東キャンパスでの講義は、1,2年次に専門分野と科目群が忙しすぎて、取り損ねたリベラルアーツの単位を補間するためだった。今回は国際教養学部の国際法・国連憲章の講義だった。過去の戦争の歴史の上に立つ論理だ。
 ここは俺の独断場だった。でしゃばりはしなかったが、彼女に理解できない所を所々手を添えると、すごく感謝されて嬉しかった。
 それから小林さんは西キャンパスに戻って実験だというので俺は帰って来た。素人が実験室をうろつくわけにはいかないらしい。
 東キャンパスでの小林さんは、ちょっと小洒落た女性とすれ違いそうになると俺の後ろに隠れた。そんなんで普段はどうやって東キャンパスをうろついているのか聞いてみると、遠くにいるうちに索敵して回避しているそうだ。
 ゲリラ戦かよ……。俺の後ろだと安心するので逃げなくていいと言われたのはちょっと嬉しかった。なんでも昔はお洒落な人にただ羨ましかっただけだが、コンプレックスが積もりに積もって、やがて恐怖心となり、トラウマになったようだ。
 熱帯魚の中にフナが迷い込んだ気持ちだと言っていた。
 高校の時は制服で、友達もいないし、休日は家で過ごすのでどうという事はなかったが、大学にきて私服になると、そうもいかなくなったらしい。
 アパートに帰った俺は酒を飲んでテレビを見て、明日は休日なので小林さんのお付きもないだろう、という事でネトゲを始めた。すると12時も近くなった頃、ドアチャイムが鳴った。これは確実に小林さんだなと思いながらドアをあけると
いつもと違う表情の彼女がいた。何か酷く憤っているようだった。
「どうしたの」
「夜分にすいません、無礼なのはわかっていますが電気がついていたもので」
「別に大丈夫だけど、上る?」
「お邪魔します」

 コタツ兼用の座卓にコーヒーを出すと、小林さんはすぐに一口飲んだ。
「で? どうしたの」
 そう聞くと、座卓の一点を見つめて歯を食いしばっていた小林さんがくるっと俺を見た。
「今朝雨宮さんに会いましたよね」
「ああ、うん」
「彼女がアミノ酸の精製ですごくいい出来高だったので、聞いたんです、どうやったのか」
「うん、よくわかんないけど」
「そしたらこの間見つけた菌が当たりだったようなんです、だから私も何も考えずに株を分けてくれるよう頼んだんです」
「うん、それで?」
「そしたら彼女に断られました」
「え、なんで? 仲よさそうだったのに」
「リア充は実験なんかしてないで、文系男子とちちくりあってたらどうですかって言われてしまいました」
 女こえー。
「悔しいです!」
 なんか顔芸が得意な芸人みたいな表情になっているが、滅多に感情を顔に出さないだけに妙に可愛い。
「だから協力して欲しいんです」
「は? その分野で俺にできる事なんてないよ?」
「大丈夫です!」
 小林さんは身を乗り出してぐっと拳を握った。

 俺は高田馬場駅前の喫茶店でコーヒーを飲みながら待った。俺は腑に落ちない気持ちで昨日の事を思い出した。

「山梨に菌を探す旅に出ます、同伴してください」
「は? なんで山梨なの?」
「山梨にはなんかいい菌がいそうな気がします」
「小林さんにしては珍しいね、そんな根拠のない言い方」
「菌を見つけるのは所詮運なんです、合理的な方法はありません、だから気分でいいんです」
 俺が釈然としない顔をしていると小林さんが言った。
「戦時中、ペニシリンの需要が高まった時、イギリスで研究者が、生産的なカビを求めて探し回ったり、国民にカビの募集をかけたりしました、どのような所で見つかったと思いますか」
「さあ」
「大学に程近い市場から提供されたメロンです」
「ぶふっ、じゃあこの辺にもあるんじゃないの?」
「そういう話じゃありません、確率論です、この場合物量作戦で上手くいきましたが私にその力はありません」
「じゃあどうするの?」
「ちょっと前に雨宮さんは大学のテーマキャンプのイベントで山梨に行きました、そこで菌の採取をしたと思うんです、単なる推論ですが闇雲に探すよりは確率は高いです」
 やはり釈然としない俺に小林さんは言った。
「ワイナリーもあります」
 結局そこかよ。