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>>625 【リレー企画:『ライト・ライト』(2)】

使用お題→『病気』

「フロラ」

 この安宿に、カーテンなどという上等な設備は無い。網膜を焼く朝陽を直に浴びながら、
私は召使の少女を呼んだ。フロラ。当然それは、彼女が生まれ持った名などではない。
 彼女は名を削り落とされた類の品物だったし、だからそれは、私自身の趣味で付けた名に過ぎない。
 こくり、と彼女は頷き、私の下へと歩み寄った。異国の少女は言葉を解さないが、名ぐらいは教えられる。

 白いシーツの上で、私は朝の「支度」を手短に済ませる。抵抗はない。痣も傷も、その肌にはもう残っていない。当然だ。私がフロラにそうした強情さを見せる機会など、ほとんどなかったのだから。
 最初から刻まれていた商人によるそれらが癒えれば、それで終わりだ。私が彼女を傷つけることなどない。
 彼女を友人として扱うことがないのと、同じくらいに、無い。

 用が済んでから、私はコートを羽織って顔馴染みの殺人者を探しに出かけることにした。
 残った酒精が頭を苛み、曇った空は何重もの蜘蛛の巣で覆われた、虫による虫籠じみている。
 足跡が百を数える頃には馬鹿らしくなり、飲める水でも探した方が有益ではないかと早々に後悔を始める。
 けれど有難いことに、どうやら私と彼には左に曲がる者同士、引き合う何かがあったらしい。

「やぁ、どうしたの」
 びくりと、街路を歩いていた友人の肩が跳ねる。友人? さて、それは一体誰のことだっただろう。
 彼のポケットの片方は硬い何かで不自然に膨らみ、その重量によってズボンが不均衡にずり下がっていた。
 フロラは何も言わずに佇んでいる。まぁ彼女は彼が人を殺したことを知らないのだから、当然かもしれない。
 だから、代わりに僕が言った。

「気にしているのか? 左へ曲がったことを? 後悔している?」
「あんた……いや、昨日のは、やっぱりあんたか。……後悔? まさかだ。俺はやるべきことをやった」

 そう口にしながらも、友人だった彼はキョロキョロと怯えたように視線を巡らせ、目の下には濃い隈があった。眠っていないのだろう。休んでさえいないかもしれない。
 ゲイの殺人者の気持ちは、私にはわからない。友人ではない男娼を殺されて憤る、復讐者の考えも。
 幼い少女を買って連れ回す人間の病も、周囲からは同じことだろう。

「これからどうするんだ?」
「そりゃ、街を出るさ。一刻も早くな。もうこんなロクでもない所に用はない」
 深い隈のある目元を神経質に瞬かせる彼は、けれど旅荷物を何一つ抱えてはいなかった。
 そもそも本気でそう思っているのなら、夜中の内に逃げ出してしまえばよかったのだ。
 では、彼が本心で求めるのは何なのだろう。罰か、それとも赦しか。
 
 昨夜の酒場での姿とは別人のように変わってしまった彼を眺め、私はかえって、
自分がひどく落ち着くのを感じていた。安定している、振り子のように。
 彼が左へ曲がることを選んだのは彼自身の考えだが、それが常に最良の結末に続くとは限らない。
 後悔しないことさえも、難しいのだろう。糸の切れたまま動き回る人形のように街路を行き交う街の住民に
通り過ぎられる私も彼も、この街には存在していない。その矮小さが、どこか肌に馴染み、染み込んでくる。

 そしてフロラは、何も言わずに。
 彼のずり落ちたポケットの奥の、重い塊を見つめていた。