天龍川沿いは結構、武田方の城があったのを知って驚いた。
川沿いに南から北へいくつも城が連なっている感じで。
もし浅間山の噴火という事態がなく、士気もあったなら、僅か一ヵ月で武田が崩れることもなかったと思う。
一つの城が失落しても、まだ城がいくつも控えているので、攻めての織田徳川は苦戦したと思う。
というのは城の一つである大島城には兵は一千、兵粮、鉄炮も玉薬もかなり備蓄してあったからだ。
こうしてみると国主としての勝頼の運がホント無かったと実感する。
武将の才覚で武芸、指揮、統治能力は重要だが、ホントは一番大事なのは運ではないかと私は思う。
信玄に関しては第四次川中島〜三方ヶ原、勝頼は東美濃攻略戦〜田野まで描いていますが、
国主、武将としての資質は勝頼の方が高かったと思います。
東美濃攻略戦では瞬く間に十八の城を落とし、父信玄すら落とせなかった高天神城を落とす力量を見せた。
しかし、諏訪四郎から武田勝頼になったという経緯から、重臣から甘く見られていた。
更には御親類衆が勝手に退却して長篠では惨敗とホント運がない。
しかし、勝頼は兵を立て直し、織田徳川が対峙する西部戦線では互角に渡り合い、北條が対峙する東部戦線では
北条領を侵食し最大版図を確立した。
しかし、岡部丹波が守る高天神城を見捨ててしまったことが響き、滅亡へと突き進んでしまう勝頼の悲劇を見ると、本当に運が無いと思う。
田野の戦いは、さらに加筆して力を入れていきたいです。
既に一回、田野の戦いはワイ師匠にも見て貰っているんですが、それより良いものが出来ると思います。
其の際は宜しくお願いします!