仕事関連の飲み会が思っていたよりも早く終わった。義母に預けた子供達を迎えに行く予定の時間まであと二時間弱ある。
早く終わりました、と電話を入れて迎えに行くことも可能なのだが、正直、まだ飲み足りなかった。何より数年ぶりに独りで夜の繁華街にいる自由を簡単には手放したくはなかった。
小一時間だけ、と自分に言い訳をして、既に酔っている者、これから酔うつもりの者たちの喧騒を縫うように歩く。
あてがあるわけではないが、たまにはBARにでも行き何かしら上等な酒でも飲もうかなどと漠然と思っていた。

 ネオンサインが派手に夜の歩道を照らすなか、街の暗い方、暗い方へと選んで進む。
広い道から狭い道へ、さらに狭い路地裏へと歩みを進めると、怪しげな風俗店がならぶ一帯にたどり着いた。
流石にこんなところにBARなんて無いか、客引きの声を無視して踵を返そうとすると一件だけそれらしき佇まいの店が目に入った。
店名だろうか、古びた木製の鎧戸に「Blind Lemon」とだけ書かれてある。

 あてがある訳でもないし、店を探す時間も惜しかったのでとりあえず入ってみることにした。
 扉を開けると「カラン」という鐘の音とともに「いらっしゃいませ」という声が返ってくる。
蝋燭の灯り程度の照度に目が慣れるとカウンターだけの店内に先客が三人、そして年配のバーテンダーと若い女性のバーテンダーが接客をしているのが見えた。
カッターシャツ、それから黒いベストに蝶ネクタイ、クラシカルなスタイルだ。

 バックヤードに所狭しと並ぶスピリッツの瓶と、一際輝きを見せる真鍮製のビールサーバー。二つある内の一つには「ギネス」の看板がつけられてある。
中々に本格的なBARであるようだ。

 先客の女性三人組から席を二つ開けた所に座ると女性のバーテンダーが前にやってきてコースターをスッと差し出した。
静かでスマートな動きだ。とりあえずギネスのドラフトを注文する。その間にバックヤードの瓶を眺めて、今夜の酒のプランを考えていた。


「お待たせいたしました」

 ピルスナーに入れられたギネスを恭しく差し出しバーテンダーは言う。
上層20mm程度の泡はきめ細やかで、触れたグラスの温度は冷た過ぎない。冷蔵庫で言えば野菜室の程度の冷たさだ。
良く分かっている、そんな印象だ。

 とりあえずグラスを口に運ぶ。

 上唇が泡に触れる。液体であるはずなのに弾力を持ち、啜ればクリーミーな味わいが口に広がる。
そのままグラスを傾ける。黒ビール特有の香ばしい香り、鮮烈なホップの苦味、続く黒糖のような甘み、そして仄かな炭酸の刺激に、喉がコクン、と悦びの音を鳴らす。
ああ、ギネスだ。そう、思う。
ビールは喉で味わうものだ、と誰かが言っていたが、なるほどなと感じいる。思わず一息に飲み干してしまった。

「お客様、良い飲みっぷりですね」

バーテンダーが微笑みながらいった。

「次は何にされますか?」

「ありがとう。しかし、凄い品揃えですね」

「飾ってないものもありますので、何でもおっしゃってみて下さい。バランタインの30年などいかがですか?」

「冗談じゃない。僕の財布の中身なら数滴しか飲めませんよ」

 笑いながらそう返す。一杯十万円はくだらないだろう。クラシカルな雰囲気の割には気さくなバーテンダーだ。彼女に、ちょっと酒を見せて下さい、と頼むとバックヤードが見えやすいように身体を避けてくれた。

 各種リキュール、シングルモルト、ブレンデッド、アイリッシュ、コニャック、アルマニャック、ロンドンジンにオランダジン、ウォッカ、テキーラ、ラム、グラッパまである。
本当に凄い。眺めているだけで一時間が過ぎてしまいそうだ。

 ふと、バーボンエリアに見慣れた黒いラベルを見つけた。

「あの、すいません。メーカーズマークの後ろに隠れている酒って、ひょっとして……」

「ああ、こちらですね。はい。エズラブルックスです」

 そういい、彼女は懐かしいそのボトルを目の前に置いてくれた。黒地に白いアルファベットの文字。エズラブルックス。私はかつてこのバーボンばかり飲んでいた時期があったのだ。