□■□評論家・三島由紀夫■□■
(中略)
明るい面持で、少女について語り、いささかの感傷もなしに、少年期について語り、感情の均衡を破ることなしに、
人間の日常について語ること、それも亦、あの時代にはとりわけ貴重なヒロイズムだつた。ただ耐へること、
しかも矜持を以て耐へること、それも亦、ヒロイズムだつた。
現在の芸術全般には、あまりにも「静けさ」が欠けてゐる。私は静けさの欠如こそ、ヒロイズムの欠如の顕著な
兆候ではないか、と考へる者である。戦時中の病める一青年作家が書いたこの静かな作品集が、必ずや現代の
青少年の魂の底から、埋もれてゐた何ものかを掘り出す機縁になることを、私は信ずる。
三島由紀夫「序『東文彦作品集』」より 硬派とは何ぞや?
第一に、それは紺絣(こんがすり)であり、高下駄であり、青春であり、暴力であり、
単純素朴であり、反社会性であり、小集団のヒエラルヒーであり、民族主義である。
さらに詳しく見てゆくと、そこではエモーショナルなものを、恋愛の代りに、政治が代表してゐると考へられる。
その東洋的な政治概念では、男性的な理想および男性的な人間関係のお手本として政治があり、その理想と
人間関係をつなぐ糸は、エモーショナリズムである。侠客が男なるとは、侠客道のエモーショナルな政治概念を、
わが身に体現することである。これらがあくまで恋愛とちがふ点は、恋愛のロマンチックな個性的主張とは
ちがつて、政治におけるエモーションは、自分を既成の理想型に従はせる情動だ、といふ点である。従つて
硬派は、あやまつて軟派的堕落に陥らぬかぎり、決して自己崩壊の憂目を見ることがない。
三島由紀夫「文学における硬派――日本文学の男性的原理」より 又、硬派では男性的表象が誇張されるが、この男性的原理の中心は、エモーションと力による政治であつて、
理論的知的政治概念はいはば無性のものとして、異性愛的情念は女性的なものとして斥けられる。
(中略)
私はごく大ざつぱに、右のやうな特色を列挙してみたのであるが、これらの諸要素の文学への類推を試みると、
思ひもかけない展望がひろがる。
硬派が持つてゐたやうな政治概念は、かつてのプロレタリア文学にも潜在してゐたし、その理論的知的なものの
排斥はまた、私小説の基盤であつた。硯友社を経、自然主義を過ぎて、われわれの近代小説の大勢を決した
「軟派的なもの」については、今日われわれは反吐が出るほど堪能してゐる有様だが、近代文学史に見えかくれ
して流れてゐる「硬派的なもの」については、ほとんど気づかれてゐない。むしろその点で、尾崎(士郎)氏や
林(房雄)氏は、近代日本人として稀な意識的な作家と云ひ得るのである。
三島由紀夫「文学における硬派――日本文学の男性的原理」より 恋愛の代りに政治を以て、文学のエモーショナルなものを代表させる遣口は、戦後文学の作家の或る者、
たとへば堀田善衞氏などに顕著であるが、氏がもつと硬派的に、知的理論的修飾を捨てたら、もつと純度の高い
文学を生むであらう。太宰治氏は硬派的エモーションを軟派的に誤用した結果、自己崩壊の憂目を見た。
かういふ例は、現代文学において実に枚挙にいとまがない。田中英光氏は自らのデスペレエトな力の弁護に、
民族的基底の助けを借りることができなかつた。石原慎太郎氏は自ら信じた男性的原理を、性愛の領域へ
誤用するとき一貫性を失ふ。阿部知二氏は理論的知的政治概念に縋(すが)つて、文学的に性を喪失する。
……これらの幾多の「硬派的なもの」の誤用の失敗(その最大の悲劇が横光利一氏であるが)を見ると、
谷崎潤一郎氏、川端康成氏の軟派の二大宗の、赫々たる成功が、今さらながら、日本文学伝統の女性的優雅の
強靭さを思はれるのである。
三島由紀夫「文学における硬派――日本文学の男性的原理」より しかしここに面白いのは、硬派と軟派のただ一つの共通点があることで、それは理論的知的なものへの、日本人の
終始渝(かは)らぬ不信の念である。志賀直哉氏の文学が、一見硬派的に見えるのは、(実は氏の文学ほど
硬派から遠いものはないが)、この伝来の反理智主義の徹底性のためである。
近代文学の行き詰りの打破のためには、自らの中の硬派的要素の反省と発掘も、一つの必要な手続であると思ふ。
しかし硬派は硬派で、(少くとも一つの作品の中で)、首尾一貫してゐなければならない。硬派的一要素の
切り離した誤用、殊にその無意識の誤用ほど危険なものはないことは、右にあげた諸例からも明らかであらう。
三島由紀夫「文学における硬派――日本文学の男性的原理」より この本は私の年来愛読してゐる本で、面白い個所は何度もくりかへし読んだが、特に右の(寅吉がわが身の
宿命について言ふ)一節は山人天狗をそのまま「芸術家」と置き換へて読むほどに興趣を増すのである。
わけても「山人天狗などは自由自在があるといふばかり」といふ一行は美しい。ここに語られた天狗道の無償性は、
なぜ天狗が存在するか、なぜ存在しなければならぬか、といふ根本義に触れてゐる。天狗は人間とちがつて
空を自由に飛行(ひぎやう)することができる。こちらの峰からあちらの峰へ、月下に千里を飛ぶこともできる。
しかもこの超自然的能力は、それ自体が幸福でなければならず、彼には何か、世間普通の幸福を味はふ能力が
欠けてゐるのである。
これを裏から言へば、「自由自在」は羨むべき能力かも知れないが、本来市民的幸福には属さない。それは
生活を快適にする能力ではなく、日常生活にとつては邪魔になるもので、むしろそれがあるために日常生活は
円滑を欠くであらう。
三島由紀夫「天狗道」より 自由自在は詩的概念であつて、市民的自由とは別物である。精神がそのやうな無償の自由を味はふといふことは、
辛うじて芸術にだけ許されてゐることで、一般社会では禁止されてゐる。
しかもこの魔的に自由な精神も、たえず「人間の幸福」を羨んでゐるのである。
天狗がこんなに自在であるにかかはらず、人間の生活に本当に感情移入ができず、「その道に入りて見」ることが
できないのは、ふしぎと言はねばならない。
相手方への完全な感情移入の不可能といふ点では、天狗も人間も同等同質なのであり、そこに相互の羨望が生れる。
私にとつては、天狗におけるこの「人間的」限界が甚だ興味がある。天狗はこの点では、「饗宴」篇中で
ディオティマの語るエロスに似てゐるのかもしれない。
天狗の自在な飛行は、もちろん天狗道の使命に従つて行はれるが、人間の目からはこの使命は見えず、従つて
飛行自体が戯れと見える。
三島由紀夫「天狗道」より 寅吉はなほ人間時代の記憶を留めてゐるから、その戯れを人間的倫理で以て考察しようとするが、「善事か
悪事か」さつぱり分からないのである。
人間は楽でいい、と言つて羨んでみせるときの天狗には、もちろん多大のエリート意識があるが、その
エリート意識を支へるものは、自在の飛行それ自体でなくて、日々種々の苦しい行である。これがなくては、
天狗はたちまち墜落して天狗でなくなる。
かくて天狗は、どうしても存在するために、日夜存在の努力を払ふ必要があり、このやうな存在学的努力は、
人間には本来不要なものである。
天狗にとつて人間は明らかに存在してゐるからであり、天狗のはうが分が悪いのは、或る人間たちにとつては
天狗は存在してゐる必要がないからである。
三島由紀夫「天狗道」より ここにいたつて、天狗の存在の問題は、そのまま天狗の倫理になる。天狗にとつて、天狗はどうしても存在
しなければならない。それでなければ、天狗はマイノングのいはゆる存在外(アウセルザイン)にとどまるであらう。
そして天狗を存在せしめるものこそ、「日々種々」の苦しい行であり、その発現としての自在な飛行の戯れである。
後段の天狗たることの宿命について語られた一節では、その「我師」といふ一句に、川端康成氏の名を
当てはめたい誘惑にかられるが、それでは私も天狗の端くれを自ら名乗ることになつて、不遜のそしりを免れまい。
むしろ、目を泰西文学に放つて、たとへば「トニオ・クレエゲル」の美しく踊るハンスとインゲボルクの姿を、
暗いヴェランダから硝子ごしにじつと見つめてゐる奇怪なトニオの鼻――それは又作者トオマス・マンの鼻――
が、しらぬ間に長々と伸びて来て、他ならぬ天狗の鼻に変貌してゐたりするところを、想像してゐたはうが
無事かもしれない。
三島由紀夫「天狗道」より 音楽は生活必需品かといふと、人によつてちがふだらうが、私にとつては必ずしもさうではない。それは思考を
妨げるからだ。私には、音楽の鳴つてゐる部屋で物を考へるなど、狂気の沙汰としか思はれない。このごろの
青少年がジャズをききながら試験勉強をしてゐるのを見ると、私と別人種の感を新たにする。
では、音楽は休息の楽しみとして必要だらうか。私にとつては必ずしもさうではない。机に向かふのが仕事の私には、
休息とは、体を動かすことである。運動にはそれ自体のリズムがあつて、音楽を要しない。アメリカのジムなどで、
ムード・ミュージックを流してゐるところがあつたが、何だか運動に力が入らなくて困つた。
では、私にとつて音楽とは何なのだらうか。それは生活必需品でもなければ、休息の楽しみでもない。それは
誘惑なのである。
三島由紀夫「誘惑――音楽のとびら」より むかし米軍占領時代に、家から三丁ばかり離れた大きな邸が接収されてゐて、週末といふと舞踏会が催ほされる
らしく、夜風に乗つてダンス音楽がかすかに流れてきて、食糧難時代の新米文士の仕事を攪乱したものだつた。
しかし、その音楽には、今そこにないものへの強烈な誘惑があつた。「今そこにないもの」を、音楽ほど強烈に
暗示し、そこへ向つて人を惹き寄せるものはない。もちろんただの幻である映画だつてさうかもしれない。
が、音楽のこの誘惑の力を借りてゐない映画はきはめて稀である。
「今そこにないもの」にもピンからキリまである。ピンは天国から、キリはつまらない観光的な熱帯の小島まである。
ピンは、人間精神の絶顛から、キリは性慾の満足まである。それに従つて、音楽にもピンからキリまであるわけだが、
かう考へると、音楽は生活必需品でなくても、人生の必需品、むしろその本質的なものとも思はれる。
「今そこにないものへの誘惑」にこそ、生の本質があるからである。
三島由紀夫「誘惑――音楽のとびら」より 「長安に男児ありき
二十にして心已に(すでに)朽つ」
(李長吉の詩「陳商に贈る」の冒頭の二行)
李長吉は中唐の天才詩人で西暦紀元七九一年に生れ、二十七歳で西暦紀元八一七年に死んだ。
耽美的で、難解で、デカダンで、華麗で、憂鬱で、鬼気を帯びて……、とにかくすばらしい詩人だ。
実生活は不幸で、二十歳のとき、人のねたみで、官吏登用試験を受けられず、失意に沈んだ心境を述べた詩だが、
私はそんな来歴にはかまはず、全く自分のものとしてこの詩を愛してゐる。二十歳の自分の心境告白として、
この二行を愛してゐるのである。二十歳にして敗戦日本の現実に投げ出された私は、すでに心朽ちたまま、
自分の美の国を建設せねばならなかつた。その気持を李長吉が歌つてくれたやうな気がするのである。
三島由紀夫「私の愛することば」より 革命には神秘主義がつきものであり、人間の心情の中で、あるパッションを呼び起こす最も激しい内的衝動は、
同時に現実打破と現実拒否の冷厳な、ある場合には冷酷きはまる精神と同居してゐるのである。(中略)
遠くチェ・ゲバラの姿を思ひ見るまでもなく、革命家は、北一輝のやうに青年将校に裏切られ、信頼する部下に
裏切られなければならない。裏切られるといふことは、何かを改革しようとすることの、ほとんど楯の両面である。
なぜならその革命の理想像を現実が絶えず裏切つていく過程に於て、人間の裏切りは、そのやうな現実の
裏切りの一つの態様にすぎないからである。革命は厳しいビジョンと現実との争ひであるが、その争ひの過程に
身を投じた人間は、ほんたうの意味の人間の信頼と繋りといふものの夢からは、覚めてゐなければならないからである。
一方では、信頼と同志的結合に生きた人間は、論理的指導と戦術的指導とを退けて、自ら最も愚かな結果に陥る
ことをものともせず、銃を持つて立上り、死刑場への道を真つ直ぐに歩むべきなのであつた。
三島由紀夫「北一輝論――『日本改造法案大綱』を中心として」より もし、北一輝に悲劇があるとすれば、覚めてゐたことであり、覚めてゐたことそのことが、場合によつては
行動の原動力になるといふことであり、これこそ歴史と人間精神の皮肉である。そしてもし、どこかに覚めて
ゐる者がゐなければ、人間の最も陶酔に充ちた行動、人間の最も盲目的行動も行なはれないといふことは、
文学と人間の問題について深い示唆を与へる。その覚めてゐる人間のゐる場所がどこかにあるのだ。もし、
時代が嵐に包まれ、血が嵐を呼び、もし、世間全部が理性を没却したと見えるならば、それはどこかに理性が
存在してゐることの、これ以上はない確かな証明でしかないのである。
三島由紀夫「北一輝論――『日本改造法案大綱』を中心として」より 私は「擬制の終焉」から、はつきりと吉本氏のファンの一人になつたが、読みながら一種の性的興奮を感じる
批評といふものは、めつたにあるものではない。読者は観念の闘牛場の観客の一人になつて、闘牛士のしなやかな
身のこなしと、猛牛の首から流れる血潮に恍惚とする。
本書に収められてゐる批評の傑作「丸山真男論」をはじめ、氏の批評には、認識の運動が逞しく働らいてつひには
赤裸々な現実の真姿が現はれてくるときのスリルが充満し、三文小説でイカモノの現実ばかりつかまされて
困つてゐる人は、吉本氏の著書を読むがいい。それでゐて、氏の批評には、かよわい美食家など到底及ばぬ
文学的グルメの犀利な味覚がひらめいてゐる。谷崎潤一郎の「風癲老人日記」の末尾のカナ文字日記体を、
長歌に対する反歌の役割だ、といふ卓見などそのほんの一例である。
三島由紀夫「吉本隆明著『模写と鏡』推薦文」より 芸術が純粋であればあるほどその分野をこえて他の分野と交流しお互に高めあふものである。
演劇的批判にしか耐へないものは却つて純粋に演劇的ですらないのである。
三島由紀夫「宗十郎覚書」より
小説の世界では、上手であることが第一の正義である。
ドストエフスキーもジッドもリラダンも、先づ上手だから正義なのである。
三島由紀夫「上手と正義(舟橋聖一『鵞毛』評)」より
少年がすることの出来る――そしてひとり少年のみがすることのできる世界的事業は、
おもふに恋愛と不良化の二つであらう。恋愛のなかへは、祖国への恋愛や、一少女への
恋愛や、臈(らふ)たけた有夫の婦人への恋愛などがはひる。また、不良化とは、
稚心を去る暴力手段である。
神が人間の悲しみに無縁であると感ずるのは若さのもつ酷薄であらう。しかし神は
拒否せぬ存在である。神は否定せぬ。
三島由紀夫「檀一雄『花筐』――覚書」より
無秩序が文学に愛されるのは、文学そのものが秩序の化身だからだ。
三島由紀夫「恋する男」より 初恋に勝つて人生に失敗するのはよくある例で、初恋は破れる方がいいといふ説もある。
三島由紀夫「冷血熱血」より
美人が八十何歳まで生きてしまつたり、醜男が二十二歳で死んだりする。
まことに人生はままならないもので、生きてゐる人間は多かれ少なかれ喜劇的である。
三島由紀夫「夭折の資格に生きた男――ジェームス・ディーン現象」より
人が愛され尽した果てに求めることは、恐れられることだ。
三島由紀夫「芥川比呂志の『マクベス』」より
生の充溢感と死との結合は、久しいあひだ私の美学の中心であつたが、これは何も
浪漫派に限らず、芸術作品の形成がそもそも死と闘ひ死に抵抗する営為なのであるから、
死に対する媚態と死から受ける甘い誘惑は、芸術および芸術家の必要悪なのかもしれないのである。
三島由紀夫「日記」より 青年の苦悩は、隠されるときもつとも美しい。
精神的な崇高と、蛮勇を含んだ壮烈さといふこの二種のものの結合は、前者に傾けば
若々しさを失ひ、後者に傾けば気品を失ふむつかしい画材であり、現実の青年は、
目にもとまらぬ一瞬の行動のうちに、その理想的な結合を成就することがある。
三島由紀夫「青年像」より
ほんたうの誠実さといふものは自分のずるさをも容認しません。自分がはたして
誠実であるかどうかについてもたえず疑つてをります。
三島由紀夫「青春の倦怠」より
詩人とは、自分の青春に殉ずるものである。青春の形骸を一生引きずつてゆくものである。
詩人的な生き方とは、短命にあれ、長寿にあれ、結局、青春と共に滅びることである。
小説家の人生は、自分の青春に殉ぜず、それを克服し、脱却したところからはじまる。
三島由紀夫「佐藤春夫氏についてのメモ」より 小説家は人間の心の井戸掘り人足のやうなものである。井戸から上つて来たときには、
日光を浴びなければならぬ。体を動かし、思ひきり新鮮な空気を呼吸しなければならぬ。
三島由紀夫「文学とスポーツ」より
小説でも、絵でも、ピアノでも芸事はすべてさうだがボクシングもさうだと思はれるのは、
練習は必ず毎日やらなければならぬといふことである。
三島由紀夫「ボクシング・ベビー」より
愛情の裏附のある鋭い批評ほど、本当の批評はありません。さういふ批評は、そして、
すぐれた読者にしかできないので、はじめから冷たい批評の物差で物を読む人からは生れません。
三島由紀夫「作品を忘れないで……人生の教師ではない私――読者への手紙」より
あまりに強度の愛が、実在の恋人を超えてしまふといふことはありうる。
三島由紀夫「班女について」より 論敵同士などといふものは卑小な関係であり、言葉の上の敵味方なんて、女学生の
寄宿舎のそねみ合ひと大差がありません。
剣のことを、世間ではイデオロギーとか何とか言つてゐるやうですが、それは使ふ刀の
研師のちがひほどの問題で、剣が二つあれば、二人の男がこれを執つて、戦つて、
殺し合ふのは当然のことです。
三島由紀夫「野口武彦氏への公開状」より
国家総動員体制の確立には、極左のみならず極右も斬らねばならぬといふのは、政治的
鉄則であるやうに思はれる。そして一時的に中道政治を装つて、国民を安心させて、
一気にベルト・コンベアーに載せてしまふのである。
ヒットラーは政治的天才であつたが、英雄ではなかつた。英雄といふものに必要な、
爽やかさ、晴れやかさが、彼には徹底的に欠けてゐた。
ヒットラーは、二十世紀そのもののやうに暗い。
三島由紀夫「『わが友ヒットラー』覚書」より 私は血すぢでは百姓とサムラヒの末裔だが、仕事の仕方はもつとも勤勉な百姓であり、
生活のモラルではサムラヒである。
何ごとにもまじめなことが私の欠点であり、また私の滑稽さの根源である。
孤独と連帯性は決して両極端ではない。孤独を知らぬ作家の連帯責任など信用できぬ。
われわれは水晶の数珠のやうにつなぎ合はされてゐるが、一粒一粒でもそれは水晶なのだ。
しかし一粒の水晶と一連の数珠との間には中庸などといふものはありえない。
バラバラだからつなげることができ、つながつてゐるからこそバラバラになりうる。
三島由紀夫「フランスのテレビに初主演――文壇の若大将 三島由紀夫氏」より 芸術には必ず針がある。毒がある。この毒をのまずに、ミツだけを吸ふことはできない。
四方八方から可愛がられて、ぬくぬくと育てることができる芸術などは、この世に存在しない。
三島由紀夫「文学座の諸君への『公開状』――『喜びの琴』の上演拒否について」より
われわれが美しいと思ふものには、みんな危険な性質がある。温和な、やさしい、典雅な
美しさに満足してゐられればそれに越したことはないのだが、それで満足してゐるやうな人は、
どこか落伍者的素質をもつてゐるといつていい。
三島由紀夫「美しきもの」より
芸術上の創造行為は存在そのものからは生れて来ない。自ら美しく生きようと思つた芸術家は
一人もゐなかつたので、美を創ることと、自分が美しく生きることとは、まるで反対の
事柄である。
三島由紀夫「女が美しく生きるには」より 現代におけるリリシズムがどんな形をとらねばならぬか、といふことが、現代芸術の一番おもしろい課題だと
私は考へてゐる。リリシズムは、現代において、否定された形、ねぢまげられた形、逆説的な形、敗北し流刑に
処された形、鼻つまみの形、……それらさまざまのネガティヴな形をとらざるをえず、そこから逆に清冽な
噴泉を投射する。もし現代において、リリシズムが一見いかにもこれらしい形をとつてゐたら、それは明らかに
ニセモノだと云つてよい。これが、私の「現代の抒情」の鑑定法である。
細江英公氏の作品が私に強く訴へるのは、氏がこのやうに「現代の抒情」を深くひそませた作品を作るからである。
そこには極度に人工的な制作意識と、やさしい傷つきやすい魂とが、いつも相争つてゐる。薔薇は元来薔薇の
置かれるべきでない場所に置かれて、はじめて現代における薔薇の王権を回復する。
三島由紀夫「細江英公氏のリリシズム――撮られた立場より」より 童話とは人間の最も純粋な告白に他ならないのである。
三島由紀夫「川端氏の『抒情歌』について」より
小説家における文体とは、世界解釈の意志であり、鍵なのである。
強大な知力は世界を再構成するが、感受性は強大になればなるほど、世界の混沌を
自分の裡に受容しなければならなくなる。
三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より
世界が虚妄だ、といふのは一つの観点であつて、世界は薔薇だ、と言ひ直すことだつてできる。
三島由紀夫「『薔薇と海賊』について」より
小説は芸術のなかでも最もクリチシズムの強いものだ。
三島由紀夫「文芸批評のあり方――志賀直哉氏の一文への反響」より エロティックといふのは、ふつうの人間が日常のなかでは自然と思つてゐる行為が、
外に現はれて人の目にふれるときエロティックと感じる。
三島由紀夫「古典芸能の方法による政治状況と性」より
男子高校生は「娘」といふ言葉をきき、その字を見るだけで、胸に甘い疼きを感じる筈だが、
この言葉には、あるあたたかさと匂ひと、親しみやすさと、MUSUMEといふ音から来る
何ともいへない閉鎖的なエロティシズムと、むつちりした感じと、その他もろもろのものがある。
プチブル的臭気のまじつた「お嬢さん」などといふ言葉の比ではない。
三島由紀夫「美しい女性はどこにいる――吉永小百合と『潮騒』」より 緊張ばかりしてゐては疲れてしまふといふのは怠け者の考へで、弛緩こそ病気のもとで
あることはよく知られてゐる。いけないのはテレビ・プロデューサーのやうな末梢神経の
緊張の連続であつて、豹のやうに、全身的緊張を即座に用意できる生活こそ、健康な生活で
あることは言ふまでもない。
テレビによつて、いくらでも雑多な知識がひろく浅く供給されるから、暇のある人は
テレビにしがみついてゐれば、いくらでも知識が得られる代りに、「中国核実験」と
「こんにちは赤ちゃん」をつなぐことは誰にもできず、知識の綜合力は誰の手からも
失はれてゐる。無用の知識はいくらでもふえるが、有用な知識をよりわけることはますます
むづかしくなり、しかも忘却が次から次へとその知識を消し去つてゆく。
文学は、どんなに夢にあふれ、又、読む人の心に夢を誘ひ出さうとも、第一歩は、必ず
作者の夢が破れたところに出発してゐる。
三島由紀夫「秋冬随筆」より われわれの祖先は、大らかな、怪奇そのものすらも晴れやかな、ちつともコセコセしない、
このやうな光彩陸離たる芸術を持ち、それをわが宮廷が伝へて来たといふことは、
日本の誇るべき特色である。だんだん矮小化されてきた日本文化の数百年のあひだに、
それと全くちがつた、のびやかな視点を、日本の宮廷は保つてきたのである。
三島由紀夫「舞楽礼讃」より
日本人の美のかたちは、微妙をきはめ洗煉を尽した果てに、いたづらな奇工におちいらず、
強い単純性に還元されるところに特色があるのは、いふまでもない。永遠とは、
くりかへされる夢が、そのときどきの稔りをもたらしながら、又自然へ還つてゆくことだ。
生命の短かさはかなさに抗して、けばけばしい記念碑を建設することではなく、自然の
生命、たとへば秋の虫のすだきをも、一体の壷、一個の棗(なつめ)のうちにこめることだ。
ギリシャ人は巨大をのぞまぬ民族で、その求める美にはいつも節度があつたが、日本人も
この点では同じである。
三島由紀夫「『人間国宝新作展』推薦文」より アメリカでは、成功者や金持は決して自由ではない。従つて、「最高の自由」は、
わびしさの同義語になる。
三島由紀夫「芸術家部落――グリニッチ・ヴィレッジの午後」より
芝居の世界に住む人の、合言葉的生活感情は、あるときは卑屈な役者根性になり、あるときは
観客に対する思ひ上つた指導者意識になる。正反対のやうに見えるこの二つのものは、
実は同じ根から生れたものである。本当の玄人といふものは、世間一般の言葉を使つて、
世間の人間と同じ顔をして、それでゐて玄人なのである。
三島由紀夫「無題『新劇』扉のことば」より
ひとたび叛心を抱いた者の胸を吹き抜ける風のものさびしさは、千三百年後の今日の
われわれの胸にも直ちに通ふのだ。この凄涼たる風がひとたび胸中に起つた以上、
人は最終的実行を以てしか、つひにこれを癒やす術を知らぬ。
三島由紀夫「日本文学小史 第四章 懐風藻」より 人間がこんなに永い間花なしに耐へてゆけるには、その心の中に、よほど巨大な荘厳な
花の幻がなければならない。
三島由紀夫「服部智恵子バレエリサイタルに寄せて」より
あらゆる芸術ジャンルは、近代後期、すなはち浪漫主義のあとでは、お互ひに気まづくなり、
別居し、離婚した。
純粋性とは、結局、宿命を自ら選ぶ決然たる意志のことだ、と定義してもよいやうに思はれる。
三島由紀夫「純粋とは」より
新しい人間と新しい倫理とは別のものではないのである。倫理とは彼の翼にすぎぬ。
倫理とは彼の生きる方法だ。
金のためだつて! そんな美しい目的のためには文学なんて勿体ない。私たちは原稿の
代償として金を受取るとき、いつも不当な好遇と敬意とを居心地わるく感じなければ
ならないのです。蹴飛ばされる覚悟でゐたのがやさしく撫でられた狂犬のやうにして。
三島由紀夫「反時代的な芸術家」より 知的なものと感性的なもの、ニイチェの言つてゐるアポロン的なものとディオニソス的な
もののどちらを欠いても理想的な芸術ではない。
芸術の根本にあるものは、人を普通の市民生活における健全な思考から目覚めさせて、
ギョッとさせるといふことにかかつてゐる。
ちやうどギリシャのアドニスの祭のやうに、あらゆる穫入れの儀式がアドニスの死から
生れてくるやうに、芸術といふものは一度死を通つたよみがへりの形でしか生命を
把握することができないのではないかといふ感じがする。さういふ点では文学も古代の
秘儀のやうなものである。収穫の祝には必ず死と破滅のにほひがする。しかし死と破滅も
そのままでは置かれず、必ず春のよみがへりを予感してゐる。
三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より 立派な芸術は積木に似た構造を持ち、積木を積みあげていくやうなバランスをもつて
組立てられてゐるけれども、それを作るときの作者の気持は、最後のひとつの木片を
積み重ねるとたんにその積木細工は壊れてしまふ、さういふところまで組立てていかなければ
満足しない。積木が完全なバランスを保つところで積木をやめるやうな作者は、私は
芸術家ぢやないと思はれる。
最後の一片を加へることによつてみすみす積木が崩れることがわかつてゐながら、最後の
木片をつけ加へる。そして積木はガラガラと崩れてしまふのであるが、さういふふうな
積木細工が芸術の建築術だと私は思ふ。
三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より 歴史劇などといふのは、本来言葉の矛盾である。芝居に現はれる現象としての事実は、
はじめから入念に選び出されたものであるのに、歴史では玉石混淆だからである。
三島由紀夫「歴史的題材と演劇」より
一つの時代は、時代を代表する俳優を持つべきである。
この世には情熱に似た憂鬱もあり、憂鬱に似た情熱もある。
三島由紀夫「六世中村歌右衛門序説」より
すぐれた俳優は、見事な舟板みたいなもので、自分の演じたいろんな役柄の影響によつて、
たくさんの船虫に蝕まれたあとをもつてゐるが、それがそのまま、世にも面白い舟板塀になつて、
風雅な住ひを飾るのだ。
俳優といふものは、ひまはりの花がいつも太陽のはうへ顔を向けてゐるやうに、
観客席のはうへ顔を向けてゐるものであつて、観客席から見るときに、その一等美しい、
しかも一等真実な姿がつかめるとも云へる。
三島由紀夫「俳優といふ素材」より 守る側の人間は、どんなに強力な武器を用意してゐても、いつか倒される運命にあるのだ。
三島由紀夫「若さと体力の勝利――原田・ジョフレ戦」より
守勢に立つ側の辛さ、追はれる者の辛さからは、容易ならぬ狡智が生れる。
「老巧」などといふ言葉は、スポーツの世界では不吉な言葉で、それはいつかきつと
「若さ」に敗れる日が来るのである。
三島由紀夫「追ふ者追はれる者――ペレス・米倉戦観戦記」より
巧くなつて不正直になるのは堕落といふもので、巧くなつてもなほ正直といふところが尊いのだ。
三島由紀夫「原田・メデル戦」より 世の中にいつも裸な真実ばかり求めて生きてゐる人間は、概して鈍感な人間である。
親しいからと云つて、言つてはならない言葉といふものがあるものだが、お節介な人間は、
善意の仮面の下に、かういふタブーを平気で犯す。
人をきらふことが多ければ多いだけ、人からもきらはれてゐると考へてよい。
三島由紀夫「私のきらひな人」より
人間のやることは残酷である。鳥羽の真珠島で、真珠の肉を手術して、人工の核を
押し込むところを見たが、玲瓏(れいろう)たる真珠ができるまでの貝の苦痛が、
まざまざと想像された。このごろ流行のダムも、この規模を大きくしたやうなものである。
ダム工事の行はれる地点は、大てい純潔な自然で、風光は極めて美しい。その自然の肉に、
コンクリートと鉄の異物が押し込まれ、自然の永い苦痛がはじまる。
三島由紀夫「『沈める滝』について」より 赤ん坊の顔は無個性だけれど、もし赤ん坊の顔のままを大人まで持ちつづけたら、
すばらしい個性になるだらう。しかし誰もそんなことはできず、大人は大人なりに、
又々十把一からげの顔になることかくの如し。
三島由紀夫「赤ちゃん時代――私のアルバム」より
一切の錯覚を知らぬ心は、大義に近づくことができない、といふのが人間の宿命である。
現代は、死を正当化する価値の普遍化が周到に避けられ、そのやうな価値が注意深く
ばらばらに分散させられてゐる時代である。
私は円谷二尉の死に、自作の「林房雄論」のなかの、次のやうな一句を捧げたいと思ふ。
「純潔を誇示する者の徹底的な否定、外界と内心のすべての敵に対するほとんど
自己破壊的な否定、……云ひうべくんば、青空と雲とによる地上の否定」
そして今では、地上の人間が何をほざかうが、円谷選手は、「青空と雲」だけに属して
ゐるのである。
三島由紀夫「円谷二尉の自刃」より ブラジルは人種的偏見の少ない国だが、それでも黒人の悲願は白人に生れ変ることであり、
かういふ宿命を抱いた人たちは、当然仮装に熱中する。仮装こそ、「何かになりたい」といふ
念願の仮の実現だからである。
三島由紀夫「『黒いオルフェ』を見て」より
別に酒を飲んだりごちそうをたべたりしなくても、気の合つた人間同士の三十分か
一時間の会話の中には、人生の至福がひそむ。
三島由紀夫「社交について――世界を旅し、日本を顧みる」より
他人に場ちがひの感を起させるほどたのしげな、内輪のたのしみといふのはいいものだ。
たとへば、祭りのミコシをかついだあとで、かついだ連中だけで集まつてのむ酒のやうなものだ。
われわれに本当に興味のある話題といふものは他人にとつてはまるで興味のないことが多い。
他人に通じない話ほど、心をあたたかく、席をなごやかにするものはない。
三島由紀夫「内輪のたのしみ」より どんなに平和な装ひをしてゐても「世界政策」といふことばには、ヤクザの隠語のやうな、
独特の血なまぐささがある。概括的な、概念的な世界認識の裏側には必ず水素爆弾が
くすぶつてゐるのである。
三島由紀夫「終末観と文学」より
今日のやうに泰平のつづく世の中では、人間の死の本能の欲求不満はいろいろな形であらはれ、
ある場合には、社会不安のたねにさへなる。こんな問題は、浅薄なヒューマニズムや、
平べつたい人間認識では、とても片付かない。
三島由紀夫「K・A・メニンジャー著 草野栄三良訳『おのれに背くもの』推薦文」より
剣道の、人を斬るといふ仮構は爽快なものだ。今は人殺しの風儀も地に落ちたが、
昔は礼儀正しく人を斬ることができたのだ。人とエヘラエヘラ附合ふことだけに
エチケットがあつて、人を斬ることにエチケットのない現代とは、思へば不安な時代である。
三島由紀夫「ジムから道場へ――ペンは剣に通ず」より 現代は奇怪な時代である。やさしい抒情やほのかな夢に心を慰めてゐる人たちをも、
私は決して咎めないが、現代といふ奇怪な炎のなかへ、われとわが手をつつこんで、
その烈しい火傷の痛みに、真の時代の詩的感動を発見するやうな人たちのはうを、私は
もつともつと愛する。古典派と前衛派は、このやうな地点で、めぐり会ふのである。
なぜなら生存の恐怖の物凄さにおいて、現代人は、古代人とほぼ似寄りのところに居り、
その恐怖の造型が、古典的造型へゆくか、前衛的造型へゆくかは、おそらくチャンスの
ちがひでしかない。
三島由紀夫「推薦の辞(650 EXPERIENCE の会)」より
夫婦の生活程度や教養の程度の近似といふことは、結婚生活のかなり大事な要素である。
性格の相違などといふ文句は、実は、それまでの夫婦各自の生活史のちがひにすぎぬことが多い。
三島由紀夫「見合ひ結婚のすすめ」より
「日本的」といふ言葉のなかには、十分、ツイスト的要素、マッシュド・ポテト的要素、
ロックンロール的要素もあるのです。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より 風俗は滑稽に見えたときおしまひであり、美は珍奇からはじまつて滑稽で終る。つまり
新鮮な美学の発展期には、人々はグロテスクな不快な印象を与へられますが、それが次第に
一般化するにしたがつて、平均美の標準と見られ、古くなるにしたがつて古ぼけた
滑稽なものと見られて行きます。
ユーモアと冷静さと、男性的勇気とは、いつも車の両輪のやうに相伴ふもので、ユーモアとは
理知のもつともなごやかな形式なのであります。
三島由紀夫「文章読本」より
作家は作品を書く前に、主題をはつきりとは知つてゐない。「今度の作品の主題は何ですか」
と作家に訊くのは、検事に向かつて「今度の犯罪の証拠は何ですか」と訊くやうなものである。
作中人物はなほ被疑者にとどまるのである。もちろん私はストーリイやプロットについて
言つてゐるのではない。はじめから主題が作家にわかつてゐる小説は、推理小説であつて、
私が推理小説に何ら興味を抱かないのはこの理由による。外見に反して、推理小説は、
刑事訴訟法的方法論からもつとも遠いジャンルの小説であり、要するに拵(こしら)へ物である。
三島由紀夫「法律と文学」より 私はあくまで黒い髪の女性を美しいと思ふ。洋服は髪の毛の色によつて制約されるであらうが、
女の黒い髪は最も派手な、はなやかな色であるから、かうして黒い服を着た黒い髪の女は、
世界中で一番派手な美しさと言へるだらう。
三島由紀夫「恋の殺し屋が選んだ服」より
今でも英国では、午後の紅茶に「ミルク、ファースト?ティー、ファースト?」と丁重に
きいてまはつてゐる。同じ茶碗にお茶を先に入れようがミルクを先に入れようが、
味に変りはなささうだが、そんなことはどうでもいいかといへば、そこには非合理な
各人各説といふものがあつて、決してさうはいかないのが英国であることは、今も昔も
変りがない。「どつちでもいいぢやないか」といふ精神は、生活を、ひろくは文化といふものを、
あつさり放棄してしまつた精神のやうに思はれる。
三島由紀夫「英国紀行」より 「まづ身を起こせ」といふのが、生来オッチョコチョイの私の主義であつて、
「核兵器よりもまづ駆け足」といふことを、隊付をして学びえたと思つてゐる。
人間の脚は、特に国土戦において、バカにならぬ戦場機動速度を持つのである。
三島由紀夫「自衛隊と私」より
空手は武器を禁じられた沖縄島民の民族の悲願が凝つて成つた武道ときいてゐる。
日本の戦後も占領軍による武装解除がそのまま平和憲法に受けつがれ、徒手空拳で戦ひ、
徒手空拳で身を守るほかに、民族の志を維持する道をふさがれてゐる。
空手道が戦後の日本で隆盛になつたのは決して偶然ではない。
三島由紀夫「第十一回空手道大会に寄せる……」より
正しい力は崇高であり、汚れた力は醜悪であることは、あたかも、清い水は生命をよみがへらせ、
汚ない水は人を病気にさせるのに似てゐる。
三島由紀夫「『第十二回全国空手道選手権大会』推薦文」より 刀が武士の魂といはれ、筆が文士の魂といはれるのは、道具を使つた闘争や芸術表現が、
そのまま精神のあらはれになるためには、その道具と生体の一体化が企てられねばならぬ、
といふ要請から生れた言葉であらう。道具が生体の一部になればなるほど、道具はただの
道具ではなくなり、手段はただの手段ではなくなり、魂といふ幹の一本の枝になつて、
そこにまで魂の樹液が浸透して、魂の動くままに動き、いはば道具は透明になるであらう。
そのとき、手段と目的、肉体と精神、行動と思想の、乖離や二元性は完全に払拭されるであらう。
三島由紀夫「空手の秘義」より
「正義は力」だが「力は正義」ではない。その間の消息をもつともよく示してゐるのが、
空手だと思ふ。空手は正義の表現力であり、黙した力である。口舌の徒はつひに正義さへ
表現しえないのである。
三島由紀夫「『第十三回全国空手道選手権大会』推薦文」より 現代に政治を語る者は多い。政治的言説によつて世を渡る者の数は多い。厖大なデータを整理し、
情報を蒐集し、これを理論化体系化しようとする人は多い。しかもその悉くが、現実の
上つ面を撫でるだけの、究極的にはニヒリズムに陥るやうな、いはゆる現実主義的情勢論に
墜するのは何故だらうか。このごろ特に私の痛感するところであるが、この複雑多岐な、
矛盾にみちた苦悶の胎動をくりかへして、しかも何ものをも生まぬやうな不毛の現代社会に於て、
真に政治を語りうるものは信仰者だけではないのか? 日本もそこまで来てゐるやうに思はれる。
三島由紀夫「『占領憲法下の日本』に寄せる」より
電子計算機を使ふ人間が、ともすると忘れてゐることは、電子計算機の命令に従つて
動くのはよいが、人間は疲れるのに、電子計算機は決して疲れない、といふことである。
人間にとつて、疲労は又、生命力の逆の証明なのだ。
三島由紀夫「クールな日本人(桜井・ローズ戦観戦記)」より 私は歌舞伎といふものは、もちろん台本も大切、心理描写も大切だけれども、一瞬間で人を酔はせることが
できなければ、歌舞伎ではないんだ、といふことがだんだん分るやうになつたんです。(中略)
お客が喜ぶのは、二人の人間が何か一所懸命ぶつかり合つてゐる、しかもただ言葉でぶつかり合つてゐるのでは
なくつて型でぶつかり合つてゐる、性格でぶつかり合つてゐるのではなくて、型でぶつかつてゐる、そこにみな
感動するんです。
そしてその型が一つ一つ見事に磨きぬかれてゐる、たとへば喧嘩でも見悪(みにく)い喧嘩ぢやない、
コノヤロウといふ喧嘩なら、どこでも見せられる。腕の振りあげ方一つ、殴り方一つにもちやんと型がある。
さういふふうに感覚的な魅惑といふものに訴へることなしには、どんなことも歌舞伎は我々に伝へてこない。
もし感覚的魅惑を抜きにして、歌舞伎を分れといつても無理だし、そしてその狭い感覚的な魅惑の道を通つて
歌舞伎といふものが、にゆつと飛び出してくるんです。
三島由紀夫「悪の華――歌舞伎」より (中略)私は歌舞伎といふものは、いつでも昔が良かつたもんだ、と思ふんです。あらゆる時代で、昔の方が
良かつたから、歌舞伎といふこの変な生命が続いてゐるんです。
これをよく考へていただかないとね、歌舞伎は、だんだん進歩していくんだ、昔はこんなに原始的であつたのが、
良くなつていくんだと思ふと、大間違ひなんです。今が一番悪い、私で終りだといふ気持がないと、歌舞伎の
これからを支へて行くことはできない。
またうまいことに、歌舞伎といふものは、昔から滅亡論があつた。明治のころから歌舞伎滅亡論といふのが
何度あつたか分らないほどあつたんです。滅びる、滅びるといはれながら、こんな大きな劇場が建つちやつた。
これで歌舞伎が滅びないかといふと、まだいつでも滅びるんです。滅びる用意をしてゐる。
歌舞伎を滅ぼすやうな要因は、いつの時代にも、たくさんありました。あなた方は若いのに、これから歌舞伎を
始めるといふのは、滅びるものに忠誠を誓ふことになるんです。
三島由紀夫「悪の華――歌舞伎」より あなた方の前には、もつと新しいものが、いくらでもる。たとえばコンピュータの仕事をしてもよろしい。
…今や日本ではますます新しい仕事は要求されてゐるんです。
滅びるに決つてゐるやうなものに自分が入つて行くといふのは、よほどの覚悟がなければできない。昔は良かつたが、
今は駄目だ、と絶えず言はれる。
ところがその昔は良かつたものに、いつか自分が近付いていつて、その中に溶け込むときが来る、そこが人間の
不思議なところで、歌舞伎は昔に書かれたものですから、もし昔の理想に自分がスーッと溶け込むことができ、
昔の俳優の持つてゐた魂が、自分の中にフゥァーと宿ることがあると、その時がどんな時代であらうと、
歌舞伎といふものは、また蘇つてくるんです。
三島由紀夫「悪の華――歌舞伎」より (中略)私はあくまで歌舞伎を愛する、だけど私は観客として、あるひは演出家として、その出て来た華だけを
愛してゐたい。華の向う側に、どす黒いものがあるのは分つてゐるけれども、そのどす黒いものは、そのまま
大切な肥料としてそつとしておきたい、といふ気持が非常に強いんです。
もちろん私は歌舞伎の改良といふことを全然否定するわけではありませんけれども、歌舞伎といふものは、
悪に繋がつてゐるといふことを信じますから、ああ、いくらでもいくらでも綺麗にしてごらん、綺麗にしたら
何が失くなるか、よく考へてごらんといふより他にないんです。
あなた方、この歌舞伎の世界に入つて来たのには、よほどの覚悟がなくてはならんと思ふのは、その悪といふものを
是認するといふこと、そして不合理を是認するといふことです。不合理を自分の中に取り込まなければ、
歌舞伎といふ芝居を演る意味がない。(中略)
一番悪いものと、一番良いものとが結びついてゐるのが、歌舞伎の不思議なんです。それを切つたらば、生命が
なくなる。
三島由紀夫「悪の華――歌舞伎」より 真の東洋的なもの、東洋的神秘主義の最後の一線を、近代的立憲国家の形体に於て
留保したものが日本の天皇制である。天皇制は過去の凡ゆる東洋文化の枠であり、
帝王学と人生哲学の最後の結論である。これが失はれるとき東洋文化の現代文化へのかけはし、
その最後の理解の橋も失はれるのである。
三島由紀夫「偶感」より
日本人は何度でも自国の古典に帰り、自分の源泉について知らねばならない。その泉から
何ものかを汲まねばならない。この「源泉の感情」が涸れ果てるときこそ、一国一民族の
文化がつひに死滅するときであらう。
三島由紀夫「文化の危機の時代に時宜を得た全集(『日本古典文学全集』推薦文)」より 文学には最終的な責任といふものがないから、文学者は自殺の真のモラーリッシュな
契機を見出すことはできない。私はモラーリッシュな自殺しかみとめない。すなはち、
武士の自刃しかみとめない。
三島由紀夫「日沼氏と死」より
コンプレックスとは、作家が首吊りに使ふ踏台なのである。もう首は縄に通してある。
踏台を蹴飛ばせば万事をはりだ。あるひは親切な人がそばにゐて、踏台を引張つてやれば
おしまひだ。……作家が書きつづけるのは、生きつづけるのは、曲りなりにもこの踏台に
足が乗つかつてゐるからである。その点で、踏台が正しく彼を生かしてゐるのだが、
これはもともと自殺用の補助道具であつて、何ら生産的道具ではなく、踏台があるおかげで
彼が生きてゐるといふことは、その用途から言つて、踏台の逆説的使用に他ならない。
踏台が果してゐるのはいかにも矛盾した役割であつて、彼が踏台をまだ蹴飛ばさない
といふことは、半ばは彼の自由意志にかかはることであるが、自殺の目的に照らせば、
明らかに彼の意志に反したことである。
三島由紀夫「武田泰淳氏――僧侶であること」より 芸術家が自分の美徳に殉ずることは、悪徳に殉ずることと同じくらいに、云ひやすくして
行ひ難いことだ。
三島由紀夫「加藤道夫氏のこと」より
「ぜいたくを言ふもんぢやない」 などと芸術家に向つて言つてはならない。ぜいたくと
無い物ねだりは芸術家の特性であつて、それだけが芸術(革命)を生むと信じられてゐる。
三島由紀夫「不満と自己満足――『もつとよこせ』運動もわが国の繁栄に一役」より
文人の倖は、凡百の批評家の讃辞を浴びることよりも、一人の友情に充ちた伝記作者を
死後に持つことである。しかもその伝記作者が詩人であれば、倖はここに極まる。
三島由紀夫「『蓮田善明とその死』序文」より 人間が為し得る発見は、あらゆる場合、宇宙のどこかにすでに完成されてゐるもの――
すでに完全な形に用意されてゐるものの模写にすぎない。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
日本の詩文とは、句読も漢字もつかはれないべた一面の仮名文字のなかに何ら別して
意識することなく神に近い一行がはさまれてゐること、古典のいのちはかういふところに
はげしく煌めいてゐること、さうして真の詩人だけが秘されたる神の一行を書き得ること、
かういふことだけを述べておけばよい。
平岡公威(三島由紀夫)17歳「伊勢物語のこと」より この地上で自分の意欲を実現する方式に二つはないのではないか? 芸術も政治も、
その方式に於ては一つなのではないか? だからこそ、芸術と政治はあんなにも仲が
悪いのではないか?
ラヂウムを扱ふ学者が、多かれ少なかれ、ラヂウムに犯されるやうに、身自ら人間で
ありながら、人生を扱ふ芸術家は、多かれ少なかれ、その報いとして、人生に犯される。
…人間の心とは、本来人間自身の扱ふべからざるものである。従つてその扱ひには常に
危険が伴ひ、その結果、彼自身の心が、自分の扱ふ人間の心によつて犯される。犯された末には、
生きながら亡霊になるのである。そして、医療や有効な目的のために扱はれるラヂウムが、
それを扱ふ人間には有毒に働くやうに、それ自体美しい人生や人間の心も、それを扱ふ人間には、
いつのまにか怖ろしい毒になつてゐる。多少ともかういふ毒素に犯されてゐない人間は、
芸術家と呼ぶに値ひしない。
三島由紀夫「楽屋で書かれた演劇論」より これは動いている小説である。動いて、動いて、時々おどろくほど鮮明な映像があらわれながら、却って現実の謎は深まってゆく。
たえざるサスペンス、そして卓抜な会話が社会の投影図法を描き、
犯罪の匂いと、尾行と襲撃と、……その結果、イリュージョンがついに現実に打ち克ち、
そこから見た現実自体の構造が、突然すみずみまで明晰になる。
ラストのモノロオグが、この小説の怖ろしい解決篇であり、作品全体の再構築であるところに一篇の主題がこもっている。
失踪者の前にのみ、未来が姿をあらわすのだ。
安倍氏がその小説の中に、会話の天才をみごとに活かし、
「砂の女」よりも「他人の顔」よりも、はるかに迅速に疾走してみせた小説である。
三島由紀夫「安部公房『燃えつきた地図』について」より
一旦身に受けた醜聞はなかなか払ひ落とせるものではない。たとへ醜聞が事実とちがつて
ゐても、醜聞といふものは、いかにも世間がその人間について抱いてゐるイメージと
よく符合するやうにできてゐる。ましてその醜聞が、大して致命的なものではなく、
人々の好奇心をそそつたり、人々に愛される原因になつたりしてゐるときには尚更である。
かくて醜聞はそのまま神話に変身する。
微笑は、ノー・コメントであり、「判断停止」「分析停止」の要請である。こんなことは
社会生活では当たり前のことで、日本のやうに個人主義の発達しない社会では、微笑が
個人の自由を守つてきたのである。しかもそれは礼儀正しさの要請にも叶つてゐる。
三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より 日本の伝統は大てい木と紙で出来てゐて、火をつければ燃えてしまふし、放置(はふ)つて
おけば腐つてしまふ。伊勢の大神宮が二十年毎に造り替へられる制度は、すでに千年以上の
歴史を持ち、この間五十九回の遷宮が行はれたが、これが日本人の伝統といふものの考へ方を
よくあらはしてゐる。西洋ではオリジナルとコピイとの間には決定的な差があるが、
木造建築の日本では、正確なコピイはオリジナルと同価値を生じ、つまり次のオリジナルに
なるのである。京都の有名な大寺院も大てい何度か火災に会つて再建されたものである。
かくて伝統とは季節の交代みたいなもので、今年の春は去年の春とおなじであり、去年の
秋は今年の秋とおなじである。
三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より どの国も自分の国のことだけで一杯で、日本みたいに好奇心のさかんな国はどこにもない。
…なかんづく好奇心の皆無におどろかされるのはフランスで、あの唯我独尊の文化的優越感は
支那に似てゐる。
「古橋はすばらしいですね、僕たちとても古橋を尊敬しているんです」
私は源氏物語の日本を尊敬してゐるなんぞとどこかの国のインテリに云はれるより、
他ならぬギリシアの子供にかう云はれたことのはうをよほど嬉しく感じた。競技の優勝者を
尊敬した古代ギリシアの風習が、子供たちの心に残つてをり、しかもわが日本が、
(古代ギリシアには、水泳競技はなかつたと思はれるが)、古代ギリシアの競技会に
参加して、優勝者を出したやうな気がしたのである。かういふ端的なスポーツの勝利が、
いかに世界をおほつて、世界の子供たちの心を動かすかに、私は併せて羨望を禁じえなかつた。
事実、われわれの精神の仕事も、もし人より一センチ高く飛ぶとか、一秒速く走るか
とかいふ問題をバカにすれば、殆んどその存在理由を失ふであらう。
三島由紀夫「日本の株価――通じる日本語」より 同じアメリカぎらひでも、フランスのそれと日本のそれとの間には、大きな相違がある。
フランスのアメリカぎらひは、自分の下手な似顔を描いた絵描きに対する憎悪のやうなものである。
ニュースの功罪について、僕はいろいろと考へざるをえなかつた。どこの国でも知識階級は
疑り深くて、新聞に書いてあることを一から十まで信じはしない。信じるのは民衆である。
しかし或る非常の事態にいたると、知識階級の観念性よりも、民衆の直感のはうが、
ニュースを超えて、事態の真実を見抜いてしまふ。かれらは自分の生活の場に立つて、
蟻が洪水を予感するやうに、しづかに触角をうごめかして現実を測つてゐる。真実な
デマゴオグ(煽動者)といふものが、かうして起る。敗戦間近い日本に起つたやうな
あの民衆の本能的不信は、古代にもたびたび起つた。民衆のあひだにいつのまにか
歌はれはじめる童謡が、何らかの政治的変革の前兆と考へられたのには、理由がある。
三島由紀夫「遠視眼の旅人」より 映像はいつも映画作家の意志に屈服するとは限らぬことは、言葉がいつも小説家の意志に
屈服するとは限らぬと同じである。映像も言葉も、たえず作家を裏切る。
われわれの古典文学では、紅葉(もみぢ)や桜は、血潮や死のメタフォアである。
民族の深層意識に深くしみついたこのメタフォアは、生理的恐怖に美的形式を課する訓練を
数百年に亘つてつづけて来たので、歴史の変遷は、ただこの観念聯合の秤のどちらかに、
重みをかけることでバランスを保つてきた。戦争中のやうに多すぎる血潮や死の時代には、
人々の心は紅葉や桜に傾き、伝統的な美的形象で、直接の生理的恐怖を消化した。
今日のやうに泰平の時代には、秤が逆に傾いて、血潮や死自体に、観念的美的形象を
与へがちになるのは、当然なことである。かういふことは近代輸入品のヒューマニズムなどで
解決する問題ではない。
三島由紀夫「残酷美について」より 歌には残酷な抒情がひそんでゐることを、久しく人々は忘れてゐた。古典の桜や紅葉が、
血の比喩として使はれてゐることを忘れてゐた。月や雁や白雲や八重霞や、さういふものが
明白な肉感的世界の象徴であり、なまなましい肉の感動の代置であることを忘れてゐた。
ところで、言葉は、象徴の機能を通じて、互(かた)みに観念を交換し、互みに呼び合ふ
ものである。それならば血や肉感に属する残酷な言葉の使用は、失はれた抒情を、
やさしい桜や紅葉の抒情を逆に呼び戻す筈である。春日井氏の歌には、さういふ象徴言語の
復活がふんだんに見られるが、われわれはともあれ、少年の純潔な抒情が、かうした手続を
とつてしか現はれない時代に生きてゐる。
三島由紀夫「春日井建氏の『未青年』の序文」より
性と解放と牢獄との三つのパラドックスを総合するには芸術しかない。
三島由紀夫「恐ろしいほど明晰な伝記――澁澤龍彦著『サド侯爵の生涯』」より 肉といふものは、私には知性のはぢらひあるひは謙抑の表現のやうに思はれる。鋭い知性は、
鋭ければ鋭いほど、肉でその身を包まなければならないのだ。ゲーテの芸術はその模範的な
ものである。精神の羞恥心が肉を身にまとはせる。それこそ完全な美しい芸術の定義である。
羞恥心のない知性は、羞恥心のない肉体よりも一そう醜い。
ロダンの彫刻「考へる人」では、肉体の力と、精神の謙抑が、見事に一致してゐる。
三島由紀夫「ボディ・ビル哲学」より 生物は、いらいらの中で育ち、成長期に死に一等親近してゐるやうに感じ、さて、幸福感を
感じるときには、もう衰退の中にゐるのだ。
春といふ言葉は何と美しく、その実体は何とまとまりがなく不安定であらう。さうして
青春は思ひ出の中でのみ美しいとよく云ふけれど、少し記憶力のたしかな人間なら、
思ひ出の中の青春は大抵醜悪である。多分、春がこんなに人をいらいらさせるのは、
この季節があまりに真摯誠実で、アイロニイを欠いてゐるからであらう。あの春先の
まつ黄いろな突風に会ふたびに、私は、うるさい、まともすぎる誠実さから顔をそむけるやうに、
顔をそむけずにはゐられない。
三島由紀夫「春先の突風」より 青春といふものは明るいと思へば暗く、暗いと思へば明るく、自分がその渦中に在るあひだは
五里霧中でありながら、時経てかへりみると、村の教会の尖塔のやうにくつきりと日を受けて
輝やいてゐる。意味があると思へばあり、ないと思へばなく、生の激湍(げきたん)と
死の深淵とにふたつながら接し、野心と絶望を併せ蔵してゐる。ティボーデが、小説に
青年を書いて成功したものの少ないことを指摘してゐるのは、青春のかういふ特質に
よるのであらう。いはば深海魚が大気の中に引揚げられると変形されてしまふやうに、
青春の姿は、さういふ変形された形でしかとらへられぬものかもしれない。しかし青春も亦、
病気のやうに、一人一人がその中を生きるもので、いづれは治る病気ではあるけれど、
療法をあやまると、とりかへしのつかないことになる。
三島由紀夫「あとがき『青春をどう生きるか』」より 飛行機が美しく、自動車が美しいやうに、人体は美しい。女が美しければ、男も美しい。
しかしその美しさの性質がちがふのは、ひとへに機能がちがふからである。(中略)
機能に反したものが美しからう筈もなく、そこに残される手段は装飾美だけであるが、
文明社会では、男でも女でも、この機能美と装飾美の価値が巓倒してゐる。男の裸が
グロテスクなどといふ石原慎太郎の意見は、いかにも文明に毒された低級な俗見である。
三島由紀夫「機能と美」より
エロティシズムが本来、上はもつとも神聖なもの、下はもつとも卑賎なものまで、
自由につながつた生命の本質であることは、「古事記」を読めばよくわかることだが、
後世の儒教道徳が、その神聖なエロティシズムを忘れさせて、ただ卑賎なエロティシズムだけを、
日本人の心に与へつづけて来たのであつた。
三島由紀夫「バレエ『憂国』について」より わが国中世の隠者文学や、西洋のアベラアルとエロイーズの精神愛などは肉体から精神への
いたましい堕落と思はれる。精神が肉体の純粋を模倣しようとしてゐる。宗教に於ては
「基督のまねび」それは愛においても肉体のまねびであつた。近代以後さらにその精神の
純粋すら失はれて今日見るやうな世界の悲劇のかずかずが眼前にある。
三島由紀夫「精神の不純」より
われわれが住んでゐる時代は政治が歴史を風化してゆくまれな時代である。
古代には運命が、中世には信仰が、近代には懐疑が、歴史の創造力として政治以前に存在した。
ところが今では、政治以前には何ものも存在せず、政治は自然力の代弁者であり、
したがつて人間は、食あたりで床について下痢ばかりしてゐる無力な患者のやうに、
しばらく(であることを祈るが)彼自身の責任を喪失してゐる。
三島由紀夫「天の接近――八月十五日に寄す」より それがたとへどのやうな黄金時代であつても、その時代に住む人間は一様に、自分の
生きてゐる時代を「悪時代」と呼ぶ権利をもつてゐると私には考へられる。
あらゆる改革者には深い絶望がつきまとふ。しかし、改革者は絶望を言はないのである。
絶望は彼らの理想主義的情熱の根源的な力であるにもかかはらず、彼らの理想はその力の
根絶に向けられてゐるからである。
「絶望する者」のみが現代を全的に生きてゐる。絶望は彼らにとつて時代を全的に
生きようとする欲求であり、しかもこの絶望は生れながらに当然の前提として賦与へられた
ものではなく、偶発的なものである。なればこそかれらは「絶望」を口叫びつづける。
しかもこのやうな何ら必然性をもたない絶望が、彼らを在るが如く必然的に生きさせるのである。
三島由紀夫「美しき時代」より 人間の道徳とは、実に単純な問題、行為の二者択一の問題なのです。善悪や正不正は
選択後の問題にすぎません。道徳とはいつの場合も行為なんです。
自意識が強いから愛せないなんて子供じみた世迷ひ言で、愛さないから自意識がだぶついて
くるだけのことです。
三島由紀夫「一青年の道徳的判断」より
すぐれた芸術作品はすべて自然の一部をなし、新らしく創られた自然に他ならない。
地球上の人類は、全く未知の人同志が同じ瞬間に必ず息を引き取つてゐるといふ当然すぎるほど
当然な現象を、見て見ぬふりをしてをります。
運命的な愛こそは、人々の社会や国家や民族相互の愛の母胎をなし象徴をなすものである。
三島由紀夫「情死について――やゝ矯激な議論――」より 老夫妻の間の友情のやうなものは、友情のもつとも美しい芸術品である。
長い間続く親友同志の間には、必ず、外貌あるひは精神の、両性的対象がある。
三島由紀夫「女の友情について」より
文学に対する情熱は大抵春機発動期に生れてくるはしかのやうなものである。
われわれは人生を自分のものにしてしまふと、好奇心も恐怖もおどろきも喜びも忘れてしまふ。
思春期に於ては人生は夢みられる。われわれ生きることと夢みることと両方を同時に
やることができないのであるが、かういふ人間の不器用に思春期はまだ気づいてゐない。
思春期にある潔癖感は、多く自分を不潔だと考へることから生れてくる。かう考へることは
少年たちを安心させるが、それは自分がまだ人生から拒まれ排斥されてゐるといふ逆説的な
怠惰な安堵なのである。
思春期を殺してしまつた詩人といふものは考へられない。
三島由紀夫「文学に於ける春のめざめ」より 芸術はすべて何らかの意味で、その扱つてゐる素材に対する批評である。判断であり、
選択である。
文体をもたない批評は文体を批評する資格がなく、文体をもつた批評は(小林秀雄氏のやうに)
芸術作品になつてしまふ。
小説を総体として見るときに、批評家は読者の恣意の代表者として、それをどう解釈しようと
勝手であるが、技術を問題にしはじめたら最後、彼ははなはだ倫理的な問題をはなはだ
無道徳な立場で扱ふといふ宿命を避けがたい。
理解力は性格を分解させる。理解することは多くの場合不毛な結果をしか生まず、
愛は断じて理解ではない。
芸術家の才能には、理解力を滅殺する或る生理作用がたえず働いてゐる必要があるやうに思はれる。
三島由紀夫「批評家に小説がわかるか」より 人間は自分一人でゐるときでさへ、自分に対して気取りを忘れない。
男の虚栄心は、虚栄心がないやうに見せかけることである。
個性を超克するところにのみ生れる本当の美の領域では、虚栄心はほとんど用をなさない。
そこではただ献身だけが必要で、この美徳は芸術家と母性との共通点だ。
三島由紀夫「虚栄について」より
作家は末期の瞬間に自己自身になりきつた沈黙を味はふがために一生を語りつづけ喋りつづける。
安易に自己自身になりきれるかのやうな無数のわなからのがれるために、純粋な作家は
遠まはりを余儀なくされる。それも誰よりも遠い、一番遠い遠まはりを。――従つて
純粋な作家の方法論は、不純のかたまりでなければならぬ。さうでなければ、その純粋さは
贋ものである。一つの純粋さのために千の純粋さが犠牲にされねばならぬ。
三島由紀夫「極く短かい小説の効用」より あらゆる芸術作品は完結されない美であるが、もし万一完結されるときそれは犯罪と
なるのである。 犯罪、殊に殺人のやうな行為には、創造のもつ本質的な超倫理性の醜さが
見られ、犯人は人間の登場すべからざる「事実」の領域へ足を踏み入れたことによつて
罰せられるのだ。だからあらゆる犯罪者の信条には、何かきはめて健康なものがある。
三島由紀夫「画家の犯罪――Pen, Pencil and Poison の再現」より
ヨーロッパの芸術家はもつと無邪気に「私は天才です」と吹聴してゐる。自我といふものは
ナイーヴでなければ意味をなさない。
日本の新劇から教壇臭、教訓臭、優等生臭、インテリ的肝つ玉の小ささ、さういふものが
完全に払拭されないと芝居が面白くならない。そのためにはもつと歌舞伎を見習ふが
よいのである。演劇とはスキャンダルだ。
三島由紀夫「戯曲を書きたがる小説書きのノート」より 真の技術といふものはそれ自身一つの感動なのである。
歌舞伎とは魑魅魍魎の世界である。その美は「まじもの」の美でなければならず、
その醜さには悪魔的な蠱惑がなければならない。
三島由紀夫「中村芝翫論」より
歌舞伎の近代化といふはたやすい。しかし浅墓な古典の近代的解釈にだまされるやうなお客は
却つて近代人ですらないのだ。そんなのはもう古い。イヤサ、古いわえ。
美は犠牲の上に成立ち、犠牲を踏まへた生活の必死の肯定によつて維持され育まれる。
類型的であることは、ある場合、個性的であることよりも強烈である。
三島由紀夫「歌舞伎評」より 「後悔せぬこと」――これはいかなる時代にも「最後の者」たる自覚をもつ人のみが
抱きうる決心である。
三島由紀夫「跋(坊城俊民著「末裔」)」より
「子供らしくない部分」を除いたら「子供らしさ」もまた存在しえない。
大人が真似ることのできるのはいはゆる「子供らしさ」だけであり、子供の中の
「子供らしくない部分」は決して大人には真似られない部分である。
三島由紀夫「師弟」より
大学新聞にはとにかく野生がほしい。野生なき理想主義は、知性なきニヒリズムより
数倍わるくて汚ならしい。
三島由紀夫「野生を持て――新聞に望む」より 「商業」それも大規模な商業には、人間の集団とその生活がもたらす深い暮色の香りが
たゞよつてゐるやうな気がします。人間が大勢あつまると暮色がたゞよふのです。
インダストリーといふ雰囲気にはどこかメランコリックなものがあるね。
詩情をよびおこすものは消費面より生産面のはうが多いのではないか。
僕はビルディングの窓々にともる灯火よりも、工場街の灯火のはうに、深い郷愁を
そそるものがあるのを感じます。…昼のサイレンよりも、工場の作業開始のサイレンのはうが、
何故かしら僕のあこがれる世界に近かつたのです。そこでは又しても暗いどよめきの彼方に、
汚れた河口や、並立つ煙突や、曇つた空や、それらの象徴する漠たる人工の苦悩が
聳(そび)え立つてくるのでした。
三島由紀夫「インダストリー――柏原君への手紙」より 偽悪者たることは易しく、反抗者たり否定者たることはむしろたやすいが、あらゆる
外面的内面的要求に飜弄されず、自身のもつとも蔑視するものに万全を尽くすことは、
人間として無意味なことではない。「最高の偽善者」とはさういふことであり、物事が
決して簡単につまらなくなつたりしてしまはない人のことである。
人間は自由を与へられれば与へられるほど幸福になるとは限らない。
三島由紀夫「最高の偽善者として――皇太子殿下への手紙」より
理想は狂熱に、合理主義は打算に、食慾はお腹下しに、真面目は頑迷に、遊び好きは自堕落に、
意地悪はヒステリーに紙一重の美徳でありますから、その紙一重を破らぬためには、
やはり清潔な秩序の精神が、まばゆいほど真白なエプロンが、いつもあなたがたの生活の
シンボルであつてほしいと思ひます。
三島由紀夫「女学生よ白いエプロンの如くあれ」より 作家はどんな環境とも偶然にぶつかるものではない。
三島由紀夫「面識のない大岡昇平氏」より
理想主義者はきまつてはにかみやだ。
三島由紀夫「武田泰淳の近作」より
小説のヒーローまたはヒロインは、必然的に作者自身またはその反映なのである。
三島由紀夫「世界のどこかの隅に――私の描きたい女性」より
これつぽつちの空想も叶へられない日本にゐて、「先生」なんかになりたくなし。
三島由紀夫「作家の日記」より
私の詩に伏字が入る! 何といふ光栄だらう。何といふ素晴らしい幸運だらう。
三島由紀夫「伏字」より
小説家には自分の気のつかない悪癖が一つぐらゐなければならぬ。気がついてゐては、
それは悪でも背徳でもなく、何か八百長の悪業、却つてうすぼんやりした善行に近づいてしまふ。
三島由紀夫「ジイドの『背徳者』」より 簡潔とは十語を削つて五語にすることではない。いざといふ場合の収斂作用をつねに
忘れない平静な日常が、散文の簡潔さであらう。
三島由紀夫「『元帥』について」より
伝説や神話では、説話が個人によつて導かれるよりも、むしろ説話が個人を導くのであつて、
もともとその個人は説話の主題の体現にふさはしい資格において選ばれてゐるのである。
三島由紀夫「檀一雄の悲哀」より
物語は古典となるにしたがつて、夢みられた人生の原型になり、また、人生よりももつと
確実な生の原型になるのである。
三島由紀夫「源氏物語紀行――『舟橋源氏』のことなど」より
趣味はある場合は必要不可欠のものである。しかし必要と情熱とは同じものではない。
私の酒が趣味の域にとどまつてゐる所以であらう。
三島由紀夫「趣味的の酒」より
衒気(げんき)のなかでいちばんいやなものが無智を衒(てら)ふことだ。
三島由紀夫「戦後観客的随想――『ああ荒野』について」より われわれが孤独だといふ前提は何の意味もない。生れるときも一人であり、死ぬときも
一人だといふ前提は、宗教が利用するのを常とする原始的な恐怖しか惹き起さない。
ところがわれわれの生は本質的に孤独の前提をもたないのである。誕生と死の間に
はさまれる生は、かかる存在論的な孤独とは別箇のものである。
三島由紀夫「『異邦人』――カミュ作」より
君の考へが僕の考へに似てゐるから握手しようといふほど愚劣なことはない。それは
野合といふものである。われわれの考へは偶発的に、あるひは偶然の合致によつて
似、一致するのではなく、また、体系の諸部分の類似性によつて似るのではない。
われわれの考へは似るべくして似る。それは何ら連帯ではなく、共同の主義及至は理想でもない。
三島由紀夫「新古典派」より 左翼の人は「ファッシスト」と呼ぶことを最大の悪口だと思つてゐるから、これは
世間一般の言葉に飜訳すれば「大馬鹿野郎」とか「へうろく玉」程度の意味であらう。
ファッシズムの発生はヨーロッパの十九世紀後半から今世紀初頭にかけての精神状況と
切り離せぬ関係を持つてゐる。そしてファッシズムの指導者自体がまぎれもない
ニヒリストであつた。日本の右翼の楽天主義と、ファッシズムほど程遠いものはない。
暴力と残酷さは人間に普遍的である。それは正に、人間の直下に棲息してゐる。今日店頭で
売られてゐる雑誌に、縄で縛られて苦しむ女の写真が氾濫してゐるのを見れば、いかに
いたるところにサーディストが充満し、そしらぬ顔でコーヒーを呑んだり、パチンコに
興じたりしてゐるかがわかるだらう。
三島由紀夫「新ファッシズム論」より 女性は抽象精神とは無縁の徒である。音楽と建築は女の手によつてろくなものはできず、
透明な抽象的構造をいつもべたべたな感受性でよごしてしまふ。
実際芸術の堕落は、すべて女性の社会進出から起つてゐる。女が何かつべこべいふと、
土性骨のすわらぬ男性芸術家が、いつも妥協し屈服して来たのだ。あのフェミニストらしき
フランスが、女に選挙権を与へるのをいつまでも渋つてゐたのは、フランスが芸術の
何たるかを知つてゐたからである。
道徳の堕落も亦、女性の側から起つてゐる。男性の仕事の能力を削減し、男性を性的存在に
しばりつけるやうな道徳が、女性の側から提唱され、アメリカの如きは女のおかげで
惨澹たる被害を蒙つてゐる。悪しき人間主義はいつも女性的なものである。男性固有の
道徳、ローマ人の道徳は、キリスト教によつて普遍的か人間道徳へと曲げられた。
そのとき道徳の堕落がはじまつた。道徳の中性化が起つたのである。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より 一夫一婦制度のごときは、道徳の性別を無視した神話的こじつけである。女性はそれを固執する。
人間的立場から固執するのだ。女にかういふ拠点を与へたことが、男性の道徳を崩壊させ、
男はローマ人の廉潔を失つて、ウソをつくことをおぼえたのである。男はそのウソつきを
女から教はつた。キリスト教道徳は根本的に偽善を包んでゐる。それは道徳的目標を、
ありもしない普遍的人間性といふこと、神の前における人間の平等に置いてゐるからである。
これな反して、古代の異教世界においては、人間たれ、といふことは、男たれ、といふ
ことであつた。男は男性的美徳の発揚について道徳的責任があつた。なぜなら世界構造を
理解し、その構築に手を貸し、その支配を意志するのは男性の機能だからだ。男性から
かういふ誇りを失はせた結果が、道徳専門家たる地位を男性をして自ら捨てしめ、
道徳に対してつべこべ女の口を出させ、つひには今日の道徳的瓦解を招いたものと
私は考へる。一方からいふと、男は女の進出のおかげで、道徳的責任を免れたのである。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より (「危険な関係」の)ヴァルモンは、女性崇拝のあらゆる言辞を最高の誠実さを以てつらね、
女の心をとろかす甘言を総動員して、さて女が一度身を任せると、敝履(へいり)の如く
捨ててかへりみない。
…女に対する最大の侮蔑は、男性の欲望の本質の中にそなはつてゐる。女ぎらひの侮蔑などに
目くじら立てる女は、そのへんがおぼこなのである。
人間の文化はこの悲しみ(omne animal post coitum triste《なべての動物は性交のあとに
悲し》)、この無力感と死の予感、この感情の剰余物から生れたのである。したがつて
芸術に限らず、文化そのものがもともと贅沢な存在である。芸術家の余計者意識の根源は
そこにあるので、余計者たるに悩むことは、人間たるに悩むことと同然である。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より 男は取り残される。快楽のあとに、姙娠の予感もなく、育児の希望もなく、取り残される。
この孤独が生産的な文化の母胎であつた。したがつて女性は、芸術ひろく文化の原体験を
味はふことができぬのである。
私は芸術家志望の女性に会ふと、女優か女声歌手になるのなら格別、女に天才といふものが
理論的にありえないといふことに、どうして気がつかないかと首をひねらざるをえない。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より 文学とは、青年らしくない卑怯な仕業だ、といふ意識が、いつも私の心の片隅にあつた。
本当の青年だつたら、矛盾と不正に誠実に激昂して、殺されるか、自殺するか、すべきなのだ。
青年だけがおのれの個性の劇を誠実に演じることができる。
芸術家にとつて本当に重要な時期は、少年期、それよりもさらに、幼年期であらう。
肉体の若さと精神の若さとが、或る種の植物の花と葉のやうに、決して同時にあらはれない
ものだと考へる私は、青年における精神を、形成過程に在るものとして以外は、高く
評価しないのである。肉体が衰へなくては、本当の青年は生れて来ないのだ。私はもつぱら
「知的青春」なるものにうつつを抜かしてゐる青年に抱く嫌悪はここから生じる。
三島由紀夫「空白の役割」より 今日の時代では、青年の役割はすでに死に絶え、青年の世界は廃滅し、しかも古代希臘のやうに、
老年の智恵に青年が静かに耳傾けるやうな時代も、再びやつて来ない。孤独が今日の青年の
置かれた状況であつて、青年の役割はそこにしかない。それに誠実に直面して、そこから
何ものかを掘り出して来ること以外にはない。
青年のためにだけ在り、青年に本当にふさはしい世界は、行動の世界しかない。
三島由紀夫「空白の役割」
若い女性の「芸術」かぶれには、いかにもユーモアがなく、何が困るといつて、昔の長唄や
お茶の稽古事のやうな稽古事の謙虚さを失くして、ただむやみに飛んだり跳ねたりすれば、
それが芸術だと思ひこんでゐるらしいことである。芸術とは忍耐の要る退屈な稽古事なのだ。
そしてそれ以外に、芸術への道はないのである。
三島由紀夫「芸術ばやり――風俗時評」より 文士などといふ人種ほど、我慢ならぬものはない。ああいふ虫ケラどもが、愚にもつかぬ
ヨタ話を書きちらし、一方では軟派が安逸奢侈の生活を勤め、一方では左翼文士が斜視的
社会観を養つて、日本再建をマイナスすることばかり狂奔してゐる。
若造の純文学文士がしきりに呼号する「時代の不安」だの、「実存」(こんな日本語が
あるものか)だの、「カソリシズムかコミュニズムか」だの、青年を迷はすバカバカしい
お題目は、私にいはせれば悉く文士の不健康な生活の生んだ妄想だと思はれるのである。
三島由紀夫「蔵相就任の思ひ出――ボクは大蔵大臣」より
中年や老人の奇癖は滑稽で時には風趣もあるが、未熟な青年の奇癖といふものは、醜く、
わざとらしくなりがちだ。
三島由紀夫「あとがき(『若人よ蘇れ』)」より この世で最も怖ろしい孤独は、道徳的孤独であるやうに私には思はれる。
良心といふ言葉は、あいまいな用語である。もしくは人為的な用語である。良心以前に、
人の心を苛むものがどこかにあるのだ。
三島由紀夫「道徳と孤独」より
文化の本当の肉体的浸透力とは、表現不可能の領域をしてすら、おのづから表現の形態を
とるにいたらしめる、さういふ力なのだ。世界を裏返しにしてみせ、所与の存在が、
ことごとく表現力を以て歩む出すことなのだ。爛熟した文化は、知性の化物を生むだけではない。
それは野獣をも生むのである。
三島由紀夫「ジャン・ジュネ」より
その苦悩によつて惚れられる小説家は数多いが、その青春によつて惚れられる小説家は稀有である。
三島由紀夫「『ラディゲ全集』について」より 私は自分の顔をさう好きではない。しかし大きらひだと云つては嘘になる。自分の顔を
大きらひだといふ奴は、よほど己惚れのつよい奴だ。自分の顔と折合いをつけながら、
だんだんに年をとつてゆくのは賢明な方法である。
六千か七十になれば、いい顔だと云つてくれる人も現はれるだらう。
三島由紀夫「私の顔」
恥多き思ひ出は、またたのしい思ひ出でもある。
三島由紀夫「『恥』」より
映画には青少年に与へる悪影響も数々あらうが、映画は映画なりのカタルシスの作用を
持つてゐる。それが無害なものであるためには、できるだけ空想的であることがのぞましく、
大人の中にもあり子供の中にもある冒険慾が、何の遠慮もなく充たされるやうな荒唐無稽な
環境がなければならない。
私のいちばん嫌ひな映画といへば、それはいふまでもなく、あのホーム・ドラマといふ代物である。
三島由紀夫「荒唐無稽」より われわれが、お互ひにどんなに共感し共鳴しようと、相手の顔はわれわれの精神の外側に
あり、われわれ自身の顔はといふと、共感した精神のなかに没してしまつて、あたかも
存在しないかのやうであり、そこでこれに反して相手の顔は、いかにも存在を堂々と
主張してゐる不公平なものに思はれる。相手の顔に対する、われわれの要請は果てしれない。
だが、要するに、私は顔といふものを信じる。明晰さを愛する人間は、顔を、肉体を、
目に見えるままの素面を信じることに落ちつくものだ。といふのも、最後の謎、最後の
神秘は、そこにしかないからだ。
三島由紀夫「福田恆存氏の顔」より 知的なものと感性的なもの、ニイチェの言つてゐるアポロン的なものとディオニソス的な
もののどちらを欠いても理想的な芸術ではない。
芸術の根本にあるものは、人を普通の市民生活における健全な思考から目覚めさせて、
ギョッとさせるといふことにかかつてゐる。
ちやうどギリシャのアドニスの祭のやうに、あらゆる穫入れの儀式がアドニスの死から
生れてくるやうに、芸術といふものは一度死を通つたよみがへりの形でしか生命を
把握することができないのではないかといふ感じがする。さういふ点では文学も古代の
秘儀のやうなものである。収穫の祝には必ず死と破滅のにほひがする。しかし死と破滅も
そのままでは置かれず、必ず春のよみがへりを予感してゐる。
三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より 立派な芸術は積木に似た構造を持ち、積木を積みあげていくやうなバランスをもつて
組立てられてゐるけれども、それを作るときの作者の気持は、最後のひとつの木片を
積み重ねるとたんにその積木細工は壊れてしまふ、さういふところまで組立てていかなければ
満足しない。積木が完全なバランスを保つところで積木をやめるやうな作者は、私は
芸術家ぢやないと思はれる。
最後の一片を加へることによつてみすみす積木が崩れることがわかつてゐながら、最後の
木片をつけ加へる。そして積木はガラガラと崩れてしまふのであるが、さういふふうな
積木細工が芸術の建築術だと私は思ふ。
三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より この世界には美しくないものは一つもないのである。何らかの見地が、偏見ですら、
美を作り、その美が多くの眷族(けんぞく)を生み、類縁関係を形づくる。
幻想が素朴なリアリズムの足枷をはめられたままで思ふままにのさばると、かくも美に
背致したものが生れる。
三島由紀夫「美に逆らふもの」より
男性の色情が、いつも何らかの節片淫乱症(フェティシズム)にとらはれてゐるとすれば、
色情はつねに部分にかかはり、女体の「全体」の美を逸する。つまり、いかなる意味でも
「全体」を表現してゐるものは、色情を浄化して、その所有慾を放棄させ、公共的な美に
近づけるのである。
動物的であるとはまじめであることだ。笑ひを知らないことだ。一つのきはめて人工的な
環境に置かれて、女たちははじめて、自分たちの肉体が、ある不動のポーズを強ひられれば
強ひられるほど、生まじめな動物の美を開顕することを知らされる。それから突然、
彼女たちの肉体に、ある優雅が備はりはじめる。
三島由紀夫「篠山紀信論」より 日本ではいまだに啓蒙的なインテリゲンチアが、古い日本は悪であり、アジア的なものは
後退的であると思ひ込んでゐるのは、実に簡単な理由、日本人に植民地の経験がないからである。
又、進歩主義者の民族主義が、目前の政治的事象への反撥以外に、民衆に深い共感を
与へないのも、日本人に植民地の経験がないからである。この民族主義は東南アジアでは
怖るべき力になる。
資本主義国、社会主義国いづれを問はず、結局めざましい成功を収めた経済現象の背後には、
必ず政策の成功があり、政策の基礎には民族的エネルギーに富んだ「国民的生産力」が存在する。
三島由紀夫「亀は兎に追ひつくか?――いはゆる後退国の諸問題」より
今日、伝統といふ言葉は、ほとんど一種のスキャンダルに化した。
どんな時代が来ようと、己れを高く持するといふことは、気持のよいことである。
三島由紀夫「藤島泰輔『孤独の人』序」より 風俗といふやつは、仮名遣ひなどと同様、むやみに改めぬがよろしい。
三島由紀夫「きのふけふ 羽田広場」より
母親に母の日を忘れさすこと、これ親孝行の最たるものといへようか。
三島由紀夫「きのふけふ 母の日」より
現実はいつも矛盾してゐるのだし、となりのラジオがやかましいと非難しながら、やはり
家にだつてラジオの一台は必要だといふことはありうる。
三島由紀夫「きのふける 両岸主義」より
日本はここでアジア後進国にならつて、もう少し威厳とものわかりのわるさを発揮
できないものであらうか。ものわかりのよすぎる日本人はもう沢山。
三島由紀夫「きのふけふ 威厳」より
大衆に迎合して、大衆のコムプレックスに触れぬやうにビクビクして作られた喜劇などは、
喜劇の部類に入らぬ。
三島由紀夫「八月十五夜の茶屋」より
怖くて固苦しい先生ほど、後年になつて懐かしく、いやに甘くて学生におもねるやうな先生ほど、
早く印象が薄れるのは、教育といふものの奇妙な逆説であらう。
三島由紀夫「ドイツ語の思ひ出」より 作家にとつての文体は、作家のザインを現はすものではなく、常にゾルレンを現はすものだ。
一つの作品において、作家が採用してゐる文体が、ただ彼のザインの表示であるならば、
それは彼の感性と肉体を表現するだけであつて、いかに個性的に見えようともそれは
文体とはいへない。
三島由紀夫「自己改造の試み――重い文体と鴎外への傾倒」より
はじめからをはりまで主人公が喜び通しの長編小説などといふものは、気違ひでなければ書けない。
三島由紀夫「文字通り“欣快”」より
画家と同様、作家にも純然たる模写時代模倣時代、があつてよいので、どうせ模倣するなら
外国の一流の作家の模倣と一ト目でわかるやうな、無邪気な、エネルギッシュな失敗作が
ズラリと並んでゐてほしい。
運動の基本や練習の要領については、先輩の忠告が何より実になる筈だが、文学だつて、
少なくとも初歩的な段階では、スポーツと同じ激しい日々の訓練を経なければものに
ならないのである。
三島由紀夫「学習院大学の文学」より 芸術とは物言はぬものをして物言はしめる腹話術に他ならぬ。この意味でまた、芸術とは
比喩であるのである。物言はんとして物言ひうるものは物言はしておけばよい。
作品を読むことによつてその内容が読者の内的経験に加はるやうに、一人の女の肉体を
知ることはまた一瞬の裡にその女の生涯を夢みその女の運命を生きることでもある。
三島由紀夫「川端康成論の一方法――『作品』」より
神を持つ人種と、神を持たぬ人種との間に横たはる深淵は、芸術を以てしては越えられぬ。
それを越えうるものは信仰だけである。
三島由紀夫「小説的色彩論――遠藤周作『白い人・黄色い人』」より
芸術家が芸術と生活をキチンと仕分けることは、想像以上の難事である。芸術家は、
その生活までも芸術に引つぱりこまれる危険にいつも直面してゐる。
三島由紀夫「谷桃子さんのこと」より
人間は好奇心だけで、人間を見に行くことだつてある。
三島由紀夫「奥野健男著『太宰治論』評」より 歴史の欠点は、起つたことは書いてあるが、起らなかつたことは書いてないことである。
そこにもろもろの小説家、劇作家、詩人など、インチキな手合のつけ込むスキがあるのだ。
三島由紀夫「『鹿鳴館』について」より
オルフェは誰であつてもよい。ただ彼は詩に恋すればいいのだ。日本語では妙なことに
詩と死は同じ仮名である。
三島由紀夫「元禄版『オルフェ』について」より
恋が障碍によつてますます募るものなら、老年こそ最大の障碍である筈だが、そもそも
恋は青春の感情と考へられてゐるのであるから、老人の恋とは、恋の逆説である。
三島由紀夫「作者の言葉(『綾の鼓』)」より
かういふ箇所(自然描写)で長所を見せる堀氏は、氏自身の志向してゐたフランス近代の
心理作家よりも、北欧の、たとへばヤコブセンのやうな作家に近づいてゐる。人は自ら
似せようと思ふものには、なかなか似ないものである。
三島由紀夫「現代小説は古典たり得るか 『菜穂子』修正意見」より 世の中には完全に誤解されてゐながら、絶対に誤解されてゐないといふふうに世間に
思はれてゐる人もたくさんゐる。
人間は精神だけがあるのではなくて、肉体がなぜあるのかといふと、神様が人間はなかば
シャイネン(ふりをする)の存在だとしてゐるといふことを暗示してゐると思ふ。
ザイン(存在)だけのものになつたら、シャイネンがほんたうに要らない人間になる。
それならもう社会生活も放棄し、人間生活も放棄したはうがいい。どんなに誠実さうな
人間でも、シャイネンの世界に生きてゐる。だから僕が一番嫌ひなのは、芸術家らしく
見えるといふことだ。芸術家といふものは、本来シャイネンの世界の人間ぢやないのだから。
芸術家らしいシャイネンといふものは意味がない。それは贋物の芸術家にきまつてゐる。
芸術家らしいシャイネンといへば、頭髪を肩まで伸ばして、コール天の背広を着て
歩いてゐるといふのだらうが、そんなのは贋物の絵描きにきまつてゐる。
三島由紀夫「作家と結婚」より 花柳界ではいまだに奇妙な迷信がある。不景気のときは黄色の着物がはやり、また矢羽根の
着物がはやりだすと戦争が近づいてゐるといふことがいはれてゐる。…かうした慣習や迷信は、
女性が無意識に流行に従ひ、無意識に美しい着物を着るときに、無意識のうちに同時に
時代の隠れた動向を体現しようとしてゐることを示すものである。女の人の髪形や、
洋服の形の変遷も馬鹿にはできない。そこには時代精神の、ある隠された要求が動いて
ゐるかもしれないのである。
三島由紀夫「私の見た日本の小社会」より
知的なものは、たえず対極的なものに身をさらしてゐないと衰弱する。自己を具体化し
肉化する力を失ふのである。
三島由紀夫「ボクシングと小説」より
知己は意外なところに居るものであります。
三島由紀夫「私の商売道具」より
退屈な人間は狂人に似てゐる。
三島由紀夫「大岡昇平著『作家の日記』」より 世間とは何だらう。もつとも強大な敵であると共に、いや、それなればこそ、最終的には、
どうしても味方につけなければならないもの。さういふものと相渉るには、政治学だけでは
十分ではない。何か「世間」に負けない、つひには「世間」がこちらを嫉視せずには
ゐられないやうな、内的な価値と力が要る。魅惑(シヤルム)こそ世間に対する最後の
武器である。(中略)
美しい病気を(いくら美しくても、病気である限り、もともと人に忌み避けられるものを)
世間全般に伝播伝染させ、つひには健康な人間の自信をも喪失させ、病気になりたいと
願はせるまでもつてゆくこと。すなはち、自分一個の病気を時代病にまでしてしまふこと。
人は、虚偽を以てまごころを購ふことには十中八九失敗するが、まごころを以て虚偽を
購ふことには時あつて成功する。
三島由紀夫「序(丸山明宏著『紫の履歴書』)」より 日本近代知識人は、最初からナショナルな基盤から自分を切り離す傾向にあつたから、
根底的にデラシネ(根なし草)であり、大学アカデミズムや出版資本に寄生し、一方では
その無用性に自立の根拠を置きながら、一方では失はれた有用性に心ひそかに憧憬を寄せてゐる。
日本知識人が自己欺瞞に陥るくらゐなら、死んだはうがよからう、と嘲笑はれてゐる声を
きかなければ、知識人の資格はない。
知識人の唯一の長所は自意識であり、自分の滑稽さぐらいは弁えてゐなくてはならぬ。
命を賭けて守れぬやうな思想は思想と呼ぶに値しない。
三島由紀夫「新知識人論」より