二つの考えがある

一つは、国鉄から損害賠償を求められて
その為に出版した。
もう一つは、娘が生きた証を父親が欲しかったため

確か
那須文学に出したのも、父、三郎さんの考えだったらしい。
故人と関わった西那須野中学の関係者から
勧められたとか。

しかし、何故、那須文学を経て新潮社から出すことになったか
今では謎。
まだまだ立命館関係者が活躍してる時期だから
あちこちで名前を出すと困る人も居たと思う。

尤も、新潮社版では随分と原作から手を入れて
削除した部分もあると聞いている、
最後の旅に出ようの詩も、原作にはあそこには無く
三郎さんが入れた、と聞いてる。