2012年 編集
1月4日、レッスルキングダムVIの舞台でCMLLから凱旋帰国したYOSHI-HASHIとダブル凱旋帰国試合を行い、勝利を収める[3]。メインイベント終了後、IWGPヘビー級王座を保持する棚橋弘至の前に現われ、挑戦表明を行う[3] が、観客からブーイングで拒絶され、時期尚早というスタンスを取った棚橋から「IWGPは遠いぞ」「挑戦したいんだったら、力で上がってこい」と一蹴される[5]。しかし、翌日の会見でオカダはマネージャーの外道を伴い、同王座挑戦を改めてアピール。結果的に正式な選手権試合が組まれる事となり、次期シリーズよりCHAOSの一員として活動を開始する。

2月12日、THE NEW BEGINNINGにて、棚橋の保持するIWGPヘビー級王座に初挑戦。レインメーカーでピンフォールを奪い、中邑真輔に次ぐ史上2番目の若さで同王座を戴冠した[3]。その後、3月4日後楽園大会の「新日本プロレス創立40周年記念興行」で内藤哲也を、5月3日にはNEW JAPAN CUP覇者の後藤洋央紀を相手に防衛に成功する。

6月16日、DOMINION6.16で、棚橋を相手に3度目の防衛戦を行ったが、ピンフォール負けを喫し王座から陥落した。

8月、G1 CLIMAXに初出場。リーグ戦を1位で通過し、決勝戦でカール・アンダーソンと対決。この試合を制し、初出場・初優勝並びに史上最年少優勝記録を樹立[3]。試合後のインタビューで「翌年1月4日東京ドーム大会のメインイベントでのIWGPヘビー級王座挑戦」の確約を要求。後日の会見で、菅林直樹社長から東京ドームIWGPヘビー級王座挑戦権利書を授与される。

10月8日両国大会でアンダーソン、11月11日大阪大会で後藤洋央紀と挑戦権利証を賭けた試合でいずれも勝利を収めると、正式な挑戦者として受理。その日に王座を防衛した棚橋弘至に対して「これからは逸材に代わって、レインメーカーが新日本プロレスを引っ張っていきますんで、お疲れ様でした」と同年の1月4日東京ドーム大会で同王座の挑戦表明をした際に発した台詞で挑発した[6]。

12月10日、東京スポーツ主催のプロレス大賞で最優秀選手賞(MVP)、ベストバウト賞を受賞した[7]。また、最優秀選手賞は1983年に受賞した初代タイガーマスク以来となる最年少タイ記録を更新した。また、日刊バトル大賞プロレス部門でも最優秀選手賞、殊勲賞、最高試合賞を受賞[8] し、前述のプロレス大賞と併せると五冠王に輝いた。

2013年 編集
1月4日、レッスルキングダム7のダブルメインイベントに登場し、IWGPヘビー級王座を賭けて棚橋と三度激突した。互いのフィニッシュ・ホールドを巡る攻防の末、棚橋のハイフライフローで敗北した。その後、一昨年より新日本に参戦している鈴木みのる率いる鈴木軍と抗争を展開、2月10日広島大会で鈴木と対戦するがピンフォール負けを喫し、シングル2連敗とスランプに陥った[9]。

3月、「己に慢心があった」と分析したオカダはハングリー精神を取り戻すため、世田谷区内の高級住宅に引っ越し、家具も一新した。高級車であるシボレー・コルベットを購入し、約1000万の散財をするという行動に出た[9][10]。11日に開催されたNEW JAPAN CUPでは、決勝戦で後藤を下し優勝する。4月7日両国大会でIWGP王者の棚橋と再戦しレインメーカーでピンフォール勝ちを収め、第59代王者に輝いた[9]。8月18日、凱旋帰国後初の他団体としてDDTプロレスリングに参戦。「両国ピーターパン2013」にて飯伏幸太とシングルマッチで対戦し、勝利を収めた。