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【割腹自殺】●●三島由紀夫3●●【肉体改造】
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0501無名草子さん
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2011/02/16(水) 20:36:14
>>500
お見合い相手を、聖心女子大学から何人か推薦してもらって、その中に美智子さんがいたらしいよ。
0503無名草子さん
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2011/02/16(水) 23:35:47
三島さんが美智子さんと結婚してたらどうなってんだろう
0504無名草子さん
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2011/02/17(木) 10:15:47
三島さんも自殺しなかったかも・・・だし、
現在の皇統の危機もなかったかも・・・
0505無名草子さん
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2011/02/17(木) 22:10:47
三島と美智子さんの子供(娘)が皇室に嫁いだかもね。
0506無名草子さん
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2011/02/18(金) 16:49:56
いまの皇統の危機は美智子さんの私怨だから。
0507無名草子さん
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2011/02/27(日) 18:21:25.28
ホモなのに、、、何で結婚なんてしたのかな?
0508無名草子さん
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2011/02/27(日) 19:26:12.10
まったく女を受け付けないほどのホモじゃないからでしょ。
0509無名草子さん
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2011/03/01(火) 22:39:45.44
道徳を信じない道徳家、愛を拒否する愛の詩人、詠歎的であることを恐怖する、しかもロマンティックな歎美家。
――『沈める滝』の背後にある作者の姿を、一口にいえば、そういうことになるのではないか、とぼくは思っている。
既成のものを信じないという立場に立って、その荒廃の上に、あらためて夢なり美なりを、人工的につくり
出そうとするところに成りたってきたのが、一般に三島由紀夫の文学の世界なのである。(中略)
夢が、告白が、ありきたりの男女の物語が、もし信じられないのだとしたら、その信じられないという地点に立って、
ひとはなお、夢や告白や物語の花々を、咲かせることができないものか。人工の花々を。――三島由紀夫の文学は、
その設問から出発するのであって、例はそのほか、あげてゆけば彼の全作品に及ぶことになるだろう。(中略)
彼はたしかに、古い夢の、神々の、死の自覚の上に立って、つねに仕事をしてきた作家であるといえるだろう。
彼は神々を、錬金術師のように、合成することを夢みる。そこに彼の批評精神があり、光栄があり、そしてまた
苦しみがあるばずだ。

村松剛「『沈める滝』解説文」より
0510無名草子さん
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2011/03/05(土) 10:20:50.62
三島由紀夫が他界してから、彼の死を中心にして実に多くの本が出版された。この現象は今後も続くと思うのだが、
僕が読んで納得がいく三島由紀夫論、三島由紀夫評は、全部に目を通した訳ではないものの、意外に少ないようだ。
僕は、三島由紀夫が死をもって問いかけたのは、手続き民主主義とも呼ばれる今の体制の中で、本当のナショナリズムを
形にすることは可能なのか、という問題だったのではないかと思う。そのように視点を定めてみると、見えて
くることがいくつかある。僕は、ナショナリズムを国粋主義、排外主義と同一視するのは、伝統尊重を保守反動と
同じと見る考えと共に、いわゆる進歩主義の大きな誤りだと思っている。
(中略)戦後のわが国の議会主義が政策を中心としたものではなく、手続きを中心にした民主主義を本質として
いたことが現れているように僕には思われる。

辻井喬「叙情と闘争」より
0511無名草子さん
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2011/03/05(土) 10:21:46.37
三島由紀夫が自らの生命を賭けて反対した思想の重要な側面は、この、手続きさえ合っていれば、その政策や
行動の内容は問わないという、敗戦後のわが国の文化風土だったのではないか。彼の目に、それは思想的頽廃としか
映らなかったのである。確かに、このような社会構造の中にあっては芸術は死滅するに違いない。
しかし、多くのメディアや芸術家は、彼の行動の華々しさや烈しさに目を奪われて、それを右翼的な暴発としか
見なかった。もしかすると戦後の社会は、1970年の時点ですでに烈しい行動に対して、ただその烈しさを恐れ、
その奥に思想的な純粋性や生命の燃焼の輝きを見る力を失っていたのかもしれない。

辻井喬「叙情と闘争」より
0512無名草子さん
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2011/03/10(木) 12:16:37.65
「(三島由紀夫の)絶えず真剣に生きることを望み、『にせものの平和、にせものの安息』(「白蟻の巣」)を
軽視する姿勢は、今となってみれば、だらだらと生きるわれわれへの痛烈な批判となっている。現代の日本人の
ありようを予見していた天才だったと思う。」
なかにし礼


「三島さんのあの『行動』を基準点として、そこからの距離をはかりながら考へるのが習ひ性となつてゐます。」
長谷川三千子


「戦後教育で『人の生き方』だけを教わり、『死に方』を教わらなかった。衝撃でした。
身の処し方、諫死の是非、日本人の責任のとり方、等々あれこれ考えさせられました。今は当時以上に、強く
考えます。」
出久根達郎


「七〇年までは、激しいものこそが美しかった。音楽、絵画、文学、演劇、映画、そして人間の生き方も。
三島由紀夫氏の死は過激が美しかった時代の最後の花だったな、と今になって思います。」
佐佐木幸綱

雑誌「諸君!」三島由紀夫特集アンケートより
0514無名草子さん
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2011/03/10(木) 17:26:15.97
この機会を逃すと永遠に埋もれてしまうので、三島由紀夫という人間の誠実さについて述べておきたいと思います。
三島さんは、自刃のちょうど一ヶ月前の昭和45年(1970)10月25日に、『東文彦作品集』の序文を
書いています。この東文彦氏は学習院時代に親しくしていた文芸部の先輩で、同人誌『赤絵』はこの東氏の
父君である季彦氏の援助で創刊しています。三島由紀夫は、事件の数ヶ月前に講談社の野間社長に自分が序文を
書くので、東氏の作品集をぜひ出版してくれと頼み、承諾を取ったわけです。このことは、自刃するにあたり、
世話になった方への恩返しをし、後顧の憂いなく事を起こすという事だったのではないかと思われます。
三島由紀夫と東文彦氏は学習院時代手紙を数多くやりとりしていました。お互いに信頼しあった文学上の先輩・
後輩関係だったのですが、東氏は昭和18年に23歳で亡くなり、三島由紀夫は告別式で弔辞を読んだそうです。
そこには堀辰雄も列席していたといわれています。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
0515無名草子さん
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2011/03/10(木) 17:26:39.68
(中略)
じつは、この東文彦氏の父君の東季彦という方は学長職も歴任していた私の大学時代の恩師なのです。(中略)
その東先生から伺ったことですが、三島さんは息子の命日には今も家にお参りに来てくれると言っていました。
(中略)世界的作家になったあとも、命日にはみえていたということです。凄いのはそれにもましてそのことを
三島はだれにも語っていなかったということです。
これは三島由紀夫の年譜などを見ても、そのことについては書かれていません。あれほど自己顕示欲の強かった
三島由紀夫が、お参りに行ったというのを誰にも語らなかったのですね。普通の人だったら、俺は昔世話に
なった人のことはいつまでも忘れない、だから俺はいまもってお参りに行っているんだとすぐ言いそうなものですが、
それをひと言も言わなかった。(中略)ここに私は三島由紀夫の律義さと誠実さを見るのです。この律義さと
誠実さが結局はあの事件の要因の一つになったのかとも考えてしまいます。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
0516殺人鬼川上弘美婆「しるし」またパクり!反論できないストーカー
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2011/03/14(月) 01:47:15.49
三島程度のインテリもでないから川上モコ弘美が俺から盗作してるんだろうが、
ペドの猿が。
「形式主義」って言葉しってますかぁ?
しらんですねえ。モコ川上弘美は2ちゃん社員
無関係写真を送り投稿禁止にする人殺しのストーカーブス
ミズモリ関係者
0517殺人鬼川上弘美婆「しるし」またパクり!反論できないストーカー
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2011/03/14(月) 01:51:19.74
三島がいいとか悪いとか批評する程度の学力が日本の作家にはないわけ
盗作七夜ものがたりの程度の低さ
「考えなし」「ひとすじなわでいかないタイプの人」「バラバラ」
「形式主義」 「みどりのボタン 大きくなる」
(緑のボタンで大きくすると言いたいらしい。
大きくするには 緑のボタン)

盗作5000か所
死ねよストーカー朝鮮中国ジャップ警察殺したからさTSUNAMIで
0518殺人鬼川上弘美婆「しるし」またパクり!反論できないストーカー
垢版 |
2011/03/14(月) 02:00:37.37
川上弘美婆=2ちゃん社員荒らし要員モコ(マグナ)なんか
小説書いても猿のようにメシウマを模倣し
猿のように雪をふらしているだけ
「母音」からパクって「黒白赤緑、青紫、アルファオメガ」
とハクチのような猿真似をくりかえし、
ハーフの娘になりたがる猿であるだけで、
ただ一か所も単語や言い回しなどの
言葉の定義が正しかった場所が(七夜に)無い
とりあえず
太宰オタクの三島は愛憎する程度の知能はあった
ストーカーの嫌われ者の荒らし川上が
俺をどうこう盗作するあつかましい精神薄弱である
ああいう「モコ川上」レヴェルとは違う

そもそもアジア人は全員精神薄弱の
ペドでミズモリ常連と同じストーカーの
シェイプシフターで見てみふふりしかできない猿
0519無名草子さん
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2011/03/23(水) 14:09:31.90
(中略)
日本の安全保障について、疑問点を二つほど提起しておきたいと思います。第一の疑問点は、安保条約第五条の
共同防衛条項です。(中略)第五条に共同防衛として日本国の施政下にある領域において、いずれか一方に対する
武力攻撃があった場合に、共通の危険に対処することが明記されています。が、問題なのは、その中に「自国の
憲法の規定及び手続に従って行動する」と謳われているところです。それは、福田先生がフジテレビの番組
「世相を斬る」海外版で、エドワード・ケネディ上院議員と対談した際に台湾を守る米華条約は「台湾に危機が
迫つたとき、アメリカはそれを助けるかどうか、議会で審議する義務があるといふ程度のものだ」とケネディ議員が
明言していたからです。米華相互防衛条約(1979年失効)を調べてみると安保条約のこの条文とほとんど同じ文言に
なっています。ということは日本も台湾と同様の扱いを受けることになるのは間違いないでしょう。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
0520無名草子さん
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2011/03/23(水) 14:09:52.78
(中略)台湾は「タダ乗り」の日本と違って、アメリカの要求に対してお釣りが来るほど防衛努力を行っていた
国ですが、その台湾に対して、ケネディ上院議員のこの発言です。(中略)このケネディ発言を通してアメリカの
相互防衛条約に対する本音が垣間見えてくるようです。
二つ目の疑問点は、アメリカの「核の傘」の信憑性です。このことについては、キッシンジャーの『核兵器と
外交政策』(1957)を取り上げ考えていくべきかと思います。(中略)キッシンジャーはその中で注目すぺきことを
述べています。(中略)そのキッシンジャーが全面戦争に際し、西ヨーロッパを守るにあたって、合衆国の
大都市を犠牲にすることを躊躇しており、西半球以外のあらゆる地域、当然日本もそれに含まれていますが、
それに対しては、守る価値がないように見えるであろう、と書いているのです。この発言は「核の傘」を考えるに
あたって、見逃すことのできない重要な意味を含んでいると思われます。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
0521無名草子さん
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2011/03/23(水) 14:10:14.25
要するにアメリカは、ロシアや中国を相手に最終的にはアメリカ本土を犠牲にしてまで、同盟国を守れないと
いう事であり、このことは、茶化すようですが、「己のごとく汝の隣人を愛せ」というクリスト教の愛の思想は
イエスとその弟子たちのみが実践できたに過ぎないので、格別驚くことではないのかもしれません。が、保守派の
知識人で安全保障問題に口出しする人達は、これらの問題について、きちんと論じるべきだと思います。また、
ここ三十年位完全に精彩を欠いている左翼知識人ももう一度勉強し直して、我々国民の「知る権利」に是非応じて
もらいたいものです。要はアメリカが助けに来てくれる保証などどこにもないということを肝に銘じ、同盟を
結びつつも対米依存から抜け出し、自国の防衛はできるだけ自国で当たるという「人類普遍の原理」に一日も早く
立ち還るべきものと思います。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
0522無名草子さん
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2011/03/23(水) 14:10:35.50
それから、小泉、安倍政権下の改憲論では、憲法第二十条の信教の自由について、全く触れられていません。しかし、
三島由紀夫も晩年主張していたように、占領軍は、自分達が唯一神のクリスト教徒ですから、宗教というのは
排他的な非寛容的なものだという先入観で被占領国の習俗的なものまで宗教として裁いて、神社はだめだとやった
訳です。ですから改憲する場合には必ず第九条だけでなく、天皇条項、第二十条の信教の自由も全部セットで、
行うべきで、一部分だけの改正というのは、本質が解っていないという事と、なにかアメリカとの関係からとしか
思えない。戦後レジームからの脱却だとか言っていたけれども、結局はアメリカからの要請による憲法改正なの
でしょう。だからけっこう罪は重い。一見、戦後体制を脱却するような標語を掲げながら、実際にはアメリカに
一方的にますます組み込まれていくような内容での改正でしかないのですから。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
0523無名草子さん
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2011/03/23(水) 14:10:58.30
(中略)
もし三島由紀夫がいま生きているとしたら核武装についてどう考えるかというと、これは条件次第だと私は思います。
先ほどの憲法問題ともリンクすることですが、憲法の改正あるいは憲法を廃止するにしても、いまの憲法に対する
明確な基準ができること。これが一つ。もう一つは日米安保条約に対する明確な双務性を盛り込むこと。この二つの
条件がクリアできれば、核武装については少なくともいつでも核を持ちうるように技術開発は進めるべきである、
おそらくそう考えるだろうと思いますね。
いまの北朝鮮の問題を見てもわかる通り、あんな小さな国がアメリカあるいは五ヶ国を相手に五分の外交的
駆け引きをしているのですから、やはり核は外交上のそれなりの力になっていると思います。ですから三島先生が
いま生きていれば、おそらく核武装に対するアプローチをかなり積極的にしていただろう。ただし、そのためには
憲法と安保条約に対する条件を検討した上でのことですけれどもね。
持丸博

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
0525無名草子さん
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2011/04/18(月) 10:21:10.13
三島自身にとって、その行動は、謎でもなんでもなく、思うところを果断に行なった結果にすぎない。それにも
かかわらず、われわれは、いまだに謎を見つづけている。いや、さらに謎を膨らませるのに精を出しているような
気配である。なぜなのか? もしかしたら、謎を見つづけることによって、三島がわれわれに突きつけている問題を
直視するのを避けているのかもしれない。正面切って取り組むよりも、謎の領域へ押しやって置くほうが、
われわれには好都合なのであろう。

松本徹「三島由紀夫の最後」より
0526無名草子さん
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2011/04/24(日) 17:14:36.47
あかい一本の道のはて
君のなかのふかい歎きが
君のなかのふかい悲しみが
その肉体を一挙に運び去った
けはしく光る雲のした
あかい一本の道のはて
われらはみな愛した
責務と永訣の時を
歴史の不如意に足摺した君よ
装いをあらためて君は
虹の門から過ぎていった
君の英霊は鶴となって
故国の秋の天を翔ける

浅野晃「哭三島由紀夫」より
0527無名草子さん
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2011/05/11(水) 11:24:40.48
私が初めて三島由紀夫を町で見かけたのは中学三年生の夏。(中略)
友達と三人でアイスクリームを食べながら歩いていたら、前方から絶対に見覚えのある人が歩いてきた。
「あっ、ほらあの人、三島由紀夫だよ!」と友だちが興奮気味に叫んだ。シーっと人差し指を唇に当てたものの、
私の胸はドキドキと高鳴った。私たちが興奮した理由は三島由紀夫の大ファンだったからというわけではなく、
この年の四月に封切られたセンセーショナルな映画『憂国』をすでに観ていたせいだった。(中略)
忘れようにも忘れられない顔の三島由紀夫が、なんとこの下田に突然現れて前方から歩いてくる、なんて。
興奮を抑え切れない私たちに、黒いサングラスの三島氏は唇の片側の端を少し上げるようなスマイルを浮かべながら、
私たちの横を通りすぎた。あのときの胸のときめきを私はずっと覚えている。
当時はマスコミをにぎわす有名な作家として中学生にもよく知られていたので、その姿をまざまざと見た感激も
あったけれど、それとは別の、なにか宇宙人的な、硬い静かなオーラが一瞬放たれて私の中にスッと入ってきた
ような感覚があった。

横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
0528無名草子さん
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2011/05/11(水) 11:25:01.12
私たちは、サインしてくださいと言いそびれたし、それを言うには映画の印象が強烈すぎたのだ。誰かが
「後つけちゃおうか」と言い出した。キュッとしまったお尻、なんとなく親近感をおぼえる小柄な後ろ姿は
後をつけるには最適の口実だった。
あの日の三島さんは、ちょっとメッシュがかった黒いシャツに細身の白のトラウザーと白い靴を履いていた。
強い日差しの中でその白さが目にしみるようだった。(中略)
三島さんは宇宙人的オーラを発散させながら一メートル四方に入れない近づきがたい雰囲気を漂わせていて、
だからこそ私たち中学生に、もっと近づきたい、追っかけてみたいという気にさせたのかもしれない。『憂国』の
主人公を追っかけたいし、何より私たちはヒマをもて余していたのだった。(中略)三島さんは脇見もせずに、
機械的にカツカツとした足どりでまっすぐに背を伸ばして歩いている。
大工町のゆるい坂を上り大浦の切り通しと呼ばれる、江戸期に船を取り調べるお番所があった方角に向かってゆく。
その先は海だ。

横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
0529無名草子さん
垢版 |
2011/05/11(水) 11:25:22.96
(中略)「そういえば前に見た写真もスゴかったよね。ロープでぐるぐる巻きにされてすごい形相してるやつ」…
(中略)(写真集『薔薇刑』を)私たちは図書館で見ていた。その表情から、痛めつけられながらもどこか
それが好きというオーラを私たち中学生は感じ取ったのだろう。
「よし、三島由紀夫をおそっちゃおう!」という突拍子もないアイディアが生まれてしまった。
(中略)私たちは忍者のように追っていった。でもいったいどこまでゆくのだろう。
鍋田浜手前のトンネルに入ったので少し距離をあけた、見つかったら大変。ドキドキしてきた。私たちがトンネルに
入ったとき、三島さんはちょうど東急ホテルのプールへの上り道を登ろうとしていた。
そのときだった。急に三島さんが私たちの方を振り向いた。そして黒めがねを上に上げてアッカンベーをしたのだ!
キャッと声を上げて私たちは後ずさりした。要するに、ずっとお見通しだったわけだ。中学生は簡単に遊ばれて
しまった。
三島さんの目はやさしく笑っていた。

横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
0530無名草子さん
垢版 |
2011/05/11(水) 11:32:07.38
(中略)
昭和45年7月7日のサンケイ新聞に掲載された「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」は三島さんの
遺書としてたびたび引用される。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまう
のではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、
ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。」
1980年代の経済バブルを見事に三島さんは言い当てた。現在の日本はというと、コロコロと世界に類を
見ない早さで首相がかわる不安定な「自信のない国」になっている。デモもクーデターも若者の反抗もなし、
平和ボケは極まっている。
私は、いまこそ、三島由紀夫の死の意味を考えるべきだと思う。その死は美とエロティシズムに導かれたもので
あったとしても、大局的には、アメリカに支配された「日本という恋人」に向かっての死を懸けたメッセージ
だったのだ。

横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
0531無名草子さん
垢版 |
2011/05/11(水) 11:32:29.66
切腹はあの日の日本人の意識を変えさせるくらいの衝撃であり、あれくらいの憤怒を示さなければ、私たちは、
本来、日本人のもっている魂に気づかない、と思ったことだろう。実際その効力はジワジワと年月を超えて
私たちの脳内に浸透している。日本を愛する心について真剣に考えたい。
犬死にと笑われてもいい。五十年後の日本人が理解してくれれば……。
私は、市ヶ谷での「檄文」を三島由紀夫の最後の叫びとして素直に評価したい。ヤジと怒号の中で「男一匹が
命を懸けて訴えているんだぞ」とバルコニーから叫んだ言葉を信じる。三島由紀夫の「本気」を信じる。なぜなら、
私がある鑑識の方から見せてもらった事件直後の写真には、「本気」以外の何物も写っていなかったからだ。
凄惨な場面ではあったけれどそこにはなんともいえない清潔感があった。三島さんの顔は少年のように白く
清らかで安らかだった。

横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
0532無名草子さん
垢版 |
2011/05/11(水) 11:32:54.98
三島さんはやりきった! そう思うと不思議なことに晴れ晴れとした気持ちが湧いてきた。これが「大きな仕事を
するので来年は来られません」という意味だったのだ。
今年も三島由紀夫の来た夏が巡ってきた。
私はいつも思い出す。三島さんの愛した下田の夏のさらっとした風を。どこかやさしげな直射日光を。手を挙げて
「また来ましたよぉ」と呼びかけながらお店に入ってくるまぶしい笑顔を。肉体が発していた不思議なオーラを。
「あなたは、なーんにも心配することはないんですよ。のびのびとおやりなさい」「遊びにいらっしゃいね」
という声のトーンを。
四十年以上も私の中に住みつづける三島さんは、私の父のようであり、兄のようであり、演劇部の先生であり、
とびっきりステキな人であった。でも、いまの私の気持ちを言おう。
長い年月を過ぎて三島さんの姉貴のような年になった私にとって、彼は、私にアッカンベーをするかわいい弟に
なったのだ。永遠に頭の上がらない弟に。

横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
0533無名草子さん
垢版 |
2011/05/29(日) 11:50:32.66
彼の小説もそんなに読んでいない。僕が三島由紀夫を「あ、こいつすごいな」と認知したのは、ロンドンです。
ロンドンにいたときに、BBCが没後何年かで特集を組んだ。そのときに彼がインタビューアーにきちんと
英語で答えているのを見て、聞いたら、内容的にはしっかりしていた。つまり、日本の文化をあれほどきちっと
しゃべれるやつはいないな、と僕が思ったくらいだった。それはすごく印象的だった。
彼の英語はうまかった。うまいというか、要するに、発音がいいとかではなくて、非常に適確な英語をきちっと
選んで答えていた。日本人のインタビューには、よく画面の下にテロップ、つまり英語の字幕が流れるのだが、
三島由紀夫のインタビューには付いていなかった。それくらいに彼の英語はわかるのだ。まあ、イギリス人は
(植民地を持っていたから)外国人のしゃべる英語を理解するのは得意だけれども。それにしてもテロップが
流れていなかったから、へーっと思ったし、なるほど、そういうことについては、こういう風に言うのだなと
感心した。

遠山稿二郎「日本の大学と基礎科学の危機」より
0534無名草子さん
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2011/06/10(金) 20:11:17.87
いわゆる現人神(現御神)の思想は、キリスト教などの一神的なGodではない。日本人の神観念は、本居宣長の
「何にまれ 尋常ならずすぐれたる徳ありて、可畏き物を迦微(カミ)とは云なり」という八百万の神々であり、
「唯一神教的命題」とはかけはなれている。日本の神観念は多義的であり、そこでは人間的な要素も入ってくる。
超越者としての「神」とはあきらかにちがう。そもそも昭和二十一年元旦の昭和天皇のいわゆる「人間宣言」も、
〈神〉にして〈人〉であるという伝統観念からすれば、「神から人へ」ということを特別に強調したとはいえない
かもしれない。しかし、占領下において、GHQ指導のもとでこの「詔書」があらわされたのは、人でありながらも
神聖をもって君臨される天皇(スメラミコト)の民族的、精神的支柱としての意味を否定しようとしたもので
あることには変わりはない。

富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
0535無名草子さん
垢版 |
2011/06/10(金) 20:11:58.59
『英霊の声』の、あの英霊たちの声々は、「陛下はずっと人間であらせられた」ことを百も承知で、だからこそ
「陛下御自身が、実は人間であつたと仰せ出される以上、そのお言葉にいつはりのあらう筈はない」と語る。
しかし、その〈人〉であられる陛下は、国家存亡の危機のときに、生命を賭して死んでいった者たちのために、
国破れし後にあってこそ、「現御神」としてあってもらいたかった。それはまた天皇のために立ちあがりながらも
「反乱」軍として処罰された二・二六事件の青年将校たちの、「天皇」の神聖に希望を託した思いとも重なる。
敗戦の時に二十歳であった三島は、この「神の死」を自己の存在の最も深部において体験したのだ。
三島のダリの「磔刑の基督」の評をそのまま借りていうならば、その初期作品(『盗賊』や『岬にての物語』
あるいは十代作品まで含めてもよい)の言葉の地平には、「いつもその地平の果てから、聖性が顕現せずには
おかない予感のやうなものがあつた」といえよう。

富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
0536無名草子さん
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2011/06/22(水) 23:19:10.17
(中略)ジョルジュ・バタイユの『聖なる神』という作品集の鮮烈な読後感を三島は(『小説とは何か』のなかで)
印象深く記している。(中略)所収の『マダム・エドワルダ』『わが母』の二作にふれながら、三島が一貫して
関心を示し注目するのは「神の出現の瞬間」である。
バタイユは「自己を超越する」こと、「わが意に反して自己を超越するなにものか」の「存在」を求める。
近代的な自我意識と、「神の死」という虚無を現実認識とする他はない人間にとっては(例外なく現代の人間に
とってではあるが)、それは「不合理な瞬間」であり、そこには何か異常で過剰なものが介在しなければならない。
(中略)
三島は、この言葉によっては到達不可能な事柄を、作家が言葉によって表現していることに瞠目しつつ、次のような
説明を加えている。

富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
0537無名草子さん
垢版 |
2011/06/22(水) 23:19:57.25
〈この「不合理な時間」とは、いふまでもなく、おぞましい「神の出現の瞬間」である。
「けだし戦慄と充実と歓喜のそれとが一致するとき、私たちのうちの存在は、もはや過剰の形でしか残らぬからだ。
(中略)過剰のすがた以外に、真理の意味が考えられようか?」
つまり、われわれの存在が、形を伴つた過不足のないものでありつづけるとき(ギリシア的存在)、神は出現せず、
われわれの存在が、現世からはみ出して、現世にはただ、広島の原爆投下のあと石段の上に印された人影の
やうなものとして残るとき、神が出現するといふバタイユの考へ方には、キリスト教の典型的な考へ方がよく
あらはれてをり、ただそれへの到達の方法として「エロティシズムと苦痛」を極度にまで利用したのがバタイユの
独自性なのだ。(『小説とは何か』)〉

(中略)しかし、バタイユのこの「独自性」もまた言語の領域(ぎりぎりの限界への冒険であるとはいえ)に
あったのはいうまでもない。
三島が明晰にそして最終的に自覚していたのは、この言葉の限界性であった。

富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
0538無名草子さん
垢版 |
2011/06/30(木) 12:32:05.56
(『詩を書くのが趣味の交際相手の男性が女々しく思えて許せない』という相談者に)
 美輪明宏『文学者でも例えば三島由紀夫や中原中也なんかは男らしかった思うけれど…。
貴女ももっと本をお読みになったらどうかしら?』
 相談者『(憤然として)読んでますよ』
 美輪明宏『どんなのを読んでらっしゃるの?』
 相談者『秋元康とか』
 美輪明宏『(一瞬判らず)あきも……?(ピンと来て)オホホホホホwwwww』
 相談者『?』
0539無名草子さん
垢版 |
2011/07/10(日) 17:54:22.31
『太陽と鉄』は、自裁のプロセスと心理的構造を余すところなく分析したまことに戦慄的なエッセイであるが、
そのなかで次のように明言しているのだ。

〈私は今さらながら、言葉の真の効用を会得した。言葉が相手にするものこそ、この現在進行形の虚無なのである。
いつ訪れるとも知れぬ「絶対」を待つ間の、いつ終るともしれぬ進行形の虚無こそ、言葉の真の画布なのである。
(中略)言葉は言はれたときが終りであり、書かれたときが終りである。その終りの集積によつて、生の連続性の
一刻一刻の断絶によつて、言葉は何ほどかの力を獲得する。少くとも、「絶対」の医者の待つ間の待合室の白い
巨大な壁の、圧倒的な恐怖をいくらか軽減する。(『太陽と鉄』)〉

この「絶対」を、「神」といいかえてもいい。いや、ここではあきらかに神の顕現のことがいわれているのであるが、
三島が明瞭に認識していたのは、「言葉」によってその存在を暗示(バタイユ的手法)することは十分に可能で
あっても、それは「現在進行形の虚無」にたいしては一場の役割しか果たしえないということである。

富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
0540無名草子さん
垢版 |
2011/07/18(月) 23:12:55.98
自裁という行為が決定的な意味を持ちだしたのは、ここにおいてであろう。「神の死」の現実の虚無のなかに
おいては、バタイユのいう通り「過剰のすがた以外」に真理を把握し、神の出現に立ち合うことはできない。
「自決」とは自由のマイナス極限で、自己の存在を破壊することであり、その決定的、一回的な欠損の過剰さの
なかにこそ「絶対」は到来するだろう。そして遺作『豊饒の海』は、仏教的な相対主義に呑み込まれてゆく。
あらゆる歴史と存在を描ききって完結する。
三島の自決が四十年の歳月を経て、今日に至るまで深くおおきな影響を与えつづけているのは、三島が自己の
存在そのものを、戦後日本社会という虚無の時空のうちに磔刑とし吊し、供養としてささげてみせたからである。
そして、われわれは未だにその「死」の深い本質的な宗教性を知らずに(あるいは知ろうともせずに)いるからだ。

富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
0541無名草子さん
垢版 |
2011/08/04(木) 15:57:49.31
三島の死後七年目、『サド侯爵夫人』のフランス語訳とパリでの上演に関わった作家ピエール・ド・マンディアルグは、
戦後の仏作家のなかでの最もすぐれた才気ある書き手の一人であるが、仏文学者の三浦信孝氏のインタビューに
答えてこう語った。

〈現在では、三島はジョルジュ・バタイユに強く惹かれていたとよく言われますが、私には確信はありません。
(中略)しかし私の見るところでは、三島はバタイユとはだいぶ違います。彼らの類似点は、彼らに共通する
絶対に対する情念であり、生と生の哲学を極限まで、絶対まで追究しようとする情熱ですが、三島は、自分の観念を
真の極限にまで、血と死にまで追いつめる実例をわれわれに残した唯一の存在であって、残念ながらバタイユは
そうした実例を残したとは到底言えません。(『海』一九七七年五月号)〉

三島の文学と行動の総体を一言で射抜くマンディアルグのこの見解は、一神教にたいしてほとんど理解を
拒もうとするこの国では、残念ながら聞くことができなかったものなのである。

富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
0542無名草子さん
垢版 |
2011/08/17(水) 09:08:06.82
松本徹(司会):三島さんは、どんな印象でしたか。
本野:非常に頭のいい人でした。特に文学に関しては並ぶ者がいない。
六條:それは、誰もが認めてましたね。
(中略)
松本:三島さんは、戦争中でありながら一種の文化言論活動のようなことをやっていますねえ。
本野:それは彼が反抗的気質だったとか、周りの者に動かされてということではなかったと思いますよ、文化とか
言論とかに対して純粋な気持ちがあって、それを学校の中で実現しようとしたら、ストップがかかったという
ことだと思います。(中略)
佐藤秀明(司会):この一連の出来事に関連してだと思いますが、この時期の平岡公威はだいぶ感情が高ぶっていて、
総務部総務幹事を辞めたいと清水先生に手紙でぶちまけています。
六條:そういう手紙が残っているんですか。清水先生とはツーカーでしたからね。僕らには見せない顔を見せて
いたんですかねえ。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
0543無名草子さん
垢版 |
2011/08/17(水) 09:10:22.41
松本:(三島は初恋の園子と)学習院の友人の妹として知り合って、手紙のやりとりをするようになり、彼女の
一家は軽井沢に疎開するんです。(中略)そこへ三島が、主人公がですね、訪ねて行くんです。それで旧軽井沢の
ゴルフ場で接吻をすると書かれています。だけど、この恋愛は実らずに終わってしまって、三島はずいぶん
苦しんだようです。だから戦後は、辛い出発をしなければならなかった。
本野:まあ、あの当時でもそういうことはあったでしょうね。これは僕個人のことなのだけれども、一学年下に
黒田っていうのがいたでしょ、黒田一夫。その妹と僕が恋仲になって、だけど彼女が亡くなってしまったんだ。
それはショックでね。昭和二十年頃だったんだけれども。そのとき平岡に話したのかな、よく覚えていないけれども、
彼からお悔やみの手紙をもらったんですよ。なくしてしまったんだけどね、残念なことに。それがことのほか
よい文章でね。自分のことがあったあとだから、ああいう手紙が書けたのかなっていまちょっと思いましたね。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
0544無名草子さん
垢版 |
2011/08/17(水) 09:13:34.01
佐藤:(三島は)高等科では総務部総務幹事になっていますでしょ。四人の幹事のうちの一人です。集会などで
号令をかけたり、挨拶したり、そういう点では目立っていたのではないですか。
本野:いや、そんな記憶はないですね。目立つということは、彼の場合はほとんどない。
松本:高等科で、さっき話の出たお芝居を書いてますね。それで演出もしている。そういう点では、ある面の
中心的な存在だったのではないですか。
六條:それはね、小説や演劇のこととなれば、彼の右に出る者なんかいないんですよ。その点ではもう別格。
それだけはみんなが一目置いていた。
本野:成績もね、僕らがどんなに勉強しても絶対に一番にはなれなかった。全然違うんですよ、彼の一番は。
記憶力とか理解力とか群を抜いていた。二番を引き離した一番だったんです。ましてや文学に関しては全く
次元が違う。
佐藤:ということは、性格的にリーダーになるとかいうのではなくて、お芝居となれば、身につけたものや才能で
平岡を据えるのが当然だということになっていたと、こういうことなんですね。
六條:ええ。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
0545無名草子さん
垢版 |
2011/08/17(水) 09:16:33.97
本野:彼は優れすぎているというか、異なりすぎているということですよ。それで彼は優越感をもつとか
そういうのでなくて、自然に優れていたということでしょうね。
松本:三島の側から言いますと、外務省なり文部省なり社会に出て仕事をしている人たちがいて、自分はもの書き
という特殊な立場にいて、何というかコンプレックスのようなものをもったのではないか。文学者というのは、
本当の意味での一人前の社会人ではないんじゃないかという意識ですね、そういうものがあったのではないか。
本野:彼とは割と簡単に話もできたし、間に垣根があるという感じでもなかったんですよ。でも、彼は自分の
世界を持っていたんですね。
松本:いや、石原慎太郎との違いということにもなるかもしれませんが、実社会の中で何かをするという意識を
ずっともっていたのではないかと思うんです。(中略)
(そして、その)行動が象徴性のレベルになってしまう。芸術家の行動というのは象徴性というところへ
行かざるをえないんじゃないかな。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
0546無名草子さん
垢版 |
2011/08/17(水) 09:18:58.03
松本:これは僕自身の気持ちが入っているのですけれども、少年のときから文学の世界を目指して、それで
文学の中でやってきたんですが、いまの歳になると一種の空しさみたいなものを感じるんですよ。実業の世界で
生きている人は、何か世の中に痕跡を残していて、小説家がやってきたことと言えば言葉をただ並べただけだと
いう空しさですね。そんなものが三島にはあったのではないか。空しさをあえて突き抜けてみせるという意志が
あったように思います。
本野:空しいという感じは超越していたと思うなあ。(中略)あれが彼にとって自然な姿だったんじゃないだろうか。
昔彼と話をしていても、全く偉ぶった感じがしない。そのまま別の世界にいるという感じだった。あなたもそうでしょ。
六條:うん、そう。平岡は平岡でしたよ。それでいて我々とは全然違うんだ。それがすごいことだとみんな
感じているんだけれども、学校ではね、そういうことは小さなことだったんです。頭がいいとか、文学をよく
知っているとかは。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
0547無名草子さん
垢版 |
2011/08/17(水) 09:24:09.22
松本:この間、演劇で三島と関わった和久田誠男さんの話を聞いたんですが、宇宙人じゃないかと思ったと
言ってました。会っているときはそうは思わないけれども、家に帰って三島さんのことを思うと宇宙人としか
思えないと言うんです。いまのお話は、そういうところと関係しますね。三島さんのそういう面が現れるのは、
高等科からですか。
六條:そうねえ、中学のときはたわいもない子どもでしたよ。むしろ北条浩の方がずっと弁が立ったし、
理屈っぽかった。
佐藤:北条さんというのは、創価学会の会長になった人ですね。
六條:ええ、学習院を終えて海兵に行って。北条はよく平岡に食ってかかって、口論というか口喧嘩をしていましたよ。
松本:三島というのは、やっぱり天才と言うしかない人だったと思うのですが、それがどういうところで
形成されたのか、そこが知りたいですね。
六條:それはね、清水先生の感化ですよ、清水先生にもそういうところがあったんです。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
0548無名草子さん
垢版 |
2011/08/18(木) 12:33:54.61
六條:岩田先生も(三島に)目をかけたでしょうが、岩田先生や佐藤文四郎先生は、清水先生とは違いましたね。
(中略)「輔仁会雑誌」に書いて清水先生に認められ、「文芸文化」に小説を発表することになるのですけれども、
あの清水先生に認められ可愛がられたというのが、大きかったんだと思いますよ。
佐藤:なるほどねえ。三島由紀夫がいたから清水文雄がいたんじゃなくて、清水先生がいたから三島由紀夫が
いたということですね。
六條:「輔仁会雑誌」に平岡の書いたものが載るでしょ。われわれからすれば平岡のが載るのは当たり前だと
思っていましたよ、平岡もそんなふうでしたよ。だけど、僕らには、彼の書くものが分からないんだ、難しくて(笑)。
松本:清水先生を読者だと思って書いていたんでしょうね。
六條:だから、僕らの前ではひょうひょうとしていましたよ。体が弱かったけれども、コンプレックスなんか
もっていなかったみたいですよ。驕らないし見下しもしないし、卑下している様子もなかった。ひょうひょうとして
当たり前の顔をしていました。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
0549無名草子さん
垢版 |
2011/08/18(木) 12:35:07.73
佐藤:中等科から高等科にかけて、四歳年上の東文彦と三島は親しくなります。(中略)(三島は)自分の作品が
くだらないものに思えたとか、そういうことも書いています。だから、自己評価も素直で、また思うように
ならないことにはどんどん愚痴を言うといったタイプだと思っていましたが。
本野:そういう相手もいたんでしょうね。僕らにも愚痴を言ったのかもしれない。でも、愚痴に聞こえなかったんだね。
六條:彼は意志が強かったからねえ。(中略)
本野:それとね、家柄というんでしょうか、彼は普通の家でしょ。やはり華族の子弟との違いというのが
あったように思いますね。彼が優秀な人間だったということを関連づけてみると、そう思います。(中略)
あなた(六條さん)のように京都の古い家柄の華族とはやはり違う。(中略)反面、だけど俺の方ができるぞ
といった気持ちですね、そういうのが三島にもあったんじゃないかと推察します。
松本:それは確かにあっただろうと思います。あったから『春の雪』といった小説が書けたんですね。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
0550無名草子さん
垢版 |
2011/08/20(土) 13:54:08.50
松本(司会):(三島は)最初は着物姿で現れたとか。終戦間もなくのあの時期、若い人で着物着ているひとなんか
いなかったでしょうね。
川島:そうですよ、あの時代、講談社の社屋は焼夷弾でね、黒こげになっているんですよ。(中略)そういう時代に
彼は紺絣に袴をはいて来ました。それはちょっと印象的でしたね。
松本:太宰治に会う時、着物を着て懐に匕首を呑んだような気持ちだったと三島は書いてますけど、講談社へ
行くのにもそういう気持ちだったんじゃないですか。
川島:どうですかね。相当緊張してました。
会ったのは僕だけでした。(中略)今日はこういう新人が来るから、頼むよ、と言われて。
松本:(中略)今後いけそうかどうか、見極めようと。
川島:ええまあ、やっぱり違いましたよ、普通の作家とは。僕たち池袋あたりでカストリ焼酎飲んで、檀一雄を
はじめとして、まあ無頼の連中とばかりつき合ってました。ところが、そういう文壇とは関係がない。なんか
スッとした、まあ貴公子っていう言い方はあんまり正確でないけど、何かスカッとした、よそ者が入ってきた。

川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
0551無名草子さん
垢版 |
2011/08/20(土) 13:57:06.37
川島:プライベートなことになるけど、三島由紀夫の妹美津子さんっていうのがね、家内の同級生なんですよ。
三輪田高女のね。同級生で親しくしていた。そこでね、三島のお母さんの倭文重さんもまた三輪田出で、遊びに
来るようにって言われてね、何回も遊びに行ったことがある。三島家へですね。三島由紀夫を訪ねるのとは別です。
家内について何回も行ったことがある。
井上(司会):講談社で三島由紀夫の来訪を受けた後ですね。
川島:ええ。そんなことから親近感持つようになった。そして家族ぐるみの付き合いになった。だから僕がね、
馬込の三島家を訪ねると、玄関左手に日本家屋があったんですよ。そこに親爺さんと倭文重さんがいて、僕に
気づくとね、あ、川島、こっちだよって必ず呼ぶの。(中略)今ね、うまい焼酎があるよって。その頃の
焼酎ってのはね、芋焼酎でね(笑)。(中略)
井上:三島が焼酎を飲んだとは聞きませんが。
川島:ええ、息子の方はね、全然ダメ。銀座のエスポワールってとこへ一緒に行ったことあるんです。でもね、
水割り一杯飲んで、真っ赤になってね、大変だった(笑)写真ありますよ、探せば。

川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
0552無名草子さん
垢版 |
2011/08/20(土) 14:04:11.30
松本:林房雄なんかと、早くから会ってましたね、三島は。
川島:ええ。
松本:川島さんも勿論……。
川島:ええ、会ってます。(中略)林房雄がね、山の中腹に書斎を作ったんですよ。その書斎びらきをするって
いうんでね。三島さんと呼ばれたの。そしたらね、その頃ちょっと忙しかったのかな、途中で帰ってしまった。
そしたらね、三島が帰ったら、花がなくなったよってね、林房雄は酔っぱらって言い出したんだ。じゃああれ呼ぼう、
熊谷久虎という映画監督がいるが、その義理の妹のあれを呼ぼうって。あれは誰だろうと思ってたら、原節子なの(笑)
君ィ迎えにいってこいよっていうからね、地図書いてもらって、(中略)湯上がりの彼女連れて僕は林房雄の
家へ行った。
松本:じゃあ三島は会ってないわけですね、原節子と。
川島:会ってたら、いやあ、どうだったか。
山中(司会):何年頃のことでしたかご記憶ありますか?
川島:何年頃だろうねえ。
松本:『仮面の告白』は出版されていました?
川島:もう出ていた。林房雄は三島をかわいがってますよ。

川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
0553無名草子さん
垢版 |
2011/08/20(土) 14:08:27.46
山中:川島さんのお仕事では講談社インターナショナルでのものがありますね(英訳版『太陽と鉄』を見せる)。
佐藤(司会):ああ、インターナショナルに移られたんですね。
川島:これはねえ、(社で)反対が多くてね。カバーの裸の写真はやめてくれっていうんだ。
松本:三島さんは是非ともこれでって……。
川島:ええ。アメリカじゃね、裸の写真こういうふうにするとね、ゲイのね、一つのシンボルになるから、
それだけはやめてくれっ言われたんだけどねえ、「いや、是非ここにこれやってくれ」って(笑)。
松本:いい本ですよ。
佐藤:いい本だ。
山中:中は二色刷りで、お金かかってますよね。
川島:かかってんだよこれ。それで、裏に署名。それが効いてるんだ。
(中略)
山中:帯をするとちょうど褌が隠れるようになってるんですね。
川島:そうそう。隠したんだよ(笑)。
山中:英語の題字も三島の筆ですか。
川島:そうですよ。そちらもどっかにあるんだけど。

川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
0554無名草子さん
垢版 |
2011/08/20(土) 14:10:56.09
川島:ある時ね、三島家を訪ねて、一緒に出たら、「川島さん今日はあいてる」っていわれてね、僕は会議が
あるので社に帰らなくちゃといったら、「それじゃいいや、この次にしよう」って。パレスホテルへ送って行くと、
「出来たらあなたと一緒に行きたいんた」って、楯の会だね。
佐藤:決起の予行演習とか。
川島:いや、一緒に飲むんだって。「川島さんがいると盛り上がるから」って(笑)。僕酒飲みだからね。
彼あまり飲めないから、「代わりに飲んでくれないか」っていうふうに話してたね(笑)。(中略)ああいう時はね、
惜しいんだよな。会社のことなんか別にしてね、三島がそんなこと言うのはあんまりないからね、あの時期にね。
どうして一緒にいかなかったかと悔やまれますけど。まあ人生ってそういうもんだよね(笑)。
松本:最後の別れみたいな、そういうことはありましたか。
川島:いや、別にないですねえ。あれが実はそうだったのかなあ。うん。ただ凄く忙しかったからね、例会とか
なんとかでね。

川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
0555無名草子さん
垢版 |
2011/08/21(日) 11:14:06.04
山中:映画「トラ・トラ・トラ!」を見にいこうと誘われたというお話ですが、それも晩年ですか。
川島:そうです。
山中:三島が好きだった戦争映画ですね。
川島:「トラ・トラ・トラ!」はね、楯の会の推薦映画だったの。隊員と一緒に何回もみてるらしいよ。志気を
鼓舞するために。まあ、あの事件も真珠湾攻撃みたいなところがあるからね(笑)。でも、今ねえ、三島由紀夫
みたいのいないもんな。もう全部フラットになっちゃってね。人間ね。
松本:数世紀の間に一人出るかどうかの人ですね。
(中略)
松本:川島さんが親爺さんと意気投合したってのは(笑)。
川島:いやあ、あの親爺とはホントによくつき合った(笑)。
佐藤:テレビ局や編集の人なんかが来ると、親爺さん見ているわけですよね。親爺さんと言葉を交わして帰る人は
そんなにいなかった。
(中略)
松本:(中略)お母さんが、あれだけ早熟な才能を育てたと思うんですが。
川島:やっぱり、原因はお袋じゃないかな、あの親爺よりも。「年取ると段々親爺に似てくるからやだよ」とかって
いってたけど(笑)。

川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
0556無名草子さん
垢版 |
2011/08/21(日) 11:16:32.00
佐藤:ジョン・ネイスンが評伝で、家庭の中のことを結構書いてしまいましたね。あれは、ちょっと平岡家に
とっては、喜ばしくないような……。
川島:喜ばしくない。
ネイスンってのはね、あれ変わった奴だ(笑)。僕は非常に親しくしてて、渋谷の恋文横丁かなにかに連れてったんだ。(中略)
面白い男ですよ。ただ、まあねえ、聞き書きによる取材だから、よく分かってないですよ。
松本:彼は、日本語はよく出来るの?
川島:出来ますよ。僕は会ったときに、落語を一席なんて言うんだあいつ(笑)。その落語がね、なんだかね

「火焔太鼓」じゃなくて、なんか、聞きかじりのやつやって、日本語これだけ出来るんだって誇示してた。
まあよく出来る男ですけどね。でかくて、オートバイ専門で、ホントにアメリカンスタイルね。いい意味でも

悪い意味でも。どうしてんだろうなあ、今。
井上:カリフォルニアのサンタ・バーバラにいるんじゃないですか。
佐藤:一時映画界に入ってたみたいですけどね。
川島:撃たれ役じゃないんですか(笑)。

川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
0557無名草子さん
垢版 |
2011/09/20(火) 15:27:56.21
0558無名草子さん
垢版 |
2011/10/04(火) 12:16:54.44
たしかに三島君には、絶望するだけの根拠も資格もあった。彼は言葉のなかに生きていた。あるいは、言葉を
生きていた。(中略)言葉によって存在するためには、まず対話の真の意味を理解し、その姿勢を身につける
ことから始めるべきなのである。(中略)
それにしても三島君は、まさに対話の名手だった。もちろん対話は相手を選ぶ。すくなくともぼくにとっては、
得がたい対話の相手だった。真の対話には、論破することも、されることもない。論争とは違うのだから、
勝敗は問題にならないのだ。また、社交でもないのだから、譲歩しあう必要もない。なんの妥協もなしに
対立し合い、しかも言葉のゲームにたっぷり堪能するという、いわば対話の極致を体験できたのも、三島君との
出会いのおかげだったと思う。(中略)三島君にはつねに他者に対する深い認識と洞察があった。絶望はいわば
その避けがたい帰結だったのだ。

安部公房「周辺飛行19」より
0559無名草子さん
垢版 |
2011/10/26(水) 17:28:05.89
つづきよろ
0561無名草子さん
垢版 |
2011/10/29(土) 11:00:57.44
今、生きていたら、
0562無名草子さん
垢版 |
2011/10/31(月) 12:45:10.76
今、生きていたら、
0563無名草子さん
垢版 |
2011/11/29(火) 10:36:22.85
0564無名草子さん
垢版 |
2011/12/07(水) 18:15:15.97
作者名でググると、最初に生首画像の出てくる作家など、
そう多くはないな。
0565無名草子さん
垢版 |
2011/12/23(金) 16:23:46.19
死ぬまで美学を貫いた三島は真の武士であり文士でもある。
0566無名草子さん
垢版 |
2011/12/24(土) 00:00:46.62
そうそう。
0567無名草子さん
垢版 |
2012/01/08(日) 18:03:10.88
>>563
ほんとに努力してんの?
だったらお前のクラスの全員の悪い所それぞれ10個以上言える?
いいか?中学以降の人間関係を幼稚園や小学校の友達付き合いと同じように甘く考えてたら駄目
人付き合いってのはいわば個人と個人の外交戦争なんだよ
外交を有利に進めようと思ったらそれなりの武器を持ってないと
それには相手の弱いところを出来るだけ多く知っておく事
弱いところを攻めるのが戦いの鉄則だからな
人の弱点ってのは、ズバリ過去。過去は変えられないし、逃れられない
例えば田舎者とか、元デブとか、元マジメとか何でもいい。
未来、将来の事なんか言ったってしょうがない。努力でどうにでも逃げられるんだから。
未来志向なんて言ってる奴に碌な人間いないだろ。高校デビューとか大学デビューとか。
過去の他には見た目とか家が金持ちのボンボンとか、とにかく本人の努力で逃げられない所を衝く
どこで生まれてどんな風に育ったか、それが人間にとって一番の財産。
例えばお前は日本人だよな。それがどれほど凄い事か、早く気付いた奴が人生で最終的に勝者になる
10代の内はガリ勉だの筋トレやってる暇があったら、他の奴より早く「気付く」事
競争は既に始まってるんだぞ
0568無名草子さん
垢版 |
2012/01/08(日) 18:55:14.86
「仮面の告白」って面白い?
読んでみたいんだけど三島由紀夫って政治家だしあんまり関わりたくないんだよね・・・
0569無名草子さん
垢版 |
2012/01/27(金) 19:00:34.55
面白いよ!
0570無名草子さん
垢版 |
2012/02/02(木) 01:24:25.65
金閣寺読んだよ。まあまあかな。
仮面の告白面白かった。
けど、この人の作品ってやっぱりなんかどっかキモイ。
お耽美系なキモさとでもいえばいいのかなぁ。
0571無名草子さん
垢版 |
2012/02/05(日) 09:46:37.58
誰もが平岡家を語るが、橋家に言及する者はほとんどいない。平岡定太郎と夏子ばかりが論じられて、橋健三と
トミは等閑視されてきた。あたかも三島由紀夫には、定太郎・夏子という父方の祖父母しか存在しなかったかの
ようであり、「一世紀ぐらい時代ずれのした男」と「或る狂ほしい詩的な魂」の女だけが三島文学の形成に
影響を与えたかのような印象を受ける。しかし、それは事実だろうか。三島は、母方の橋家からは大して影響を
受けなかったのだろうか。
健三は、万延2年(1861年)1月2日に金沢に生を享けた。加賀藩士の瀬川朝治とソトの間に次男として生まれ、
武士の血をひく。健三は幼少より漢学者・橋健堂に学んだ。明治6年(12歳)、学才を見込まれて健堂の三女・こうの
婿養子となり、橋健三と名乗る。健三は14、5歳にして、養父の健堂に代わり講義を行うほどの秀才だったという。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0572無名草子さん
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2012/02/05(日) 09:47:02.06
やがて健三は妻子を連れて上京し、小石川に学塾を開く。(中略)明治21年(27歳)、共立学校に招かれて漢文と
倫理を教え、幹事に就任する。妻・こうの死去により、健堂の五女・トミを後妻とした。明治27年(33歳)、
学校の共同設立者に加わる。明治43年(49歳)、第二開成中学校(神奈川県逗子町)の分離独立に際して、
健三は開成中学校の第五代校長に就任した。
開成中学校校長としての健三の事績は『開成学園九十年史』に詳らかで、(中略)顔写真を見ると、健三は白い
長髯を蓄えて、眼光炯々とした異相である。生徒は、「青幹」「漸々」「岩石」と渾名をつけたという。
(中略)
漢文の授業では、教科書として四書五経ではなく、『蒙求』を使用した。(中略)『蒙求』は、清少納言から
漱石に至るわが国の文学者に影響を与えた故事集である。テキストの選択から健三の教育観の一端を窺うことができる。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0573無名草子さん
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2012/02/05(日) 09:47:28.69
(中略)
(開成の)初代校長は、高橋是清。(中略)第四代校長の田辺新之助は、(中略)英学者にして漢詩人として
令名を馳せた。長男が哲学者の田辺元で、三島は学習院時代から『歴史的現実』など元の著書に親しんでいる。
第九代校長の東季彦は、(中略)一人息子が、夭折した東文彦である。三島と文彦との親交は『三島由紀夫
十代書簡集』に詳しく、晩年の三島は『東文彦作品集』の刊行に尽力した。二・二六事件、田辺元、東文彦……、
健三をめぐる歴代校長の人脈と三島との関わりは以外に深い。
(中略)
健三は雇われ校長ではなく、学校経営者であった。学校の移転拡張を図るため、大正4年に組織を財団法人とし、
校主は理事となる。当時の寄付行為第五条には、三校主(健三、石田羊一郎、太田澄三郎)が学校の動産及び
不動産の全部を寄付し之を財団法人の財産とすることが謳われており、「この三校主の勇気決断は、この学校の
出身者の特に肝に銘記しなければならないことである」と学園史に記されている。

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0574無名草子さん
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2012/02/05(日) 09:48:00.99
建物は老朽化・狭隘化が著しく、教室の床や廊下は波打ち、机は穴だらけで、生徒は「豚小屋」と呼んだという。
校舎の移転整備が課題であるが、学校側には土地も資金の当てもなかった。そこで健三たちは、窮状を詩文に託して
早大教授の桂湖邨に訴えた。桂はこの話を前田利為侯爵に伝え、大正10年に前田家の所有地を格安で払い下げて
貰うことになった。場所は、現在の新宿文化センター一帯である。詩文で土地を手に入れるとは、三島の祖父に
相応しいエピソードである。漢学者の桂は『王詩臆見』など王陽明に関する論文を著し、『奔馬』の藍本の一つ
『清教徒神風連』の著者・福本日南とも親交があった。(中略)
ところが、この土地に目をつけた東京市長・後藤新平が、電車車庫の整備を計画して、学校側に譲渡を申し入れてきた。
健三は直ちに突っぱねた。是清からも譲渡を勧められるが、硬骨漢の健三は拒絶する。やがて関係者と相談した結果、
市民のために東大久保の土地を譲る。紆余曲折の後、学校は新たに日暮里の現在の高校敷地を入手した。

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0575無名草子さん
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2012/02/05(日) 09:48:32.94
(中略)
永年にわたり健三は、赤字と襤褸校舎を抱えた開成中学の校長・理事として奮闘した。校舎の移転用地を確保し、
建設資金を集め、震災を乗り越えて新校舎を竣工させた。また、校長就任時に六百名であった生徒定員を文部省との
粘り強い交渉の結果、千人に拡充している。開成学園の今日の隆盛の礎は、健三が築いたといっても過言ではない。
こうした多年の功績により、大正12年2月、健三は勲六等に叙せられ、瑞宝章を授与された。
(中略)(平岡)夏子が一人息子・梓の嫁に迎えたのが、健三の次女・倭文重(三島の母)であった。健三は、
開成中学校校長を辞職後、昌平中学(夜間)の校長として、勤労青少年の教育に尽瘁した。昭和19年、四男の
行蔵にその職を譲り、故郷の金沢に帰った。同年12月5日、健三は永眠する。享年84歳であった。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0576無名草子さん
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2012/02/08(水) 12:49:15.03
(中略)
トミは、明治7年に金沢で生を享けた。父は橋健堂、祖父は橋一巴で、いずれも加賀藩の漢学者である。トミは
六人姉妹の五番目で、(中略)姉・こうの死去により(中略)明治23年に健三の後妻となる。健三は29歳、
トミは16歳であった。二人の間には、雪子、正男、健雄、行蔵、倭文重、重子の三男三女が生まれた。(中略)
昭和13年、中等科二年の公威(三島)はトミに連れられて能を観る。初めて目にした能が『三輪』であったことは、
三島の生涯を思うと極めて暗示的である。『三輪』は、世阿弥の作と伝えられる四番目物であり、三輪明神が
顕現する。『奔馬』で本多繁邦と飯沼勲が邂逅する場所は、わが国最古の神社で、謡曲の『三輪』の舞台となった
大神神社である。
昭和20年2月、三島は兵庫県で入隊検査を受け、即日帰郷となる。金沢のトミから三島に宛てた2月17日付けの
書簡には「心の亂れといふものが千々の思ひに幾日かを過ごす」とあって、孫の身を気遣うトミの温かい人柄が
偲ばれる。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0577無名草子さん
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2012/02/08(水) 12:50:38.13
(中略)
兄弟について、倭文重は「私なんか娘のころ、男はやさしいものと思い込んでいました。実家の兄たちを
見なれてましたからね」と証言している。
昭和5年1月、公威は自家中毒に罹り、死の直前までゆく。

〈経帷子や遺愛の玩具がそろへられ一族が集まつた。それから一時期ほどして小水が出た。
母の兄の博士が、「助かるぞ」と言つた。心臓の働らきかけた証拠だといふのである。
ややあつて小水が出た。徐々に、おぼろげな生命の明るみが私の頬によみがへつた。〉
(『仮面の告白』三島由紀夫)

『仮面の告白』に登場する「母の兄の博士」が、健行である。橋健行は、明治17年2月6日に健三・こうの間に
生まれた。生母・こうの死去により、明治23年からトミに育てられる。
健行は、ブリリアントな秀才であった。明治34年に開成中学を卒業し、一高、東大医科に進んで精神病学を
専攻するが、常に首席であったという。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0578無名草子さん
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2012/02/08(水) 12:52:03.22
斎藤茂吉は、『回顧』に「橋君は、中学でも秀才であつたが、第一高等学校でもやはり秀才であつた。大学に
入つてからは、解剖学の西成甫君、生理学の橋田邦彦君、精神学の橋健行君といふ按配に、人も許し、本人諸氏も
大望をいだいて進まれた」と記している。茂吉は、開成中学の同級生・健行に二年遅れて医師となった。(中略)
健行は、早熟な文学少年であった。開成中学三年(14歳)頃から文学グループを結成した。村岡典嗣(日本思想史)を
リーダー格として、吹田順助(独文学)、健行、(中略)九名で、「桂蔭会」と称して廻覧雑誌を作った。
弁舌爽やかな少年たちで、住居が本郷を中心としていたことから「山手グループ」と呼ばれた。また「桂蔭会」は、
「竹林の七賢」とも称されて、周囲に大きな刺激と影響を与えた。触発された生徒のなかに茂吉や辻潤がいた。
当時の「桂蔭会」メンバー写真を見ると、健行は帽子をあみだに被り、自負心の強そうな面構えをしている。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0579無名草子さん
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2012/02/08(水) 12:53:30.58
(中略)
開成中学の『校友会雑誌』は投稿を建前としていたが、実態は課題作文の優秀作を掲載することが多かった。
この度、開成高等学校の松本英治教諭(校史編纂委員会委員長)の御協力を得て、『校友会雑誌』に掲載された
健行の文章が明らかになった。(中略)

〈一たび走れば、数千万言、奔馬の狂ふがごとく流水の暢々たるが如く、珠玉の
転々たるがごとく、高尚なる思、優美なる想を、後に残して止まらざるもの、これを
文士の筆となす。〉(『筆』五年生 橋健行)

蒼古たる文章である。(中略)しかし〈一たび走れば、数千万言、奔馬の狂ふがごとく……〉という一文は、
三島由紀夫という作家を予見したような感がある。そして『校友会雑誌』の常連であった開成中学の文学少年・
健行は、40年後に『輔仁会雑誌』のスタアとなる学習院中等科の文学少年・公威(三島)を髣髴とさせる。
「桂蔭会」で村岡や吹田に伍した健行の文才は、なまなかなものではなかった。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0580無名草子さん
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2012/02/10(金) 15:11:14.46
東大精神科の付属病院は、東京府巣鴨病院(後の松沢病院)であった。大正期、院長は呉秀三教授、副院長は
三宅紘一助教授、医長は黒沢良臣講師と橋健行講師の体制をとっていた。(中略)

〈明治四十三年十二月のすゑに卒業試問が済むと、直ぐ小石川駕籠町の東京府巣鴨病院に行き、
橋健行君に導かれて先生に御目にかかつた。その時三宅先生やその他の先輩にも紹介して
もらつた。〉(『呉秀三先生』斎藤茂吉)

健行と茂吉の「先生」とは、呉秀三である。箕作阮甫の流れを汲む秀三は、日本の精神医学の先駆者で、鴎外に
親灸し『シーボルト先生』や『華岡青洲先生及其外科』を上梓するなど名文家としても知られた。そして秀三の
長男が、ギリシア・ラテン文学の権威・呉茂一である。三島は、昭和30年頃に「呉(茂一)先生」からギリシア語を
学ぶ。秀三――健行、茂一――三島の二組の子弟関係は、奇しき因縁である。

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0581無名草子さん
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2012/02/10(金) 15:11:59.40
大正14年6月、秀三が松沢病院を退任し、院長に三宅、副院長に健行が就任する。昭和2年8月、健行は松沢病院
副院長から千葉医科大学(現在の千葉大医学部)助教授に転出する。6年7月から8年9月まで二年余り欧米に留学。
帰国した年の11月に教授となり、10年3月から付属医院長を兼ねた。しかし翌11年4月17日、健行は危篤に陥る。
川釣りで風邪をひきながら、医院長として無理をした結果、肺炎をこじらせたのである。報せを受けて、茂吉は
急遽千葉に向かう。(中略)
昭和11年4月18日、健行は52歳の男盛りで急逝する。「ルンゲンガングレン」とは、肺化膿症のことであろうか。
(中略)後に茂吉は健行の挽歌を詠み、これを歌集『暁紅』に収めた。

〈弔橋健行君
うつせみのわが身も老いてまぼろしに立ちくる君と手携はらむ〉

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0582無名草子さん
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2012/02/10(金) 15:12:27.62
昭和16年5月、健行の死から五年ほど後、一人の客が茂吉の家を訪ねる。客は、80歳を越えた健三であった。
(中略)
健三は、亡き息子の墓碑銘の撰文と揮毫を茂吉に依頼した。律義な茂吉は、恩師・健三の頼みを引き受ける。
5月23日から30日にかけての日記には、友の生涯を文に編むために呻吟する茂吉の姿が記録されている。

〈七月一日 火曜 クモリ 蒸暑
客、橋健三先生、墓碑銘改ム、(中略)墓碑銘改作、汗流ル。〉(『日記』斎藤茂吉)

最も期待した長子に先立たれて、老いた健三の悲しみは深かった。茂吉が撰した墓碑銘によって、健三の心は
幾分か慰められたように思われる。三島が北杜夫に好意を寄せて『楡家の人びと』を高く評価したのは、
トーマス・マンを範とする文学観の共通性の故ばかりでなく、健行と茂吉との深い絆を知っていたからでは
あるまいか。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0583無名草子さん
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2012/02/18(土) 17:02:29.08
(中略)
昭和19年、昌平中学の校長を(四男の)行蔵に譲って、健三は金沢に帰ってゆく。健三は、苦学生教育を
ライフワークと考えていた。明治36年、健三たちの尽力によって、開成中学にわが国初の夜間中学・開成予備学校が
併設される。第一期入学生は僅か22人でしかなかったが、唯一の夜間中学であったことから、生徒数は年々増加し、
大正10年には1,355人という大所帯となった。生徒の職業は、銀行や会社の給仕から商店の小僧、印刷屋の職工、
玄関番など千差万別で、年齢は15、6から30位までであったという。震災で校舎が消失したため、大正15年、
神田駿河台に新校舎を建設する。昭和11年に校名を昌平中学と改称した。
昌平中学の経営は常に赤字であった。健三は、勤労学生から高い月謝をとろうとせず、赤字が累積し、遂には
身売り話まで出るようになった。昭和16年、四男の行蔵がマニラから帰国する。行蔵の実像は、昌平高校の
米山安一教諭の手記『夜学こそ我等が誇り』に描かれている。(中略)

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0584無名草子さん
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2012/02/18(土) 17:02:54.21
橋行蔵は、明治34年に東京で生まれた。慶応大学を卒業後、横浜正金銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)に入行し、
上海やマニラで海外駐在員として活躍する。帰国した行蔵が目にしたのは、80歳の健三が杖をつき、電車の人混みに
揉まれながら赤字の昌平中学に通う姿であった。これをみかねて、行蔵は父の仕事を手伝う決意をする。
銀行業務を終えると、急いで立ち食い鮨で夕食をすませ、昌平中学に駆けつける毎日が始まった。やがて学校の
理事たちは、「本気で父君の跡を継いでやる気があるのかどうか」と行蔵に詰め寄る。行蔵は、横浜正金銀行の
会計課長として月給250円であった。昌平中学に転職すれば、これが一気に70円に下がる。話を聞いた銀行の幹部は
猛反対する。重役の椅子が待っている有能な社員を、万年赤字学校に行かせる訳にはいかない。しかし行蔵にとって、
大切なのはキミ夫人の意見だけだった。キミは、静かにこう言った。「貴方さえよろしかったら」

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0585無名草子さん
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2012/02/18(土) 17:04:47.90
横浜正金銀行の退職金は五万円であった。五万円あれば、当時十年は楽に暮らせた。行蔵は、退職金を学校の
赤字の穴埋めにつぎ込む。こうした努力にも関わらず、終戦の混乱期には生徒数が2、30人にまで減少した。
この危機を乗り越えるため、行蔵は奇抜なアイデアを捻り出す。一つは、英文タイプである。行蔵は、共同通信の
記者・中屋健一を説き伏せて、会社の地下室で埃を被っていた英文タイプを借り出した。学校に英文タイプ部や
英会話部を結成して、タイプ仕事を請け負ったのである。(中略)
もう一つのアイデアは、予備校である。戦後の学制改革によって、昌平中学は昌平高校となった。行蔵は、
学制改革で大学の受験競争が激化すると予測し、理事たちの反対を押し切って予備校「正修英語学校」を設立する。
建物は、昼間の空き教室を利用した。(中略)結果的に行蔵の予測が見事に的中し、予備校収入のお陰で夜間学校は
存続することができた。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0586無名草子さん
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2012/02/18(土) 17:07:23.17
校長としての行蔵の初仕事は、職員便所の撤廃であった。「先生がションベンしているところを、生徒に
見られたって、別に恥ずかしいこたあ、ねえだろう」行蔵は、生徒たちの悩みや相談ごとにも気軽に応じた。
夜間の授業が終わり、残っている生徒の面倒をみると、行蔵は一人で校舎のなかを見廻った。戸締りを確認し、
火の用心をしてから世田谷の自宅に帰り着くと、午後11時であった。
(中略)
顔写真を見ると、行蔵はげじげじ眉毛が印象的な面長で、笑顔が三島と似ている。ただし、六尺豊かな偉丈夫で
あったという。健三の衣鉢を継いで夜学に後半生を捧げた行蔵は、昭和37年に逝去する。享年62歳であった。
平岡家は官僚・法律家の家系であり、永井家は経済人の家系であって、橋家は学者・教育者の家系である。
この三家の人々のうち、学生時代の印象が三島と似ているのは健行である。理系と文系と進む道は違ったが、
二人とも秀才で早熟な文学少年として認められていた。

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0587無名草子さん
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2012/02/28(火) 23:47:54.66
三島の曾祖父は、橋健堂である。(中略)父は一巴(幸右衛門)、母は石川家の出で、金沢に生を享けた。
健堂は書を善くした。長町四番丁(城下西部)に「弘義塾」を開くとともに、石浦町(城下中央部)に「正善閣」を
開いて習字を教えるが、後者の対象は女子である。健堂は、多数の子弟を教育し、「生徒常に門に満つ」と称された。
安政元年(1854年)、加賀藩による「壮猶館」の開設に伴い、漢学教授となる。
(中略)
明治3年、藩の文学訓導、筆翰教師となる。廃藩置県後の明治6年、小学校三等出仕に補され、8年、二等出仕に
進み、12年、木盃をもって顕彰された。健堂は、夜学や女子教育の充実など、教育者として先駆的であった。
そして「壮猶館」「集学所」など、その出処進退は藩の重要プロジェクトと連動していた。
(中略)(子が)いずれも娘であったため、瀬川健三を三女・こうの婿養子とした。健堂の『蒙求』中心の漢学や
庶民教育にかける熱意は、養子の健三に継承される。明治14年12月2日、健堂は59歳で没し、野田山に葬られた。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0588無名草子さん
垢版 |
2012/02/28(火) 23:48:48.74
(中略)
健堂が出仕した「壮猶館」は、儒学を修める藩校ではない。「壮猶館」とは、加賀藩が命運を賭して創設した
軍事機関なのである。嘉永6年(1853年)、ペリー率いる黒船の来航は、人々に大きな衝撃を与えた。二百余年に
及ぶ幕府の鎖国体制を崩壊させる外圧の始まりである。以後、幕府はもとより、各藩において海防政策が
最重要課題となった。「日本全体が主戦状態にある」という現状認識からである。加賀藩も財政難に苦しみながら、
海防強化に乗り出してゆく。安政元年(1854年)、上柿木畠の火術方役所所管地(現在の知事公舎横)に
「壮猶館」が整備される。施設は、加賀藩の軍制改革の中核的な存在として明治初年まで存続した。
「壮猶館」では、砲術、馬術、洋学、医学、洋算、航海、測量学などが研究され、訓練や武器の製造を行った。
さらに加賀藩では、西洋流砲術の本格的な導入と軍制改革を図るため、洋式兵学者の招聘を検討する。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0589無名草子さん
垢版 |
2012/02/28(火) 23:49:22.07
村田蔵六、佐野鼎、斎藤弥九郎の三人が候補に上がり、安政4年(1857年)、西洋流砲術として名高い佐野鼎が
出仕する。佐野は、西洋砲術師範棟取役に就任した。この経緯は、前掲の松本英治教諭の「加賀藩における
洋式兵学者の招聘と佐野鼎の出仕』に詳しい。「壮猶館」では、佐野を中心に海防が議論され、軍事研究の深化が
図られた。健堂と佐野は、親しかったという。佐野は、万延元年(1860年)の遣米使節、文久元年(1861年)の
遣欧使節に随行し、海外知識を生かして加賀藩の軍事科学の近代化に貢献する。七尾に黒船が来航した際には、
アーネスト・サトウと会見した。佐野は、明治新政府の兵部省造兵正に任官する。明治21年に健堂が、佐野の
創設した共立学校に招かれるのは、「壮猶館」における健堂と佐野の親交の遺産ともいえよう。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0590無名草子さん
垢版 |
2012/02/28(火) 23:50:09.74
三島の軍事への傾斜については、永井玄蕃頭尚志に淵源を求める声が多い。しかしルーツは、尚志よりむしろ
健堂であろう。健堂は市井の漢学者ではなかった。何より平時の人ではなかった。幕末の動乱の時代、「壮猶館」
関係者の危機意識は強かった。さらに「壮猶館」は単なる研究機関ではなかった。敷地内には、砲術のための
棚場や調練場が設けられるとともに、弾薬所や焔硝製造所、軍艦所が付設されるなど、一大軍事拠点を形成していた。
こうした軍事拠点の中枢にあって、健堂は海防論を戦わせ、佐野から洋式兵学を吸収する立場にあった人である。
「壮猶館」の資料として『歩兵稽古法』『稽古方留』『砲術稽古書』が残されている。これらは、三島が
陸上自衛隊富士学校で学んだテキストの先駆をなすものといえよう。健堂の血は、トミ、倭文重を通じて三島の
体内に色濃く流れていた。晩年の三島が、西郷隆盛を語り、吉田松陰を語り、久坂玄瑞を語ったのは、健堂の
血ではなかったか。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0591無名草子さん
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2012/03/02(金) 05:55:16.89
6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。

三島由紀夫が生きていたら、『禁色』の絶世の美青年・南悠一を
俺をモデルにして書き直すコトは絶対に間違え無いだろうゼッ!
そして俺の前に跪いて泪ながらに求愛するは必定なのサッ!!
勿論、言下に断ってやるゼッ!! 
どんなに哀願しても無駄なのサッ!!
アイツは腋臭が超ヒデエからナッ!!!!
分かったナッ!!!!!!!

0592無名草子さん
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2012/03/02(金) 06:35:50.30
2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。

三島由紀夫が生きていたら、『禁色』の絶世の美青年・南悠一を
俺をモデルにして書き直すコトは絶対に間違え無いだろうゼッ!
そして俺の前に跪いて泪ながらに求愛するは必定なのサッ!!
勿論、言下に断ってやるゼッ!! 
どんなに哀願しても無駄なのサッ!!
アイツは腋臭が超ヒデエからナッ!!!!
分かったナッ!!!!!!!

『春の雪』の映画化だって断然オレを主役に決定してただろうしサッ!!!
0593無名草子さん
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2012/03/03(土) 04:06:26.00
ナッちゃん、ステキ!
0594無名草子さん
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2012/03/14(水) 23:50:36.53
『春の雪』には、「終南別業」が登場する。王摩詰の詩の題をとって号した「終南別業」は、鎌倉の一万坪に
あまる一つの谷をそっくり占める松枝侯爵家の別邸である。モデルは、前田侯爵家の広壮な別邸だという。
「終南別業」を描きながら、徳川末期に橋家三代が仕えて、大正期に祖父の願いを容れて土地を提供した前田家の
ことを、果たして三島は意識していたのであろうか。
金沢が舞台となった小説は、『美しい星』である。「金星人」の美少女・暁子は、「金星人」の美青年・竹宮に
会うため金沢を訪れる。金沢駅、香林坊、犀川、武家屋敷、尾山神社、兼六公園、浅野川、卯辰山、隣接する
内灘などが描かれている。卯辰山には、かつて健堂が教鞭をとった「集学所」が設けられていたが、『美しい星』では
遠景として登場する。(中略)三島は取材のため金沢の街を歩いている。二日間という限られた時間のなかで、
果たして三島は橋家由縁の場所を訪れたのであろうか。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0595無名草子さん
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2012/03/14(水) 23:51:25.06
金沢では、人々の生活に謡曲が深く浸透している。小説では、金沢のこの風習が巧みに生かされている。竹宮は、
暁子に奇怪な話を語る。自分が「金星人」であることの端緒をつかんだのは、この春の『道成寺』の披キでからで
ある、と。

〈どこで竹宮が星を予感してゐたかといふと、この笛の音をきいた時からだつたと思はれる。
細い笛の音は、宇宙の闇を伝はつてくる一條の星の光りのやうで、しかも竹宮には、
その音がときどきかすれるさまが、星のあきらかな光りが曙の光りに薄れるやうに
聴きなされた。それならその笛の音は、暁の明星の光りにちがひない。
彼は少しづつ、彼の紛ふ方ない故郷の眺めに近づいてゐた。つひにそこに到達した。
能面の目からのぞかれた世界は、燦然としてゐた。そこは金星の世界だつたのである。〉
(『美しい星』三島由紀夫)

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0596無名草子さん
垢版 |
2012/03/14(水) 23:51:59.09
三島は、能舞台が金星の世界に変貌する様を鮮やかに描いている。初めて能にふれた日から、この時までに
ほぼ四半世紀の歳月が流れていた。13歳の公威が、祖母のトミと観たのは『三輪』であった。杉の木陰から声がして、
玄賓僧都の前に女人の姿の三輪明神が現れる。三輪明神は、神も衆生を救う方便としてしばらく迷いの深い人の心を
持つことがあるので、罪業を助けて欲しいと訴える。三輪の妻問いの神話を語り、天照大神の
天の岩戸隠れを物語って、夜明けとともに消えてゆく。謡曲『三輪』は、「夢の告、覚むるや名残なるらん、
覚むるや名残なるらん」という美しい詞章で終わる。
この詞章は、三島の遺作『豊饒の海』の大団円に通じる。現代語訳をすれば、次のようになろうか。
「夢のお告げが、覚めてしまうのは、実に名残惜しい、まことに名残惜しいことだ」

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0597無名草子さん
垢版 |
2012/03/30(金) 21:07:17.07
興深いのう
0598無名草子さん
垢版 |
2012/03/30(金) 21:11:47.03

詩人の高橋睦郎も『西洋古典学事典』を愛読してやまないと聞いた。
納得した。
素晴らしい内容だから。
もしも三島由紀夫が生きていたなら絶賛するだろう。







0600無名草子さん
垢版 |
2012/05/28(月) 12:49:32.14
600
0601無名草子さん
垢版 |
2012/06/27(水) 03:31:53.15


【 おかしなものを吸引・服用・使用すると中枢神経を刺激され後遺症が残る。 】

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