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【リレー企画:『ライト・ライト』(1)】
使用お題→『ライト』
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 妙な街だった。
 生暖かい灯の中に浮かび上がる酒一杯をつつくようにして呑んでいると、昼間の光景が目に浮かぶ──私には、この街の人間からくる視線が何か寒々しい含蓄のあるものに思えた。
 このカウンターの向こうで皿の手入れをする機微の通じていそうな店主でさえ、刹那に目を剥いてみせていたのが瞼の裏から離れない。
 彼が「旅の方ですか?」と訊くので首を縦に振って見せると、今の席に案内してくれたので束の間、胸をなでおろしていたが、ちびちびと酒を口に含むうち、水の塊に心を食い破られているような恐怖がわき起こった。
 天井を見上げると、長嘆が喉元を冷やすように這い出る。ほぼ同じに、ドアの鈴が鳴っているのが聞こえた。
「あれェ?」素っ頓狂な声だった。「奇遇ってやつだね」
 床を叩く靴音の方を見やると、馴染みのある顔が目に入る。思わず、おお、と声が出た。
 前の街宿で意気投合した友人だった。
「辛気臭いツラしてるじゃあないのさ」
「ちょっと聞けよ」私は、かなり早口にそう口走った。
 その焦燥している具合に、彼も少し顔をしかめた程だった。
「よくわからないよ、この街。俺はなにかしたかな」
「誘拐」彼が顎で示す部屋の隅には、私の召使いをやる少女がいた。
「あれはちゃんと港で買ったやつだって、前も言っただろ。やめろって。まず傍からみたら彼女と俺は父娘だろうよ。好意的に見られるべきだね」
 友人は肩をすくめてから軽々しく店主に酒を頼むと、これもまた軽やかな足取りで召使いの娘に歩め寄った。
「なにしたらチクビ見せてくれるんだっけ?」
「つつくんだよ」
 私は首を捻って、彼の指先が少女に触れようとするのを凝視した。指の腹が娘の白いワンピースの生地を撫でると、彼女は無言で肩紐を外し、服をはだけた。
 友人は破顔して笑い声を上げる。
「面白いねえ、あんたが躾けたんだろ」
「うん」私は浅黒い肌の上に塗りつけられたような、赤銅色の乳頭を眺めながら言った。
「で、見つめてんだろ。少女は花……ああ、キモチワル」
 いよいよ腹を抱え始めた彼に、私もつられて笑みがこぼれた。ひどく下卑た笑いだった。

 友人が飲みはじめると、二人だけの喧騒はようやく収まりを見せた。
 落ち着いても達者な彼の喋りに聞き入ってばかりいたが、外の往来もかなり静まった頃になってその話題は再び鎌首をもたげた。
「あんた、」友人は言った。「左折しなかった?」
「左折ぅ?」
「そうだよ、左折。左に曲がることだよ。しなかった?」
 しないはずがない。人間誰しも、十字路では右に目的地があれば右に行くし、左に目的地があれば左に行くものだ。
「したさ」私は頷いた。「なんの話だよ」
「やっぱり知らないんだなあ」
「だから」
「落ち着けって。飲み過ぎなんじゃあないの」
 私は、彼のしわくちゃな肌に張り出した頬骨のあたりを注視した。
 彼の方は手元のコップに視線を落として、酒の中に揺らぐ底を眺めているようだった。
「右に曲がらなくちゃいけないんだ。この街ではな。右には光があって、左には闇がある。人は光を求めるはずだから、左に向かうやつは悪魔の類らしい」
「はァ? なんだそりゃ」
「慣習だろ。旅行客に関しては理解のある町人が多いが、夜な夜なリンチをやっているようなやつもいる。あんたも気をつけな」
 満タンの酒樽を叩いたような、鈍い声色だったのが気にかかった。店の灯に照りつけられた彼の表情の中で、黒い影が燃えているように思われるほどだった。
 以前、お気に入りの男娼が死んだと話していた彼の、その時の面立ちが、不意に思い起こされた。
 やがて彼は、コップを唇にぐいと押し当てて飲み干してから、懐をあさり始める(少しそのポケットが前より膨らんでいて重たげなのが目についたが、気にかけることでもなかったのですぐに視野から捨ておいた)。
「もういくよ。あんたも早足で帰りな」
「ああ」
 勘定を店主に収め、足をぶらぶらと投げ出す彼を目尻で見送ると、店は彼と再会したときの騒々しさが嘘のように静かになった。
 手元の酒杯には、未だなみなみに酒が注がれている。コップに顔を近づけて、猫のように舌を酒の中に入れても、もう薄暗い静寂の中では味気なかった。
 単調なものばかり照らし出す明かりに押し出され、私の視界は後ろへ追いやられた。娘が、浅黒い肌を晒したまま、虚空に溶け出しそうな佇まいで隅にいた。