昭和十九年、サイパン島東方二十マイルにあるサマン島を闘強高校大学予科第一学年生徒隊五百名を中核に守備していた。
 闘強高校大学予科は闘大予科と呼ばれ、現在の闘強大学付属高校である。
 当時は陸軍幼年学校と対比して闘強幼年学校と陸軍内部では言われていた。
 戦前、闘大を卒業すれば下士官の地位を付与され、多くの卒業生が陸軍の門を叩いた事実がある。
 鍛え上げられた精鋭は陸軍にとっても歓迎され、貴重な下士官供給学校であった。
 こうした事を踏まえて闘大予科を闘強幼年学校と陸軍では呼ばれたに違いない。

 絶対国防圏が策定されて以降、来寇した米軍を撃滅したのはサマン島守備隊だけであった。
 他の島、タラワ、マキン、サイパン、ペリリュー、硫黄島、沖縄では力戦敢闘し多くの損害を与えたものの、玉砕してしまった。
 それらに比べてサマン島守備隊は狂信的かつ猛烈な肉弾突撃に米軍は完全に怯え、同島の攻略を諦めた経緯があった。
 ラバウルに堅固な要塞を築き米軍を迂回させたのに匹敵すると言って良いだろう。

 同島守備隊は制海権を失った日本海軍からの補給を望めず、現有の弾薬、糧秣だけで戦わざるを得なかった。
 島には多くの湧き水があり飲料水には事欠かなかった。
 スコールも多く発生し、身体を洗い清潔も維持できた。
 島は隆起珊瑚礁で形成されて、構築した陣地は戦艦の40センチ主砲弾の直撃にもビクともしなかった。
 しかし、食に関しては絶望的で水ばかり飲んでしまい、お腹が膨れ栄養失調になる者も増え餓死する者も増え始めた。
 生徒隊の生き残りは「太刀を交えず餓死するクラスメイトを思うと、悔しくて堪りませんでした。戦場で散華する事に恐れを抱いてませんでしたが、飢えは恐ろしかった」と当時を振り返る。
 
 米軍は生徒隊の狂信的な攻撃に畏怖したと書いたが、もう一つ恐れていたものがあった。
 カニバリズムである。
 近年においても、Sが起こしたパリ人肉事件が記憶に新しい。
 昭和十九年のレイテ決戦では補給の途絶えた最前線で、人肉を喰らったという描写が大岡昇平の「レイテ戦記」にも描かれた。
 一方で小笠原事件では捕虜になった米軍パイロットを処刑して、骸を喰らった立花中将のような例もある。
 
 極限状態で生きるために人肉を喰らったのと、自ら進んで喰らったのを同一視できない。
 前者は無理からぬことであり、事情を酌むべきであろうが、後者は明らかな犯罪だ。
 実際に小笠原事件では首謀者である立花中将は戦犯として処刑された。

 昭和十九年十二月に来寇した米軍は戦艦十隻、重、軽巡洋艦三十二隻、駆逐艦百隻の艦砲射撃のあとに多数の上陸用舟艇で押し寄せた。