「ひがーしー、大湊ー。にいーしー、牧乃山ー」
 呼出しが、二人の力士の名を呼ぶ。関脇牧乃山は、横綱大湊を見据えながらゆっくりと土俵に上った。
 三年ぶりの対戦、緊張に身が震える。
 牧乃山裕輔と大湊和也は、学生相撲時代からのライバルであり親友だった。
 そっぷ型の牧乃山は多彩な技を得意とし、大湊はあんこ型で力技が持ち味。角界に入ってからもしのぎを削り合い、昇進を競い合った。
 その二人に事件が起きたのは三年前、互いに大関昇進を賭けた大一番のことだった。
 取り組みは白熱し、最後は土俵際で競り合った後もつれ合ったまま土俵下に転げ落ちた。その時、大湊の体が牧乃山の右の膝下にのしかかり圧し潰してしまったのだ。
 折れた骨が皮膚を突き破るほどの大怪我だった。牧乃山は休場を余儀なくされ、長いリハビリ生活に入る。だがそれ以上に痛手を負ったのは、大湊の方だった。
 彼は事故のショックで気力を失い、その後の取り組みを全て黒星で塗りつぶしてしまったのだ。それをテレビで見ていた牧乃山は激怒し、彼を病院に呼びつけた。
「てめえ何やってんだこの腑抜け野郎! そんなことで横綱になれると思ってんのか!」
「だって、ゆうちゃん。俺……俺……」
「いいか、俺は絶対に復帰する。たとえ何年かかろうとも、必ず復活して横綱になってやるんだ。その時に挑戦する相手はお前だ。今ここで誓え、必ず横綱になって俺の挑戦を受けると」
「うん、わかった。俺、絶対に横綱になる。先に横綱になって、ゆうちゃんを待ってるから」
 その約束は、確かに果たされた。大湊は翌場所から快進撃を続け、今年の初場所をもって晴れて横綱を張ることが出来た。牧乃山も時を同じくして本場所に復帰、十一月の名古屋場所には事故前と同じ関脇にまで登りつめたのだ。
 そして今、三年ぶりの対決となった。
 土俵上で二人は視線を交わす。牧乃山は気合充分、気迫に満ちた目で睨みつける。対する大湊は横綱に相応しい覇気を纏い、だが静かな眼で牧乃山を見つめた。
「はっけよい、のこった!」
 行司の声とともに、両者は飛び出す。牧乃山は渾身の踏み込みで大湊のぶちかましを受け切った。
(よし、いける)
 だが勢いに乗って相手の廻しを取り脚を掛けようとした瞬間、違和感に気付いた。
(あれ? こいつ、こんなに軽かったっけ?)
 もちろん重量級の横綱が軽い訳がない。だがこの程度の揺さぶりではビクともしないはずの体が、右に左にと揺れるのだ。明らかに踏ん張りが効いていない。
(こいつ、まさか)
 顔を上げると、大湊は眼をつぶり苦しそうな表情だ。牧乃山は耳元に口を寄せ小声でささやいた。
「馬鹿にすんな、腑抜け野郎」
 大湊が驚いたように眼を見開く。牧乃山は体を離すと、張り手で横面を叩いた。
 手抜きではないのだろう。だが怪我をさせた後ろめたさで力を出し切れないのだとしても、そんな事を許せるはずがなかった。
 相手が反応するよりも速く再び低い体勢で跳び込み、廻しを取りながら左足を掛けて押す。痛めた右脚がミシリと音を立てたような感覚を憶えたが、構わず力を込めた。
 大湊は上体を浮かせてしまい、体勢を崩す。だがギリギリで踏み留まり、絡め取られた右脚を力ずくで振り払うと、土俵を踏みしめ牧乃山の廻しを上手でつかみ取った。
 両者互角。場内は歓声で沸き上がる。
 今度は大湊が揺さぶりを掛けながら、押し込む。怒涛の力押しに牧乃山の体が思わず浮きかけた所に、すかさず左の足払いが飛ぶ。
 だが。傷跡の残る右脛に触れそうになった瞬間、その足がピタリと止まった。
(この野郎! この期に及んでまだそんなことを!)
 怒りに燃えた牧乃山は、大湊を力押しする。隙を突かれ土俵際まで追い詰められた大湊は、何とか踏み留まったものの、反撃には及ばなかった。それでも。
(くそっ、もう一歩がどうしても)
 牧乃山がどんなに押そうとも、揺さぶろうとも、土俵際の横綱はそこから一歩も下がろうとはしなかった。
「くそっ!」
 体勢を整え、もう一度揺さぶりを掛けようとしたその瞬間。
「ゆうちゃん、ごめん」
 右脚に、大湊の蹴手繰りが炸裂した。
 体が浮くと同時に土俵下まで投げ飛ばされる。気付いた時には、土俵上の大湊を下から見上げていた。
「ちくしょう、こんなに強くなりやがって」
 牧乃山は立ち上がり、荒い息を吐く大湊に向かって指を突きつけた。
「次は絶対に勝ってやるからな!」
「おう! いつでもかかって来い!」
 大湊も声を放つ。二人は睨み合い、それから同時にニヤリと笑った。
 大粒の涙を流しながら。