―別れるなら、春がいいね。
唐突にアデルが言った。その時私達は自動車のシートに収まり、私は支配下にある右手で、本のページをめくろうとしていた。
低くなめらかな声。発声と同時に生じるわずかな振動を私は感じる。そんな気がするのだ。私は視線を右肩に送る。
窓の外を冬枯れした並木が流れていく。
―なんの話?
私は彼が何を言いたいのかわからず訊いた。
―手術の話。この春にしようよ。
私は途端に重苦しく、苦い感覚を味わう。体外からの刺激に反応して脳内を巡るホルモンについて、私は全く無知で、
おそらく理解することもできないが、間違いなくこの感覚は私だけのものだ。この気分をなんとか弟にも共有させてやりたい。
―新しい人生を始めるのにお誂え向きだ。暖かい方が順応にも好都合だし。

アデルは私の弟だ。体の性別は女性だが、本人の主張によって男性だということになっている。
男性型の声帯の為に、その主張は自然に受け入れられている。最近の検査でIQが200あることが判明した。
私に対してやや高圧的、管理的かつ批判的なのは、そのせいなのだろう。わたしはそんなに頭が良くないから。

彼は彼の支配下にある左手で本を閉じた。
―結論を出すべき時だよ。姉さん。
私はため息をつき、彼は足を組み替える。忌々しいことにこの二本の足は彼のものだ。
―私は嫌よ。生憎だけど。
アデルは冷ややかな笑顔を浮かべる。こんな時、必ず口の左端を持ち上げるのは、私に見せつけるためだろう。
―どうして?姉さんは僕のこと嫌いだろう。
―ええ、大嫌い。その澄ました顔も、なんでもわかってます、みたいな物の言い方もね。気に食わないわ。
―じゃあ、いいじゃないか。僕たちのどちらも損はしない。この体に対する親和性は僕のほうが高い。僕を切り離せば姉さんの命が危うい。
―するわよ。この体は私のものでもあるのよ、自由になるのが右手だけでもね。あんたには渡さない。
―同意しなよ。僕はもう双頭のバケモノとして生きるのはゴメンだ。指さされ、顔を背けられ、憎まれ、憐れまれる。
女の体も我慢ならない。不潔極まりなくてね。この体でいいことって言ったら、マスターベーションする時ぐらいじゃない?
―私は女なんだから、この体が自然なの。もう少ししたら、人工授精で妊娠してやる。男は分娩痛で死ぬらしいけど、試してみる?
私は歯を剥き出しにして笑って見せる。アデルは心底うんざりした表情でかぶりを振った。

アデルは私を切り離したあと、性転換するつもりだ。新しい男の体で本物の女とセックスしてみたいのだそうだ。
現代の技術をもってすれば手術が成功する確率は極めて高い。アデルはすでに人工人体、いわゆる擬体の研究者として地位を確立している。
実際のところ、私達の生命を保つ為の費用は、彼のおかげで賄われている。彼が仕事をしている間、私は(カロリーの節約も兼ねて)眠っているのだし。
―姉さんを殴って黙らせることも可能なんだがね。
―あんたの首を締めることだってできるのよ。
私はどうなるのか。アデル(と医師団)によると、私はデータ化され、完全な全身擬体が開発されるまでコンピュータの中で生きることになるのだという。
もし研究が順調に進めば、先に頭部を手に入れることは可能かもしれないとか。冗談じゃない。
私は腹が立った。

私はオートドライブをオフにするとハンドルを切ってアデルの左手を抑えた。車が車線を越える。
血相を変えたアデルがブレーキを踏み、車は反対車線にはみ出して止まった。幸い、対向車はない。
―何をするんだ!
アデルが怒鳴るのは珍しい。
―一蓮托生なのよ、あたしたちって。
―やれやれ。
気の抜けた表情でシートにもたれたアデルが車をスタートさせ車線に戻そうとしたその時、衝撃が私達を襲った。
スローモーション。ガラスにヒビが入って砕け、ドアが圧し曲がる。驚愕するアデルの顔。
気がついた時、私は病院の白いベッドの上にいた。シーツも壁も天井も白い。肩に巻かれた包帯だけが赤茶けていて、右腕はなかった。 
突っ込んできたのは、老人がマニュアル操作する車だった。事故を防ぐための方策は様々取られているのだが、人の行いが理解を超えることは、あることだ。

―責任は姉さんに取ってもらうよ。何しろ僕の姉さんだからね。 
ラボ。アデルはパームトップ・デバイスの中から指示を出す。ディスプレイに表示された彼は至って不機嫌そうだ。
私はデバイスを操作することさえもどかしい。私のものではなかった私の体はなかなか思い通りに動かないからだ。長いリハビリが必要なのだ。
―姉さんは僕のボディだ。いや、バディと言うべきか。
いつか私達は本当の姉弟になれるだろうか。