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☆お題→『ならず者』『はじまりの命』『メイド』『サラリーマン』

【サラリーマン李(リー)くんの一日(1/3)】

 倉庫で在庫商品のチェックをしていると、一年先輩のホッフが後ろから入って来た。
「やあ、リーくん。頑張ってるねぇ」
 気さくに話しかけて来る先輩のことを心からうざいと思いながらも、私は笑顔を作って振り向いた。そして真面目ぶった言葉遣いのオランダ語で言った。
「ホッフ先輩、どうも。入社してもう3年にもなるのになかなか昇進できないもので、焦っているだけですよ」
「おいおい」ホッフ先輩は笑った。「まだ3年目の……21歳だっけ? そんなに早く係長にでもなられたら俺、びっくりした勢いで平社員から掃除係に転げ落ちちまうよ」
 チーズの食いすぎのせいなのか臭い息を口から吐いて、しかし笑顔は爽やかな先輩に、私は心の中で鼻をつまみながら、笑顔を返した。
「冗談ですよ。先輩が入社4年でまだ平社員なのに、私ごときがそんなに早く昇進など出来るわけがないです」
 むしろこっちのほうがジョークだった。初めに言ったほうが本心だったが、先輩に対する配慮が足りなかったと気づいてジョークだということに切り替えた。そうだった。コイツは4年も働いているのにまだ平社員なのだ。きっと10年後も平社員だ。とはいえこんな無能相手にも気遣いは必要、どこから昇進の話はやって来るかわからない。おべっかはどんなアホに対してでも使っておくべきだ。もちろん自分の面目は保ちながらだが。
「リーくん。今日、帰りに付き合わない?」ホッフ先輩は親しくもない私に馴れ馴れしく言った。「マーケットに案内するよ。屋台がいっぱい出るんだ」
 なるほど。友達がいないんだな。
 あるいは先に昇進して上司になりそうな私に今のうちから媚を売っているのか?
 どちらにせよ興味なんぞなかったが、私は物凄く行きたそうな笑顔を作ると、言った。
「ぜひ」


 マーケットに到着したのは4時半前だった。
 ここのマーケットは5時で閉まる。その上オランダ流の常識で大半の屋台は1時間前には閉店しはじめる。私はもちろん知っていたが、ホッフ先輩はオランダ人のくせにご存知なかったようで、閉店ムードの閑散とした場の雰囲気に慌てているようだった。
「ごめんね。こんなに早く閉まるものだとは思わなかった」
「でもまだ開いている店も多くありますよ」私は寛容なところを見せてやった。「酒でも飲むんですか?」
「いや、中国から来た君にオランダらしい場所を見せたかっただけだから」ホッフ先輩は言った。「ポテトでも食べる?」
「オランダらしいものだったらハーリングかケブリングじゃないですか?」私はつい口ごたえした。
 しまった。従順に『はい』と言えばいいところを余計なことをしてしまった。これもオランダ人がニシンばっかり食べるのを私が常日頃見下しているせいだな。まったく……なんでニシンなんだ。そんなによく獲れるのか。しかもオイルでギトギトしたものをだ。同じオランダ人でもうちの嫁ぐらい、ブリの目玉でもサルの脳味噌でも喜んで、軽く火を通しただけのものを食べる精神の冒険者とは大違いだ。
「そういえばリーくん、結婚してるそうだね」ホッフ先輩が突然そう言った。私が嫁のことを考えた途端にだ。いっちょまえに他人の心の中でも読めるのか?「しかも凄い美人だそうじゃないか。羨ましいなぁ。奥さん、なんて名前?」
「エラです」私は警戒しながらその名を教えた。
「あ。やっぱり? 噂には聞いてたんだ。君の奥さんが、あのYou Tubeでも有名なレイヤーモデルのエラ・フレイヤにゃんだって」
 なんだ、ただのエラのファンなのか。それで私に近づいたというわけか? そう思いながら私は頷いた。
「この間の、ロリ巨乳ケモミミツンデレメイドのコスプレ、見たよ。よかったなぁ」
「失礼ですが、ツンデレはコスプレではないですよ」
「いやいや。見事にツンデレキャラを演じてたじゃん」
「先輩はオタクなんですか?」
「っていうより女の子のコスプレを見るのが大好きなんだ」
「はあ……」
 うざい。早く帰りたい。そう思っていた。娘のメイは1歳になり、エラのお腹にはもう1人、はじまりの命が宿っている。側にいてやりたかった。