なろう信者ってスクールカースト的なモチーフ大好きだけどさ。

今世界の流れを見て行くと、そういった学校内格差なんかに対する描き方が全然違ってて、反発と排除じゃなくて、融和と相互理解を描くためのモチーフなんだよね。

その辺はまあ85年の名作『ブレックファスト・クラブ』から、最近だと例えば『ジュマンジ ウェルカムトゥジャングル』も「 ゲームの中で全く異なる他者を演じることで、それぞれの立場での苦悩やつらさ、悩みなどを理解し合う」と言う隠れテーマがあるし、 今年公開されている『ブックスマート』なんかも、「ガリ勉少女二人が、今まで小馬鹿にしていたパリピ系女子達が、実はきちんとした将来設計のもとに生きていたことを知り、相互理解を経て自らの人生を見つめなおす」と言うもの。

これ、なろう系では有り得ないよね。
主人公が陰キャなら、パリピ系の クラスメイトは絶対悪でなければならないし、そいつらを踏みつけにし馬鹿にすることで愉悦を得る内容にしなければならない。
「傍目にはお馬鹿なパリピにしか見えなかったような人たちにも、それぞれに悩みや生きづらさがあり、様々な考えがある」なんて言う「本当のこと、現実的なこと」を書いたら、「なろう信者の気持ちのいい夢想」を覚ましてしまう。

妬み嫉みを核とした逆恨みからのマウント欲を満たしたいと言うのがなろう系の根本だから、「相互理解」とか「自らの人生を見つめ直す」なんて以ての外。

例示したアメリカ映画が多様性の受容と相互理解と言う方向に舵を切っているのは、アメリカ社会自体がそう言う様々な問題に直面し、それらの問題にフィクションの中で答えを模索し続けることから逃げてこなかったことも一つの証明だと思うけど、翻って日本のエンタメ業界って、まだまだそこへ至れてないものが多すぎる。

なろう系を日本のエンタメ業界の中でどういう位置づけのものとするかというのには人それぞれ意見はあるだろうけれども、僕はそう言う日本のエンタメ業界の後進的、保守的、差別的な部分を凝縮した底のさらに抜けた先にある底こそがなろう系だと思う。
「現実から目をそらすための都合のいい妄想」は、エンタメの一側面ではあるけど、なろう系はその中でも最低なモノだけを濃縮してる。