「別れるなら春がいいね」とあなたは言った。
 そうね。離婚が決まったとはいえ、これから引っ越し先も探さなきゃいけないし、荷物もあるし。暖かくなった頃がちょうどいい。
 私は赤ちゃんにミルクをあげながら、そんなことを考える。でも少しぼーっとしていたのかも知れない、迂闊にもつい聞いてしまった。「どうして?」と。
「春という字は、左右対称だから」
 それを聞いた瞬間に、血圧が一気に上がりこめかみに血管が浮き出てくるのを感じた。
「この期に及んでまだそんなことを…。あなたがそんな風だから!」

 彼が左右対称に拘るのは、今に始まったことではない。出会った頃からずっとそうだった。
 宇治平等院と東京タワーが大好きで、スカイツリーは歪んで見えるから嫌い。立っている時は常に直立か仁王立ち、座る時も胡坐はバランスが悪いからと正座だ。自動車の運転席はなぜ真ん中じゃないんだと、乗るたびに文句を言う。ジェット機は機能美の極致。
 この人がなぜこんな性格になったのか、その理由はその名前にあった。
 『中本甲士』。彼は物心ついた時から自分の名前に誇りを持ち、シンメトリーこそ究極の美、左右対称は正義という信念のもとに生きてきた。
 そもそも彼が私を好きになったのも、私が長身で背格好が自分に似ているからだそうだ。二人並ぶと左右対称に見えて気持ちいいらしい。
「一生僕の隣にいてくれ」というのがプロポーズの言葉だった。
 私も、未央というごく普通の名前を褒め称えてくれる人など初めてだったので、とても嬉しかったのだ。
 新築の家も左右対称だ。キッチンとお風呂の配置はどうするのかと思ったら、どちらも真ん中、1階がキッチンで2階にお風呂になった。あったま良いーと、その時は思っていた。
 そんな私が、彼を嫌いになったのは、この子が生まれてから。
 美華と名付けられた娘(華という字にずっと憧れていたらしい)に対して、彼は度々文句を言うようになった。いや、決して美華を嫌ったわけではなく、子育ての様子が左右対称でないと言うのだ。
 横抱きはバランスが悪いとか、抱っこして並ぶと左右対称にならないとか。
 育児疲れもあったのだろう。私は激怒し、同時に彼の性癖が我慢ならないものになった。彼も意固地になり二人の関係はどんどん悪くなって、ついに離婚と相成った。
 そして春になり、私は新居に移った。左右対称でない普通のマンションに。
 それからは、一人静かに子育てに専念する毎日だ。まだ仕事は無理だけど、貯金はあるので1年くらいはなんとかなるはず。あいつもこれで満足だろう。あの左右対称の家の中で、一人で好きなだけ仁王立ちすればいい。
 でも……。
 最近、立ち眩みがひどい。
 妙にフラフラするし、じっとしていても落ち着かない。歩くのもままならないどころか、ソファに座っているだけで自然と体が傾いてしまう。
 子育てと離婚のストレスのダブルパンチで体がおかしくなってしまったのだろうか。私は美華を抱いて、なんとか気力を振り絞って病院へと向かった。

 病院から戻ると、マンションの前に男の人が立っていた。
「甲士くん?」 でもその姿は、顔中包帯と絆創膏だらけで、服もボロボロ。壁に寄りかかって立っているのも辛そうだ。
「わああっ、未央ちゃあん!」 彼は私に気付くと、その場に崩れ落ちて泣き叫んだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい! 僕が悪かった! 許して!」「どうしたの、その怪我? 何があったの?」
「駄目なんだ。僕はもう、左右対称じゃなくなってしまったんだ」「どういうこと?」
「君と美華がいなくなってから、僕はおかしくなってしまったんだ。左側が空っぽで、まともに歩くこともできない。すぐ転んだり壁にぶつかったり、車道に転がり出て何度も轢かれそうになった」
「そんな、今までも24時間一緒にいた訳じゃないでょ。会社にだって一人で行っていたのに」
「そんな事じゃないんだ! 君がいないと思うだけで、僕は一人で立つこともできない。君が僕の半分なんだ!」
 はあ、何だか子供みたい。でもそうね、あなたはずっとこうだった。
「それで? 私にどうして欲しいの?」
「お願いします、戻ってきて下さい。でないと僕はもう生きていけない!」
 私だって、きっとそう。いつの間にかそういう体になっていたんだわ。
「いいよ。でも、戻っても左右対称にはなれないよ?」
「大丈夫! あと半年我慢すれば美華も歩けるようになる。そしたら美華を真ん中にして二人で手を繋ごう、それで左右対称だ!」
「半年…そう、秋ね」
「あ、秋? うーん、秋って全然左右対称じゃないんだよな」
 まったくもう、あなたときたら。
「馬鹿ね。秋は、実りの季節でしょ?」