黒糖地獄

薩摩藩は、奄美大島の土壌は米作に適さないことから、米の代わりに年貢としてサトウキビから作る黒糖を納めるよう強制しました。

1747年からは奄美の年貢すべてを黒糖で納める事となり、江戸時代には島全員が黒糖関連の仕事に従事するようになっていたのです。

本土の年貢は、八公二民の高税率であっても農民の手元に僅かでも収穫物が残るのですが、奄美の場合には全量が薩摩藩に引き取られるという十公零民で、その納入付高に応じて僅かな食料品等の交換切符を与えました。

その取り立ては非常に厳しく、島民が指についた黒糖を舐めただけでもムチで叩かれ、黒糖を納め損なえば死刑になりました。

薩摩藩の納入要求高は厳しく、やがて奄美中の平地は全てサトウキビ畑となりました。

それでも足りず、年貢を納めるため、島民は通常農作物を作れないような急な斜面にも懸命にサトウキビを植えています。

サトウキビのために自分たちの食料を作る畑さえ与えられなかった島民は、強い潮風が吹き付ける事からサトウキビの段々畑が作れなかった山に、6万本の蘇鉄を植え、その実を食べるしかありませんでした。

ただし蘇鉄の実には猛毒があり、そのままでは食べることは出来ません――。

そこで蘇鉄の実や幹を細かく砕き、発酵させた後、水に晒し、天日干しをします。これを幾度も繰り返して毒抜きをしていたといいます。

こうしてようやく作り上げたデンプンをお粥にして食べていたのです。

この薩摩藩、島津家の圧政を奄美の人々は黒糖地獄と呼んだのです。