出だし、一人称、こんな感じでエエかな!?

>あの戦いから、既に七十年以上の年月が流れた。
 光陰矢の如しというが、あっという間に過ぎてしまった気がする。
 ワシが大東亜戦争に一兵士として臨み、微力ながら干戈を交えたのは人生の誇りだ。
 
 闘強高校大学予科にワシが入校したのは、昭和十九年の二月であった。
 時局が厳しい中、校内の大食堂で赤飯に鯛の尾頭付きが振る舞われ、ワシらに対する期待が伺われた。
 新入生は北は北海道、南は鹿児島からやって来た
 予科一年生は総員で五百名は何れも粒ぞろいの兵揃いで、そのまま戦地に赴いても十二分に戦えたであろう。
 一騎当千、いやサマン島の戦い振りを顧みれば一騎当万と言っても過言ではない。

 入校してからは教室の椅子を温めることは皆無で、軍事訓練に明け暮れた。
 陸軍歩兵学校から教官が派遣され、凄まじい訓練で格闘能力を高めた。
 特に夜戦に力が入れられ、富士山麓で夜間強襲演習を行った。
 通常の夜間機動は一時間に一キロだが、ワシたち予科生徒隊は一時間に四キロを踏破できた。
 この時、スケトウダラの目を原料にしたビタミン剤を配給され、夜間の視力を上げようとしたのを覚えている。
 このビタミン剤は元々、海軍が夜間水雷戦の見張り員に配給されたものだった。
 練度の高い見張り員は裸眼で闇夜に二十キロ先の敵艦を発見できたという。
 訓練の賜物かビタミン剤の効果か分からぬが、後の夜間奇襲で大いに目が見えた。
 
 分隊、小隊、中隊訓練を施され、現役の精鋭連隊にも劣らぬ練度を誇れるまでになった。
 銃剣術に関しては、陸軍戸山学校の教官から手ほどきを受け、全員が段位を獲得した。
 
 四月になり、ワシら第一学年予科生徒隊はサイパン島東方二十マイルにあるサマン島に派遣される事になった。
 因みに第二学年、第三学年予科生徒隊は支那に派遣され、一号作戦で大いに暴れ回り勝利に貢献したことは有名である。

「これから、戦場か、十六になったばかりだが武功を挙げて金鵄勲章を貰うんだ!」
 ワシは同期生筆頭の和井健次郎に豪語した。
「何を言ってやがる、オレはいの一番に敵陣に躍り込んで、太刀を振り回してヤンキーを斬りまくってやるよ」
 和井は佩いてる太刀の鯉口を切りながら意気込む。
 鹿児島生まれで示現流の使い手でもあり、本校で覚えた亀田流も僅かな期間で二段を取得した剣豪である。
 ワシらはサマン島への出陣を前に陸軍省から出陣祝いとして陣太刀が生徒全員に贈られた。
 陣太刀は実戦を意識してか、トラックのリーフスプリングを鍛えて打たれたものであった。
 美しさには欠けるが、如何にも強そうな太刀である。