町域の大部分は古川に続く低地であり、高級住宅地が多い麻布にあって下町の風情をたたえる。町域には大規模なビルや商業施設は少なく、ブティックや飲食店等が入る雑居ビルや個人商店に、庶民的な住宅地が混在する地域となっている。

「麻布十番」の町名は1962年(昭和37年)に成立したもので、それまでの麻布新綱町、麻布綱代町、麻布坂下町、麻布永坂町、麻布日ヶ窪町、麻布宮下町、麻布宮村町、麻布一本松町、麻布山元町、麻布新広尾町の各一部が統合された[6]。「十番」の名称は、十番組屋敷、十番橋など、江戸時代の町名だった里俗称を復活したものである[6]。

一の橋から仙台坂にかけては商店街となっており、2008年(平成20年)まで商店街の西端には、1949年(昭和24年)に開湯した温泉銭湯「麻布十番温泉」があった。

麻布十番付近には長らく鉄道の駅がなく、1956年に日比谷線の建設計画が発表されると、商店街の店主たちは「銀座に客を取られる」との思いから建設反対運動を展開。結果日比谷線は麻布十番に通ることなく六本木に日比谷線の駅が完成。その後都電は廃止され、1km以上離れた所にある最寄り駅の六本木駅からも高低差があるために「陸の孤島」とも呼ばれていた。このように鉄道では極めて不便であったが、都道319号や麻布通りなどといった大きな道路に面しているためバスの便は良く、多くのバス路線がここを通っていた。現在でもその利便性は変わっていない。

一方、1984年(昭和59年)12月には鳥居坂下にディスコ「マハラジャ」が開店、タクシーや自動車で訪れる必要がある立地がバブル期には逆に人気となった。近隣の富裕層住民や、比較的距離の近い慶應などの学生、そのOB等が主な顧客となっていた。

2000年(平成12年)になると麻布十番駅が完成して地下鉄・南北線と大江戸線が相次いで開通、さらに2003年(平成15年)には隣接する六本木6丁目に複合施設「六本木ヒルズ」が開業するなど、麻布十番を取り巻く環境は一変した。

歴史
古くは、麻布村に属する低湿地帯であった。江戸時代、仙台藩の江戸屋敷は今の韓国大使館から二の橋にかけての広大な土地を持っていたが、低地側の湿気の多さがどうにもできずに困り果て、高台側はそのまま藩邸として使い、低地側半分を幕府に返上したほどである。幕府はその土地には低給の役人に住まわせたが彼らも苦労が多かったようである。しかし河川改修などによって干拓、開拓が進み、明治時代には、神楽坂と並ぶ繁華街に発展した。地名は、早くから通称として定着していた。

1962年(昭和37年)、麻布地区の町名が再編され、それまでの麻布網代町、麻布坂下町の各全域と、麻布宮下町、麻布新網町、麻布南日ヶ窪町、麻布宮村町、麻布一本松町、麻布山元町、麻布新広尾町の各一部をもって、正式の町名として「麻布十番一丁目から三丁目」が成立した。この時点では、住居表示に関する法律に基づく住居表示は未実施である。

その後1978年(昭和53年)、当地区に住居表示を実施した。東京都道415号高輪麻布線以東の狭小な区域に四丁目が設定され、麻布十番一丁目から四丁目となった。この住居表示実施により、それまで一部が存続していた麻布宮下町は麻布十番一丁目5番となり、麻布南日ヶ窪町は六本木六丁目17番となった。

地名の由来
地名の由来は、河川改修の工区番号とも、開拓地の番号ともいわれ、はっきりしていない。