紫煙の魔女(冒頭)

 硝子テーブルの上に置かれた年代物のランタンの炎が周囲を暖色系に染める。モザイクのような壁は書架に並べられた本で、唯一の出入り口となる扉を除けば周囲をぐるりと取り囲んでいた。
 部屋の中央には濃色の革張りのソファーが置いてあった。溶け込むように一人の若い女性が肘掛けを枕がわりにして横たわる。紫がかった黒髪に濃い紫色の袖なしワンピースを着ていた。
 目覚まし時計が静寂を打ち破ることはなく、自然な目覚めで瞼を開ける。ぼんやりとした状態で手だけを動かす。見つけた煙草の箱とライターを顔の前に持ってくると柔らかい笑みが浮かんだ。
 箱の中身を目にすると途端に表情が陰る。最後の一本を取り出して口に咥えるとオイルライターで火を点けた。ゆっくりと深く吸い込み、鼻と口から白い煙を吐いた。繰り返すと先端の灰が長くなる。硝子テーブルの灰皿から目が離せなくなった。
「……無理よね」
 伸ばした手がぱたりと落ちる。即座に別の方法を選択した。窄めた口から紫色の煙を吐き出す。拡散することはなく、宙で猫の形態で固着した。二本の尻尾をくゆらせて生み出した主に目を向ける。
「仕事か」
「そこの灰皿、取ってきて」
 言われた通り、猫は宙を歩いて灰皿を咥え、速やかに女性の元に戻ってきた。受け取った直後に煙草の灰が落ちた。灰皿の底で砕けた状態を見て女性は満足そうに笑った。
「それで仕事の話だが」
「え、仕事はもう……そうね」
 女性は身を起こす。足を組んで膝の上に灰皿を置いた。のんびりと最後の一本を根元まで吸った。残されたフィルターは灰皿の底に押し付けた。
「煙草が必要ね」
「では、お供しよう」
 猫は扉の横に移動して待機の姿勢を取った。女性はランタンの炎を消して暗闇を物ともせずに歩いた。扉の前に揃えて置かれたショートブーツを穿くと勢いよく扉を開けて一歩を踏み出す。
 ビルの残骸が夕焼け色に染められて大震災の記憶を掘り起こす。
「あの日もこんな風に燃えていたわね」
「その記憶は俺にはないが。今日はどこを探索するんだ? 近場の煙草の自販機は全て当たった。あとは……」
「少し先のコンビニを目指す」
 女性は道の割れ目を避けながら歩き出す。猫は宙を歩いて付いていった。
 間もなくして一面の瓦礫に蠢く物を見つけた。野犬が人の死肉を漁っていた。目は黄色く濁り、口からダラダラと涎を滴らせている。
「ウイルス研究所は何を作っていたのかしら」
 女性の呆れたような声に野犬の耳が反応した。機敏な動きで振り返る。
 一人と一匹を獲物と捉え、猛然と走ってきた。すっと前に出た猫は考えられないような大口を開けた。急には止まれない野犬は自ら頭部を突っ込んだ。いとも簡単に噛み千切り、プッと吐き出した。てんてんと転がって、だらりと舌を出して絶命した。生き別れとなった胴体も真横に斃れ、断末魔を伝える四肢が藻掻くような動きを見せた。
「こんな世の中だと煙草は必須よね」
「俺を呼び出すには必要だ。ただ、こんな世で生きたいと思うのか?」
「どうかしらね」
 薄い笑みで女性は目的地に向かう。猫は追及を諦めて大人しく従った。

 紫煙の魔女の煙草を求めた旅が緩やかに始まる。