ググると佐々木敦の評が残っているけど、、、

https://www.nishinippon.co.jp/feature/literary_trend_story/article/421053/
>作者は実は被災者ではないのだ。北条裕子は東京都在住であり、あの日も、あの日
>からも東京に居て、これまで被災地に行ったことさえないのだという。
>しかし、それでも彼女はこの小説を書いたのだし、書けたのだ。書く必要があった
>のだ。このことはよくよく考えてみるにたることだと思う。
>これは才能の問題ではない。なぜ書くのか、何を書くのか、というのっぴきならない
>問題なのだ。小説を書くことの必然性の問題なのだ。

「必然性」、、たぶんどうしても作家になりたかった北条裕子にとっての「必然性」、、
作家になりたくて、でも自分の中に何もないと気づいてしまった作家志望者の必然性、、

結局、「ネタ」探しに行き詰まった作家志望者が強引に震災ネタに飛びついて、ない
文才を捻り出して書いた「荒削り」な作品が思いもかけず高評価されてしまい、、

、、こういう顛末でしかないと思うのだがなあ、、

みな「遂にホンモノの震災文学が誕生した!」と言ってますけど、実際に読むとただの普通の
「遺された者の再生」物語でしかない。おまけに「盗用」と思われる部分を外すと(悪い意味での)
TVドラマ的な展開しか残っていない。
まさにこれこそが「純文学」の人がいちばん嫌いそうな「通俗」ではなかったのか?

小説ではなく映画だけど、例えば大昔の蔵原惟繕の『愛と死の記録』とかやはり凄かったんだなと、、
いっけんヒロシマ被爆二世(渡哲也と吉永小百合)の悲劇を描くフリをして、「ヒロシマに
生まれたわけでもない我々日本人にヒロシマの悲しみなど分かりはしない」と突き放して
みせたんだから、、
震災被災地を描くとして、やはりそれぐらいの覚悟は必要じゃないの?

この程度の「通俗」が純文学なら、そんな被災地搾取は要らないよ。