福田和也bot
(フランスの国立図書館で)四十人近い日本人たちが肩を並べて一心に、
(プルーストの)薄汚れた手書き原稿を点検している光景は、私を絶望的な気分にした。
(略)私は文学の本質といったこととは別の、もっと宿命的な異常さ、奇怪さを感じた。
『「内なる」近代の超克』
2019年12月29日

spartacus
この主旨にまったく異論はないが、しかし、昔も今も、日本に40人ものプルースト研究者がいたことは一度もない。

福田和也は、日本の仏文学研究が辰野・渡辺一夫以来の自由闊達さを失い、
仏政府給費留学生で留学してあちらで学位を取り(蓮實重彦以来の「伝統」)、
日本でもフランスのアカデミズムに伍して研究をするなどという、
後進国の立身出世主義に堕していることを、いちはやく痛撃した批評家だった。

実際、小林秀雄や蓮實重彦らそれぞれの時代を引っ張る批評家を輩出してきた仏文から、福田は放逐されたのだった。
それは90sのもっとも優れた批評家だった福田の栄光だと思う。

にもかかわらず、上のbotのような「主観主義」的誇張を、私は不健全だと思ってきた。
問題は、草稿に群がるプルースト研究者の数ではない。こうして日本近代を「廃墟」として崇高化し、
そこから身を引き剥がしながら対決を図るという、福田のロマン主義的身振りこそが「不健全」だ、と。

日本近代は「廃墟」として崇高化・卓越化すべきではなく、単に索漠とみすぼらしいものであり、
自分もまたその一部にほかならない。ここから出発しなければ、話は結局日本文化論になり
(福田はこの点「ネトウヨ」に先駆したと思う)、このみすぼらしさそのものについて考えることができない。
2019年12月29日