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お題:『限定スイーツ』『バイオリン』『神話』


【世界で一番美しい音色】(1/3)

 ――音が、止む。
 そして、完璧な静寂が訪れたコンサートホールは、あたかもすべての聴衆が命を落としてしまったかのようだった。
 少しの間を置き、息を吹き返した観客全員が両手を膝から上げる。万雷の拍手。
 もちろん、俺にとって舞台の上へと捧げられるそれは、見慣れた光景だったけれど。

 楽屋への関係者以外の入場は禁じられているので、彼女と再び再会したのは舞台が終わってから数十分後のことだった。

「お疲れさん」
「ありがとー! もう、中に入ってもいいっていつも言ってるのに」

 満面の笑顔で通路を駆け寄ってきた沙良を、俺は軽く抱き留める。
 彼女の聞き慣れたワガママに、俺は苦笑して頭を撫でた。
 沙良のコンサートには長く通っているので、何度か演奏したホールであれば顔を知られていることも多い。少し無理を言えば、確かに入ることもできるのだろう。

「他の人に迷惑だろ。合同なら当然だし、今回みたいにソロの時でも演奏前は関係者全員ピリピリしてる。用もないのに彼氏が入り込んだりしたら顰蹙モノだ」
「むぅー」

 可愛らしく頬を膨らませる小柄な沙良はさながらリスのようで、ちょっとしたワガママくらいなら気にもならない。
 そうでなくても彼女の偉業を考えれば、俺に対するこの程度の子供っぽさの発露で済んでいるのは大したものだった。音楽の世界における巨匠の傲慢さと横暴ぶりは枚挙に暇がない。
 そしてそれがどれほどの傍若無人であろうと、許されるのが本物の天才だ。赤いドレスに着飾った沙良には女王として振る舞う権利があり、けれど彼女はそれをしない。
 望めばすべてが手に入る立場から考えれば、謙虚すぎるほどに。

 そう、巨匠にして、天才。
 弱冠十九歳のヴァイオリニストである三堂沙良は、現代のヴァイオリン奏者においてほぼ疑いなく、世界最高の評価を受けている。チャイコフスキー国際コンクールや
エリザベートコンクールといった世界の名だたるヴァイオリンコンクールを十代のうちにほぼすべて制覇し、あらゆる国際評論家の厳しい論評においてさえ「天与の才を認めざるを得ない」と言わしめた、百年に一度の本物。
 生きた神話、そのもの。

 そんな彼女は、けれど何の変哲もない少女のように笑顔を見せる。
 一つ年上の彼氏に甘える、どこにでもいる大学生の女の子のように。

「あ、ねぇ良悟! 約束、覚えてるよね? 今日のコンサートが終わったら……」
「『限定スイーツのお店』、だろ? 安心しろって、ちゃんと予約してあるから。けどその前に着替えてこい。そのドレス、いくらするのか知らないけどケーキのクリームがついたら悲惨だろ?」
「はーい!」

 沙良は物分かりのいい子供のような口振りで、楽屋に取って返していった。
 本当に可愛い彼女だと、心の底から思う。疑いようもなく、これは幸せな交際だ。
 だからこの子を――殺してやりたいと、何度思ったことだろうか?