★一人称でイク?三人称カマす?どっちよ★
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どーすんの?
みんな、どーしてる?
私は一人称。わたしはね。わたしわ >>221
技術があれば大丈夫だけどな
一般的に、新人賞応募作で人称を変えるやり方は少し危険
応募作では賭けになる
うまく書けたらいいけど、素人が挑戦するにはリスクありすぎ
承知で挑戦するのもいいかもな 今回の応募作は割ところころ変えたな。
知人に読んでもらったら違和感ないというから
その辺はおかしくなかったんだろうけど、それ以外がわるかったか。
一人称で書いてるのだが、文中で登場人物に敬称をつけるべきかどうか迷っている。
台詞は敬称つき。「〜さん」となっているのだが、文中でつけると〜さんだらけになって
うざいので、文中ではつけない方向にしたいのだが、これ、違和感バリバリだよね。
台詞は敬称つきで、文中では敬称なしの前例ってない? 白井は漫画を読み耽っていた。彼は瞬きもまともにせずに一心不乱だ。
違和感はないが いやそこで主人公格の台詞が
「白井さん○○○」となる感じだよ。
例えば
「白井さん」
声をかけると白井は作業中の手を止めて反応した。
とか。 確かに違和感があるね。
口では敬称を付けるけど、内心では尊敬していない、とも勘ぐれてしまう。
ただ、劇中の時間と語り手の現在の時間とに大きな隔たりがある場合は、
必ずしもこの限りではないかと。
その後、出世して白井さんより上の立場になったとか、喧嘩して嫌いになったとか、
そんな場合。 ぐぬぬ・・・やはり違和感はぬぐえぬか・・・
自分が普段一人称神視点というわけのわからないスタイルで日記を書いていたのでその癖が・・・ 新たな試みは、巧い人がやれば芸術になるが、
下手な人がやると鬱陶しい。疲れるものは読みたくない。
下手な人は下手なりに普通に書いた方がいい味が出て好感もたれる。
3人称で書けば。 >>224 へ?
地の文に「〜さん」をつけるかどうか、て事?
たまにあるよ。ほんわかしてていい。 >>226
「白井さん」
声をかけると、ひょろ長い馬顔の彼は、作業中の手を止めて反応した。
と言った表現方法もある。 >>224
そもそも文中に代名詞を使いすぎなんじゃないかな >>229
三人称オンリーは無理なんだよ。三人称他人視線の部分と一人称の部分をミックスさせて、読者が神視点になるのを狙ってるから。
例えばあるところで主人公の知らないことが起きて、それを三人称他人視線で書く。そののちにそのエピソードが絡んでくる事象が
主人公視線の文中で発生して、主人公は!?だけど読者はわかっているという寸法。
章によって人称を変えている。
>>231
>>232
ところが作中に登場人物がごろごろ出てくる上に、4人5人が集まってる場面なんかもあるので、
その方法だとわけわからなくなってしまう。
>>233
何人いようが、その瞬間だけ一体一にすれば良い >233
かなり挑戦的な作品になりそう。
私はいまだ一人称と三人称単一視点(視点変更含む)と神視点しか
書いたことないのでアドバイスできません。
頑張って下さい。
>>234
それは無茶な・・・・とりあえず敬称を無くすしゃべり方にしてみるか・・・ 3人称で行けるでしょう。
「私」を「だれ某」にすればすっきりする。
昨今、応募作品の殆どが1人称なので、
純粋な3人称の方が注目されるのでは……。
人の逆を行こう。
それと、自分で話すより、人から話させた方が説得力がでる。
自分で自分を褒めたり、自分で自分を愚痴ったり、って伝えるが難しいんだよね。
読者は個人の自慢話、愚痴なぞ聞きたくないから。
だけど、これらは客観的に描写すればすっきりする。
実は、1人称よりも3人称が物凄く楽なんですよ。
>例えばあるところで主人公の知らないことが起きて、それを三人称他人視線で書く。そののちにそのエピソードが絡んでくる事象が
主人公視線の文中で発生して、主人公は!?だけど読者はわかっているという寸法。
章によって人称を変えている。
簡単に思いつける事って既にだれかがやってるものです。過去のものです。
文学界新人賞→直木賞「子育てごっこ」三好京三の作品を読んでみましょう。
当時の話題作です。
他にも誰かがやってるよ
つーか、何人かの応募者が必ずやりそう…… しかもそういう小手先に逃げた作品ほど物語本編はスッカスカ いや別に賞ねらってるわけじゃないし、ただの自己満足だからなー。
ストーリー重視だからこの構図にしたわけで・・・
とりあえずアデュー 日本の私小説の歴史は浅い。
殆どが、明治以降に輸入される西欧の私小説の型の模倣なのだが、
真似にもなっていない。近代小説の本質を描ききっていない。
嘘の私小説です。
中途半端な白樺派私小説なんかは西欧からの嘲笑の的だろうね。これは小説なの?といった具合だと思う。
近代小説の本質を捉えられない人間が、下らない私小説作っているんだから笑える。
生活からにじみ出る文学というものがある。私小説というのがそれだ。私は観念
的な作品や民話・伝承などを再構築した再話文学なども好き
だが、日常生活からどうしようもなく湧き出る文学に好感を持っている。それは、その作品が書かれた時代の生活風景や心象風景といった
ものが、写真の様にパチリと切り取られ、あたかもアルバムに貼られたものでもあるかのように、本 >日本の私小説の歴史は浅い
えーと土佐日記とかあたりが始まりでしょうか? 私小説といえども、日本の場合、どちらかといえば、写生文学となるのだろう
西欧で熟成された本格的な近代小説とは違う。
世界の人達も日本の文学者に本格的な近代文学を期待してはいなかった。
ローカルな日本文化を気休め的に楽しんでいたのだろう。 馬鹿ばっか 海外に私小説なんかないよ
自伝と自分の経験が出てくる小説はあっても 西洋にもゲーテ『若きウェルテルの悩み』、
トルストイ『幼年時代』『少年時代』『青年時代』、
ラディゲ『肉体の悪魔』、
プルースト、アンドレ・ジッド『一粒の麦もし死なずば』、
ヘッセ『車輪の下』、ヘンリー・ミラー、ハンス・カロッサのほぼ全作品など、
がある。 日本の私小説とは違う
という事じゃないの
厳密には、探せば、あるにはあるだろう 自分の経験を生かした普通の小説
(相手の心理とかも書いてるしね) 浮世絵みたいなもんだろ
外国の影響が皆無なわけではないが手法、題材において日本オリジナルな点が多い
海外に(むりから加えれば)ないわけではない
版画をすべて浮世絵て呼ぶのに抵抗があるように
自伝的作品を私小説って呼んじゃうのはちょっとやっぱ違うと思う 初心者ですが、
日本の私小説のイメージとして
「自然主義文学」真面目なものを書いていてもつまらないので、人間の醜い所を芸術化する
「白樺派文学」理想を求めながら、結果的には落とし所で調和・妥協する
を持っています。
内面的な格闘・克服はこれらでは避けられてきたようですが、
これらの手法は海外からは全く評価されていないのでしょうか? 無頼派なんてものもあったよな。
日本の文芸各社は陰湿な作品を好むのが伝統なんだよ。 ラン・アン・ユン
2010年12月30日 … 第一に、もともと小説は、過去に対する回想という形式の枠物語となっているが、彼は 現在形をなるべく使用 … 突然ですが、登場人物が一人しか居ない小説はありませんか?
突然ですが、登場人物が一人しか居ない小説はありませんか?
. 違反報告.
難しいご質問ですね〜。性質上、短編とか実験性の強い作品が多いと思います。
夢野久作の超短編『ビルヂング』は深夜のビルに一人泊まり込む男
の話、同じく夢野の『縊死体』も、厳
密には違いますが、ある殺人犯一人の超短編です。
「人間が一人しか登場しない」なら
オラフ・ステープルドン『スターメイカー』が確かそうです。
宇宙の意識体に導かれて宇宙の成
り立ちを探る人間の話です。他に、埴谷雄
高の短編『闇のなかの黒い馬』が「主人公の哲学的思索を辿る」作品
として該当するかも知れません。
「全てが一人の人物を不動の中心として展開される」作品でもよければ以下の作品があります。
・丸山健二『千日の瑠璃』知的・身体障害者の少年に連なる森羅万象の物語。
・石川淳『荒魂』神出鬼没のモンスター・佐太の周りでうごめく政財界の腐れ男女。
・サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』登場人物の全てが待っているゴドーはやって来るのか?
とりあえず、登場人物がひとりもいない前衛的小説を書くことに決めた。これはだれもやっていない。 えーと、ショートショートで
風景描写だけで、最後にちゃんと落ちもあるやつ
読んだことあるよ
落ちとかも忘れたけど
星新一かな? 筒井かな? >>262
じゃあ僕は中編小説でやってみせようじゃないか、ひひひ。 朝吹さんの、流跡って小説は、変わった一人称でしたね。散文詩的というか自動書記というか。
「芝生の復讐」 最初の短篇であり表題作。家族の歴史を語る
エッセー風。芝生の力で予言をしようとした祖
父、そしてジャックとい
う男の悲喜劇が語られる。爆笑できる。梨の木の下に固まってたた
ずむ丸裸のガチョウた
ち、梨の木を灯油で燃
やす男、などブローディガンらしい、オフビートでシュールレアルなアメリカ的幻想光景が印象的な傑作。 、「猫の足の裏を瞼にあてる」記述があるのを思い出し、やってみて「な
るほど、冷たくていい気持ちだ、ハハハ」と笑うのであった。そこには狂気
をやっと通り抜けた者だけが知り得る安堵とペーソスがある。さまよえる魂
をこんな物語に作り上げるのは、純文学の仕事である。(余談だが、去年、内
房旅行の際、「N浦」で途中下車してみた。駅近くにやなぎ屋を彷彿させるような古い食堂を発見して悦に入っていると、店のおば
さんが出てきてこちらを怪訝そうに見ていた。そしてその眼差しは物欲し
そうな目つきだった!もしや・・・)
そして、「猫の足の裏を瞼にあてる」誰かの小説と云うのが梶井基次郎
「檸檬」掲載の短編「愛撫」なのであった。電車の中で「愛撫」中にこの
記述を見た時には、嬉しくて心臓の鼓動が早まった程であった。梶井の作
品自体は、「檸檬」を除いてはそんなに好きではないけれど、この発見で
本代の元は
XXやトリップは多幸感が強く感覚が鈍くなりますよね
バツセクは逆で多幸感は少なく感覚が鋭くなります
XXとカクったら良い感じかなってやって見ましたが、最初は良い感じだったが
XXのダルさとバツセクのダルさがダブルで来て、エッチどころじゃ無くなります
川上弘美の傑作、椰子・椰子のような作品は三人称では無理 赤川次郎みたいな翻訳体三人称なんか読んでもなんの快感もないという。 >とりあえず、登場人物がひとりもいない前衛的小説を書くことに決めた。これはだれもやっていない。
0人称小説か……、純文学ですか?
それは、面白い。注目されるだろう。
純文学は殆ど(80%以上はそうだろう)が一人称で飽き飽きしているし。つまらん。
0人称はあり得ないと思うよ。原理的に。
結局、それは3人称小説だよ。
神の視点だから。
誰もやっていないというのは違う。 俗に言われるのは、
一人称小説
二人称小説
三人称小説
他にありますか? 描写を全く抜けば0人称だろう。
誰の目からも見えない事を書けば0人称だよ。 それって、全てを会話で通せ、描写をするな、という事になるんじゃね……。 諏訪哲史の『りすん』だね。
会話のみで小説が成立。語り手による地の文章が全く無しの0人称小説だね。
既にあるから今後誰かがやったとしても前衛にはならないな。 レーゼシナリオという戯曲形式の小説や、手紙やメールだけの小説も、なんだか不思議なもんだな アイヌ語に3.5人称だか4人称だったかなかったっけ? その辛さがわかってもらえない」というような発言を繰り返し、司会の
高橋源一郎から「中原君はほっときましょう」と言われている。2008年、
高橋源一郎の選考により『中原昌也 作業日誌』でBunkamuraドゥマゴ文学賞
受賞。高橋は「おれの基準で、いちばん小説になっていたもの、最高の小
説だったもの、それが、一見、ただの日記にすぎない、聞いたことも見た
こともないCDやDVDの膨大な購入リストとグチと泣き言ばかりの、この中
原昌也の『作業日誌』だった」との選評を行なった[2]。
屋根裏を走り回るネズミは、たいていの場合クマネズミだが
、ドブネズミは地下鉄の線路や地下街の通路に不意に現れ、見る人を驚かすことがある。
野外では、河原の土手や、田畑の土が小高く盛り上がったところの斜面などに、巣穴を掘って生活する。
巣穴は、巣室が1個、トンネルが1本だけの単純なものから、3つの巣室を備え、分岐した複数のトンネルをもつ複雑な 感想『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』
・江國香織『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』集英社文庫 05/04/12 様々な女性の一人称で語られた短編、というより掌編集。小説の言葉という より、詩の言葉で綴られた物語という感じだ。 自分は一人称のほうがかきづらい なんかこっぱずかしいのだ 新人賞応募作品では「一人称が良くて三人称多視点はよくない」
っていうのは一般的に言われてることなのかい?
それともみんなの経験上、そういうのが予選通らなかったとかかい? 一人称はまあいい(ただし、見てないことが書けない)
三人称固定視点(たまに別視点)もまあいい
その代わり、地の文と主人公の視点と混乱が無いようにしないとだめ
賞にもよるが口語口調を地の文に入れると駄目と思われる
例
ムカついた俺は(1人称なので可)
ムカついた佐藤は(地の文でムカついたはないだろと言われる)
三人称多視点は、群像劇でもないなら、ころころ変えるのが
へたくそと思われる(本人的には考えて狙っていたとしても) もともとは純文学の世界が言文一致をやっていたよ。ラノヘより前に。 それって常時主流でないから
ラノベは純文学の新時代を告げてるのか 純文学(のホンの一部だけど)ができるだけ口語をやったの対し
ラノベは日常で使わない部分があるラノベ口語だよな
それを日常で使っちゃってる人の例とか2chに書かれたりしてるけど 、太宰治は エッセイのような小説をたくさん書いています。 …
www.bunshun.co.jp/../rectcle.htm
fragments 『真鶴』
志賀の小説には明らかに創作された小説と、そして自身の体験を基にした随筆のような小説があり、後者は特に「心境小説」と言 …
elsur88.blog77.fc2.com/blog-e 5つ星のうち 5.0 小説として読むニーチェ, 2008/4/29
By 河童 "河童のマッグ" (大阪府吹田市) - レビューをすべて見るレビュー対象商品: ツァラトゥストラはこう言った 上
(岩波文庫 青 639-2) (文庫)
色々なレビューがありますがこの視点のレビューが無いので書いてみます。
私が読んだ感想は一言「笑えます」。
超人?よくわかりません。いろいろな言い回し、はっきり言って殆ど真意は
わかりませんでした。
でももしこれを哲学書としてではなく小説として読んでみた場合。面白い、
あるいはなんじゃこりゃという”超人的”な世界の連続です。亜空間とで
もいいましょうか。驚くべき登場人物とまさに頭のネジが取れた主人公と
の軽妙なやり取り。狙ってないのでしょうがちょっとした漫才みたいです。
(ただし突っ込みは居ません。自分で突っ込まないといけませんが)
「女とは妊娠だ」という台詞には笑えました。それに対する老女の回答も絶妙。こんなキャラ他の小説では出会えません。哲学は一寸苦手という人も読んでみても損は無いかな。
ただしある程度活字に慣れておかないとしんどいかもしれませんが… ドストエフスキー的三人称説明文体は、アンドレ・ブルトンが百年も前に否定してるのに、いまだに日本の小説界は古臭い文体で頑張ってるね。
まあどこの国にも、そういう説明文体はあるが。 ドストエフスキーは知ってるがアンドレ・ブルトンは知らない ググってみた
>アンドレ・ブルトン
>ちなみに、誕生日については、
>ブルトン自身しばしば2月18日とも公言しているが、
>それは「詩的」な意味でのことで、
>書類などでも2月19日生まれとはっきり記されている。
詩的な意味wwwだって
中二病わろす
自動記述とかやってるし、ドストエフスキーの病的なまでに緻密に描写された
小説にコンプレックスとかあるんじゃね 書けませんよ。
世の中バカばっかりだから、三人称の多いこと多いこと。
三人称なんてただの説明書。 一人称、三人称どっちもメリットデメリットあるんだから
内容に寄ってどちらが適切か判断して使い分けるべき
どっちが難しいとか易しいとかない
正直一人称→三人称へはすぐに書き直せるだろ
三人称から一人称はちょい難しいけど 一人称だと主人公が居ない場面は書けないからな
物理的に無理 伝聞という手法を用いれば不可能ではないけど
まどろっこしい 大丈夫。バカでも書けますw一回やってみ。
でも廃れてるよ。糞みたいなラノベでしか今や見かけない>一人称 一般は春樹、ラノベはハルヒで、一人称はお腹いっぱい。 ダヴィンチから2007年くらいに出てる小説の書き方みたいな本読んだけどさ。
編集者のコメントであったよ。1人称は腐るほど送ってくる。3人称は珍しい、って。
結果として発表される小説で、1人称と3人称の割合が仮に同じだとしたら、
1人称の方が競争率高い?
それとも屑みたいな文章が多いから振り落とされてるだけ?
ちなみに私は3人称主人公視点で書いてます。
章によっては一部、主人公が去った後の部屋で、主人公が会話していた相手の視点で
書いてる部分もありますが数行だけ。それとわかるように。
思うんだけど1人称でも3人称でも、ちゃんと書くにはどっちも難しいんじゃない? 一人称は取っ付き易いが奥が深い
三人称は面白く無いのが多い ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています