窓を流れてゆく、そろいの軍服を着て、僕たちは横浜行の汽車に
ゆられていた。見送りにきたのは乳母とその娘がふたりきり。次にあの家に戻る事があるとすれば……いや、そもそも、僕はここへ戻れ
るだろうか……。そして、まだ君はそこにいるだろうか?


 「万朶の桜か襟の色 花は隅田に嵐吹く 大和男子と生まれなば 散兵綫の花と散れ」

 半分自棄になったように、学友たちの軍歌が響く。 はらりと、冬のこの時期にありえるはずのない、桜の花びらが、僕の制帽から一枚
零れ落ちる。それがあなたの涙のようにおもえて、車窓の景色がゆがんでゆくのを抑えられなかった。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)