Lullymiura
母の日は一日中、娘とふたりで棘のつるだらけの藪を掘り起こして草刈りをしていた。森の中に育つイロハモミジの幼木や山椒の木などを蔓が取り巻き、まるで窒息させかかっていたからだ。 実家の母には、この前宿根草の苗をいくつか自分で届けにいった。フランネルフラワーなどに加えて、めずらしくピンク色の花を取り混ぜたら喜ばれた。日曜の夕方にメッセージを送ったら、いただいた苗をきょうようやっと植えることができたのよ、と返信があった。はなれた場所で、同じように庭仕事をしていたわたしたち。 特別なお祝いがあるよりも、こうやって同じような気持ちに駆られて働く方が、わたしにはしっくりとくる。

母に感謝するというのは、感情と労働の双方において受けた負債を意識すること。ママが育ててくれたから、わたしは生きてきた。それを娘がきのうふと言った。 無償の労苦を受け取ったことに対して、子どもができるのはペイフォワードすることだけ。 でも、母と子で、同じ目線で働いてみることがその贈与と負債のやりとりを和らげ癒してくれることがある。 翌朝、子どもを学校に送り出したあと、筋肉痛に悩まされながら書いている。