【エンタメ・純文・ポエム風】文体研究所
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エンタメ小説、純文学小説、ポエム小説、ライトノベル、SF小説、ファンタジー小説、児童文学… 文学における文体、表現、話の流れや、その他もろもろ、各種特性について研究するスレです。 どんな質問でも誰かがマジレスするスレ 12 http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/bun/1288706416/ からの派生スレ 派生の詳細は>>2 スレ立てした人は、15歳が書いたっていうので話題になった、河崎愛美「あなたへ」 も読んでみるといいよ。典型的なポエム小説。 >>8 「滝が落ちてきた! 世界の静寂は破られてしまった。僕は背後を見る。」 と某芥川賞作家風に書いてみる。隠喩というか、錯覚です。 現代(戦後)で詩的な〜って言ったらとりあえず大江という事になるんだろう。 ノーベル文学賞の受賞理由もそれだよな? まあ知識薄くてよく語れんのだがな。 人が来た!嬉しい!もう名前の【1】って消してもいいのかな?私も知識薄いから語れるか心配だ。 詩的描写と言えば【寂しさは鳴る】(綿谷りさ・蹴りたい背中冒頭)思い出すな。 『まずこの切り出しが素晴らしい!』と批評でベタ褒めされていたから。凛とした表現て感じで、クドさは見受けられないが、万人受けする感じだと思った。 >>11 大江の『宙返り』(冒頭がここにある→)http://www.cogito-kobo.net/OshaberiHondana/OeKenzaburo/OeKenzaburoChuGaeri.html 『飛行機のおもちゃ持った小さな男の子が、舞台に向かって走ってる』だけなんだけどさ。自分はこのせいで『これは読めない!』と思ったなー。 詩的と言うよりは、【詩的な文章配分をした精細描写】って感じかな。 詩的表現って、文化圏によって表現に対する先入観が違うから、逆にこういう方が世界的な賞を得られるのかのかもしないけどね。 「鼓膜を震わす大音響は、そして俺の思考も奪う。心臓が次の拍動に至る間もなく、俺は背後を振り返っていた。」これはエンタメ風だろうか。 大江の詩的?表現は翻訳しやすいタイプだね 普通詩は翻訳が難しいけど、あくまで詩的表現だとそういうわけでもないね 本題から若干ズレるから適当にスルーしてもらっていいんだが、翻訳という問題に直面した時に定型詩って不便だろうなって思ってたんだよな。 例えばさ、日本なら短歌俳句(川柳)なんてのは言葉のリズムが重要じゃない。575のリズムだし。そういうのって世界にどう発信されているんだろうと疑問に思っていた。 海外で言えばソネットみたいな、日本でもあるだろうが押韻というか脚韻というかそういう音を揃えているのって英文科の人間でもない限りなあって。 その点散文詩というのは、まあそっちに進まざるをえない気がする。 かつ詩情っていうのも文化によって違うわけじゃない。そこら辺はある程度各国の訳者の力量なのかもしれないが さて詩的文体となると上の一般的な詩と似たような齟齬が生まれやすいような気がするんだよな。 村上春樹みたいな、センテンスよりストーリー全体で暗喩させているのはいいんだろうが 果たして綿矢りさの「寂しさは鳴る」はどう訳してどう伝わるのか。寂しさという感情を音がなる物体に比喩させてそこから「鳴る」に繋がっていくわけだろう。 寂しさは鳴る、が詩的かどうかの判断は保留してさ(ちなみに俺はアホと違うかという感覚を持った。山田詠美だったか? 芥川賞選考委員の誰かも何だこの文章みたいに言っていた記憶がある)。 翻訳しても伝わるって、悪い意味でのポエム小説を分別する方法になりそうだな。 (翻訳ありきで考える訳じゃないけど、行きすぎない表現のバロメーターとしてねはね) 自分は【寂しさは鳴る】の表現に、周囲に物や人がないせいで音が響きやすい状況、を想像したな。 寂しい音が鳴り響く、的な。 【古池や 蛙飛びこむ 水の音⇒an ancient pond / a frog jumps in / the splash of water】 芭蕉の英訳がこうだからな。なんとも、脱力するのはあるよな。 せめてanがなくてancient poundで始まっていたら、古池のインパクトがもっとハッとする形で出るのに!と思わないでいられない。 ただ、自分はこの漢詩が好きなんだけど 【葡萄の美酒 夜光の杯 飲まんと欲すれば琵琶馬上に催す 酔うて砂上に伏すとも 君よ笑う事なかれ 古来征戦(昔から戦では) 幾人か帰らん(何人が生きて帰ったためしか分からないのだから)】 日本語訳の形のおかげで、より好きって言うのもある。 原本の国からしたらゲェーでも、訳本の国からしたらマジ最高!ってのも、あるかもしれん そこ考えると、村上春樹って詩的とか難解な表現を駆使してる訳でもないのに あの現実感のない世界感出来てるのってはすごいのかな?? セリフ回しのふんわりさ加減を、詩的と言う事も出来るけど。 >>10 世界と自分の対比が好きな作家って、最近多い気がする。 セカイ系のせい? 周囲の事を「世界は」って大きく表現するよね。 確かに安易な方法だね。反省。 あんまり使うと、どんどん「世界」が安っぽくなるという罠が待っている。 すごく好きな文体だ。っつーかこういうのこそがポエム小説の文体じゃねぇのか!? >>18 安易ではないし、自分も結構好きな表現なんだww青っぽさが出て ただ、セカイ系って言う括りが出来てから使うのが難しい デコラティブな言葉は、重要な所でこそ使われるのがいいかな。とかね 【彼女の視線は、あの時の女のそれと同じだった】 個人的に、最近こういう『それ』の使い方する文章見るとイラっとするんだが なんか突然上から目線つーか、高尚ぶってるように感じるんだけど、違和感感じる人他にいないだろうか http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/book/1284477255/48 ここに面白い事が書かれてる(正確にはそのスレのリンク先だが) 質問スレで出てきたポッポに関する事だけど 芥川賞作家の奥泉がポッポの作品を真似した可能性があると言われており お互いの文章比較がある どちらも詩的な描写がされているから参考になりそうだよ ポッポ>このスレの派生元でも教えてくれた人がいた 一般の人からすれば、芸術家の創作方法は常に突拍子がないものだから 彼らの感性を説明する時に『何かが取り付いている様』っていうと、表現として分かりやすいんだよね。 世間には「神がかり」って形容詞が存在するくらいだから、この状態だと、真似って扱いにはならない気がするなぁ。 しかし特定の形容詞が存在するのに、それを使わず別の方法で長々と説明されると 読み終わった後に、陳腐に感じてしまうなぁ。 こんだけ文字使ってるけどそれって『神がかり的』で終わらせられるよね?みたいな。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/19_14618.html (芥川の或阿呆の一生) http://www.aozora.gr.jp/cards/000096/files/933_22022.html (夢野の猟奇唄) 小説ではないんだけれど、自分はこういう文体が詩的に感じられたりするな。 文章の手引きで、作者の求める感情(感覚)に読者が至る事が出来たら それが詩的小説…??純文学?とか思い至る えー、マルチはスルーってのが鉄則ですが、奥泉光は10年文章の修行した、 ってインタビューで答えていたね。 小説の書き方の研究を10年、だったか。 特に好きな作家でもないし別にいいんだが。 芥川は短文に切れがあるから、或阿呆の一生は芥川らしさが満載だね 短文に切れがある=表現力が高い とも言えるね 詩的というのは、「表現力が高い」という事なのかも 或阿呆の一生はすごく好きなんだけど、物語になっていない事はやっぱり致命的なんだろうか? 純文学である芥川賞の作品に、昨今、ある程度のエンタメ的ストーリーが存在しているのを見ているとふと思う。 新聞の相談コーナーで、小説家の人に70代辺りの人が『今から小説家になりたいんです。ずっと書く練習はしていました』って投稿してたのを最近読んだなぁ…。 書くための勉強時間が10年でも1日でも、書き上げた作品に対する評価は、読まれたその日のものだぜ。 物語になっている必要は無いんじゃない? でも一般的な小説という枠で考えると外れてしまうかもしれないね。 もし或阿呆の一生を新人賞に送ればどうなるか気になるね もちろんその作品がまだ公開されてなかった場合 今の時代、エンタメ性に特化しない詩的な文章を求めるのなら それがブームだった時代の本を青空文庫で探すか いっそ詩歌やらポエムに走るべきなんだろうか。 ポエム小説と言われた小説は、ブレーキなしの独白羅列だし エンタメでないと言われた小説は、狭いお化け屋敷みたいな 手当たり次第のおどろおどろしさに塗れたものばかり気がする。 世間に取り上げられていないだけで、自分が見ていないだけで 若い作家にも、息切れのない表現が出来る人は居るんだろうか。 まあなんだかんだ言って、俺達はポエムを書きたいわけじゃなく(それは詩板の領域)、ポエティックさを文章体に織り交ぜたいのよな。 できればできたで武器にもなるし。 >>29 同意するが、ポエティックが得意のはずの奥泉レベルでもこれでは 本当に書けるのは一部の作家だけだろうね >>21 見てポエムの奥深さがわかった >>25-26 「文芸的な、余りに文芸的な」 三角みづ紀という詩人が、講談社Birthから小説出したけど、 イマイチ話題にならなかったんだよね。 文月悠光は来るかもね。一句引用します。彼ってのは人参のこと。 〈ふつふつと熱を抱く鍋の音を聞き、 今度こそ微笑する。 私にマンマと食われてしまう、 ただそれだけのことが 快いなんて 彼もまた、おとこなのだ。〉 >>31 その文章が小説にさりげなく出てきた事を想像してみたら、良い感じだ 文月さんとは会った事があるんだが美人だったね。会ったと言っても詩の朗読会に行って、ちょっと話したくらいだったけど。 詩のいいとこって、キャラクターが存在しない所 キャラクターがいると、書き方を一人称にした所で 表現の範囲がそのキャラクターに留まってしまう様な気がする >>31 結局芥川も、洋モノ作家のワナビーて感じ しかし性と死を彷彿とさせる以外の詩的表現て、存在するのかしらん?? マルドゥック・スクランブルとやらを読んだ。 絶賛されていたのがカジノでのポーカーシーンだったんだけど 読むに、とにかく壮絶にルールを書き連ねているだけのように思えた。 この小説に限った事じゃなくて 自分の理解の範疇超えると、絶賛に廻る人、多くないか? それを勘違いして、難解表現に走る人間も多い気がする。 >>36 おれもマルドゥック・スクランブル読んだよ。 娼婦としてしか生きていけない薄倖の少女と金色ネズミの話って、設定的にベタだけと泣けたな。 こういう設定をされると少々難解な話でも読もうとするから不思議。 特に戦闘シーンは延々だらだらと、あぁクドい! でも読んじゃう。 大衆小説は設定だよ。それをまざまざと見せつけられた作品だよ。 >>37 36です。自分も読んで面白かったと思ったんだけど ポーカーシーンばっか褒められてる気がすんだよなぁ。 いや、もっと他にもあんじゃん?みたいな。 作品によって文体の変えれる沖方のバリエーションの凄さとか ハードボイルド表現の為の語彙の適切さに驚いたんだが みんなポーカーシーンのみを褒めるのか?そうか…って 思っているよりも、文体に興味を持つ人は少ないのかな 今回のポッポと奥泉の話題は自分の能力を知る試金石足りえると思う 以下の話は反論来るの承知で書くが ポッポと奥泉、両者の文章を読んでみよう、そして比べてみよう、 もしポッポのほうが才能あると思うなら君には純文学の才能ない ごてごて着飾った戯言を上質のものと勘違いしてる。 もちろん芸術を1文だけを取り出して言葉で具体的にどう違うのかを説明はできないけど、 わからないやつにも状況証拠は示すことができる。 ポッポは1次落ちだし、奥泉はすでに作家だ。 (状況証拠だから、いくらでも反論できるし、現実を直視しないのも勝手だけどさ) 問題のブログと奥泉スレを見れば 奥泉がポッポの真似をしてる可能性は充分にあるし ポッポのあの詩的描写や意識描写が意味を持っていた事もわかった。 >>40 はただのアンチポッポ=アンチシリン ちなみに、こいつが「詩」をまったく理解できない事はこいつを知る人はみんなわかっている 奥泉は純文学の勝負をしかけてポッポに負けた。 そしてエンタメの勝負では奥泉が勝った。 『少女と男を乗せたエア・カーが今しも通過中の高速道路の下方−ごみごみした地上の歓楽街を、一台の赤いオープンカーがスピードを上げて走り抜けていった。 タイヤつきのガソリン車だ。エア・カーにはまず縁がないが、障害ガソリン代に困らず一台か二台は手放す事なく所有していられる−そういう身分のものが乗る車種(クラス)だった。』 (沖方のマルドゥック・スクランブルより) ハードボイルド表現の特徴 ・ステータスやランクと言った社会的階級に対する描写の多さ ・横文字ルビの多用。これも『車種』には(クラス)のルビがあったし、他の漢字にもいっぱい横文字ルビがあった。 男性読者が対象だからじゃないかと思うが、どうだろうか 主人公の内面は社会から孤立している様な描写も、ハードボイルドには多いイメージ マルドゥックは、ハードボイルドの主人公に少女を据えたのが斬新 お化け屋敷的ポエムなのに、なぜか惹かれるこの文章 『われは思ふ、末世の邪宗 切支丹でうすの魔法。黒船の加比丹(カピタン)を、紅毛の不可思議国を 色赤き びいどろを、匂い 鋭きあんじやべいいる、南蛮の桟留縞を、はた、阿刺吉、珍の酒を。(以下略)』 (北原白秋の邪宗門より。後はこのページ見て⇒http://www.aozora.gr.jp/cards/000106/files/4850_13918.html ) ルビないと訳わからんのだが、リズムがいいんだよな。言葉のチョイスも。深まっていく段階の進み方も。 >これも『車種』には(クラス)のルビがあったし、他の漢字にもいっぱい横文字ルビがあった。 >男性読者が対象だからじゃないかと思うが、どうだろうか 車種なら通常typeかmodelを使うと思う、タイプなら違いでしかないが クラスっていうと階級的な響きがでる 車種って訳して終わると、そのニュアンスが翻訳時に落ちるので あえて残したのではないかと そういう身分のものが乗る車級だった とかやっちゃうと意味が通じなくなるし 有島武郎 カインの末裔⇒http://www.aozora.gr.jp/cards/000025/files/204_19524.html プロレタリア文学って、自分達の置かれた立場の辛さを外に伝える事が 第一だから、意外に表現描写が素晴らしかったりする。詩的ぃ…。 ハードボイルドって、いまで言う萌え系だと思う。男の逃げ場 成立した男系社会の中で、劣等感のある人がアウトサイダーとして存在していて その社会を否定しつつも、その社会に似通った賛美はやっぱり欲しいから アウトサイダーが成り立てる世界=ハードボイルドを作った、みたいなさ だから階級を意識させる描写が多い 自分の世界も外の世界も正しいという物語⇒ハードボイルド 自分は不当に抑圧されていると訴える物語⇒プロレタリア 自分と他人の距離で世界を計ろうとする物語⇒純文学 自分は世界の一部という物語⇒エンタメ な、イメージがあるな ○○な文体、とか○○な物語、って 純文学は関係なくない?他ジャンル小説全般の話じゃないの? ハードボイルドはエンタメに、プロレタリアは純文学に入るだろうしな その純文学の評価は、日本的な個人苦悩暴露系のこと言ってんだろうけど ハードボイルドというか硬質な文体の例で、中村文則「銃」の書き出し。 「昨日、私は拳銃を拾った。これ程美しいものを、他に知らない」 恥ずかしい質問かもだけど、純文学って海外にもあるのかな…? 日本の純文学は、海外の作品を取り入れた結果の化学反応で生まれたと思うんだけど 海外の作品って、純文学にある表現は当たり前で、それで社会派小説だったりエンタメだったり恋愛ものがあったりする様な気が…。 海外にその概念はない、とはよく聞くわな。 ただアガサ・クリスティーは推理小説、みたいな区分けはあると思うけど。 【東の野に 陽炎の立つ見えて 返り見すれば 月傾きぬ】 引き留められる程の印象でなかった陽炎を見捨てて、何の気なしに振り返った時に そこにあった月の存在感の大きさに、畏怖恐怖している。って感じで、情景と感情の表現がすごいと思う。 【文芸的な…】読んでたら、『奥の細道の序文はサイコーなのに、何だあの途中からの脱力した文章は?』ってのが合って面白かった。 【月日は百代の過客にして行きかふひともまた旅人也。…】確かに出だしは最高にカッコいいww >>49 【美しい】に対する作者の価値観を、読者が読み進めるうちに理解していく文章、ってのが理想だよなぁ。 存在する表現は、全部が何かと繋がっていなければいけないと思ってしまうのは、自分の書き方に不安があるからかな 奥泉光っていう現役の純文学作家のトップクラスの人でも 詩的表現をやってみれば下手か・・・・・・ 純文学って言葉は無くても たとえば、教科書に載るような、あるいは大学の授業でやるような作家は居るわな アメリカなら、ヘミングウェイとかサリンジャーとか 古典だとシェイクスピアとか ほかの国、中国あたりだと古典もいっぱいあるし 海外のって、推理以外は全部エンタメって分類出来てしまいそう。罪と罰も、嵐が丘も、ファウストも、神曲も。 ただし、詩的な表現方法はどれにも織り交ぜられていると思う。 中華の古典と言えば水滸伝とか三国志、封神演義なのかな?漢詩の表現は美しいけど そう言った古典にその表現が応用されているか?と言えばそうでもない気がする。 近代小説で純文学っぽいのはあるけど(阿Q正伝http://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/42934_16419.html ) 分類は社会派小説だしな。描写も特筆する程の詩的要素を持ってない。 日本にも、和歌はあるし俳句もあるし、歌舞伎や浄瑠璃のような、シェークスピア的存在はあるけど そこにあった詩的表現が、文学に取り入れられているかと言えば、そうでもないんだよな。 古典長編て八犬伝くらいしか知らんが、アレは完全にSFエンタメだし。 知らんかったがヘミングウェイって、ハードボイルドって扱いなんだってな ライ麦畑は純文学なイメージなんだけども。 >>53 好みの問題じゃね? 自分は耽美的表現が好きだから、モロだしより垣間見に美学を感じる だからURLにあった文章を読んで、興味が出たか?と聞かれれば、あんまトキめかなかったなーってだけ 文体が幸せそうだったからかな?不安のない文章だったな、と思った 緩急が激しくないと惹きつけられないってのは、短絡的読者なのかもしれないが。 ちなみに谷崎潤一郎の刺青みたいな、張り詰めた空気をずっと描写して 最後にズンと来るエンディングを迎える流れが好きだな。 文章取り上げてるサイトがあったhttp://www11.plala.or.jp/doala55/book/tanizaki1.htm ただ、それを周りくどいと感じる人もいるけどねー 海外でも純文学はあるでしょ 大学の文学部で教えてるようなやつとか、ノーベル文学賞の候補に挙がるような作品とか 海外には純文学はないな。 文学という大きなカテゴリーはあるが、 純文学は日本固有の文学の1つだ。 なぜならば英語は語順がある程度決まっている。 日本語のように自由自在に配置することができない。 それはつまり文自体にあまり変化や多様性がないということだ。 だから英語圏の文学は中身で勝負する。 日本語というだけで芸術性をもたせることができる。 どれだけ美しい文章を書けるか。 俳句、和歌などを見よ。それこそ純文学の始まりだ。 >>58 ドイツ語だと割と語順は自由だし、英語は余り読まないけど韻を踏んだりはできるだろ フィッツジェラルドとかフィリップKディックとかエンタメ作家じゃなくて純文学の作家として成功したがってた話をどっかで読んだ気がする 海外でも日本の純文学に対応する概念はあるんじゃないの 芸術作品と商業作品くらいの分け方はするだろうし 純文学を何だと思ってやがる? じゅん‐ぶんがく【純文学】 (1)広義の文学に対して、美的情操に訴える文学、すなわち詩歌・戯曲・小説の類をいう。 (2)大衆文学に対して、純粋な芸術を指向する文芸作品、殊に小説。 本質は「美的情操に訴える文学」だぞ。 2の意味で解釈することもあるが、基本は1だ。 海外文学って、常に文体が論理的なんだよなぁ。説教くさいっちゅーか。 主人公は悩んだりブレたりしなくて、自分を理解できない世界はおかしい!って世界に挑むヤツが多いし。 イタリアのカルヴィーノっていう作家が 【電車でたまたま相席した女性と、沈黙したまま向き合っていくうちに この女もしかして俺を誘っているんじゃないだろうか?と妄想に耽り出し こっそり女に触れたら、結局ガンくれられてしょんぼりする男の話】 って言う、『夜汽車の男〜世にも奇妙な物語』に近い動きのない小説を書いているんだが やっぱり純文学的とは違う感じなんだよな。 あ、ジャン・コクトーの【恐るべき子どもたちhttp://pinkchiffon.web.infoseek.co.jp/bookosorub.html 】は純文学な気がする。 詩人が書いた小説は、やはり内面を書き出すかな… >>57 取り敢えず拾ってきたノーベル授与の理由を貼っとく 川端(日)【日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による彼の叙述の卓越さに対して 】 クレジオ(仏)【現代社会のあらゆる桎梏(しっこく)を超え、人間の在り方を根源的、詩的、肉感的な文章で追求した】 ミュラー(独)【凝縮した詩と率直な散文によって、持たざる者の置かれた状況を活写した】 大江(日)【近代の標準的な日本語である東京方言に対抗しうる(散文)詩的な言語として】 リョサ(ペルー)【権力構造の地図と、個人の抵抗と反抗、そしてその敗北を鮮烈なイメージで描いた】 なんか日本文学に対しては、未開の言語に対する期待を込めて、みたいな余白ありけりの授与印象があるな 純粋に文章のみへの評価って考え方も出来るけど 海外文学について話すなら原語で読まないと話になりませんよ 外国の文学ファンも俳句は日本語で読むし シェイクスピアを日本語訳で読んでも意味ないでしょ 2ch文学板の住人でさえ原語で読んでるしね 全国にごまんと居る文学部に通ってた人間もみんな原語で読んでる 何故なら本当は訳したら意味がなくなるから 別に洋書読めても創作には関係ないと思うけど でも、純文学って概念が日本にしか無いって事は分かるはずだと思う 日本訳されて初めて純文学になる 都々逸の文章も、ニヤリとさせられる事が多い 短歌俳句より直接的だからかなぁ ・惚れて通えば 千里も一里 逢えずに帰れば また千里 ・いやな座敷にいる夜の長さ なぜか今宵の短さは ・浮名立ちゃ それも困るが世間の人に 知らせないのも惜しい仲 ・三千世界の 鴉を殺し ぬしと添い寝が してみたい ・あせる気持ちと待たない汽車と ちょっとずれてた安時計 ・けんかしたとき この子をごらん 仲のよいとき出来た子だ 抒情と情景の描写が上手く絡んでると思う。 >>66 単にあんたが日本語で書かれた詩的な文体の作品が純文学だと思い込んでるだけだろ 日本語に訳されたら純文学になるとかアホか >>68 そんな事はないけどなー 純文学って文体はあんま関係ないと思ってるけども 今の日本文学では綿谷とか町田康とかが好きだし オズの魔法使いとユリシーズを原書で読み比べてみなよ 英語にもエンタメと純文の違いが文体レベルであるのがわかるから I love You. 一つにしても、日本語では、 あなたを愛しています。 俺さ、お前のこと愛してるぜ。 愛してんだってば。 僕は君のことを愛してる。 あたい、あんたのこと、愛してるんよ。 とか、ぜんぜんニュアンスが違うだろ。 英語とは比較にならないほど変化に富んでいる。 この一つ一つの文章がかもしだす微妙な情感、情操が英語では訳せない。 だから日本の純文学はスカスカの中身のない文学だと思われ、 世界的には評価が低い。 また日本語自体、論理的な言語ではないという見方もある。 だが、そうだ、日本語は日本人の情や魂と絡み合った言語だ。 西欧の文法論では解釈できない日本語も多々あって、 日本の国語学者のなかには、日本語には西欧の言語のような主語がない という考え方をする人間もいるくらいだ。 相手に対する思いやり、気づかいを働かせることで、 阿吽の呼吸が生まれ、やっと解釈できる文章というものもある。 日本語を真に理解できるものしか、真の日本文学は理解できない。 それだけ日本語は高度な言語。 英語を習えば英語の原書を読み西欧文学は理解できるかもしれない。 しかし、日本語を習っただけでは、日本文学は理解できない。 日本最高! オズの魔法使いが文学的なのかって未だに物議を醸してるだろ なんでそんな半端なのをあげるw それにあれは子供向け文体なだけで、 ハックルベリーとか不思議の国のアリスはそれでも凄い文学的じゃない? 特に後者 >>72 俺が実際英語で読んだエンタメ作品がオズの魔法使いくらいしか無かった >>68 >日本語で書かれた詩的な文体の作品が純文学だ これはあるな。 どう日本語に訳すかで、 優れた文学作品になるかならないか左右されることがあるだろう。 下手な翻訳をすると駄作になる。 幻想文学とかモダニズム文学とか、海外産の文類はいっぱいあるし それ考えると各国独自の文学形態があって、日本生まれの形態が純文学って事もあり得るわな だから日本では純文学の発生量が多い、とか >>72 日本でいえば、八犬伝は文学か?て感じなのかな。 前の自分に打ち勝つとか、精神的成長を描く物語は、文学になるのかも 自分は【はてしない物語】は文学だと思う派 >英語とは比較にならないほど変化に富んでいる 英語だって、方言とかいろいろあるじゃん YESだってイエスってはつきり言う場合とヤーくらいだとニュアンスが違う Iを略す言い方だってとうぜんするし youだってハニーって言ったりいろいろある 他の言語、たとえばフランス語だと香りの言い方とか日本語で比較にならないほどあったりする なんていうか、そういうの無視して、日本語は変化に富んでいるんだって日本マンセーする態度こそが 日本文学の海外での発展の邪魔だと思う >>76 >英語だって、方言とかいろいろあるじゃん >YESだってイエスってはつきり言う場合とヤーくらいだとニュアンスが違う >Iを略す言い方だってとうぜんするし >youだってハニーって言ったりいろいろある 英語にもいろいろあるが、 日本語と比較してみれば明らかに日本語のほうが多いことがわかるだろう。 助詞の変化でも日本語は変わる。 これはペンです。これがペンです。と、たったそれだけでニュアンスが変化する。 またデスマス調に言い換えるだけで日本語はよそおい新たになる。 こういった日本語の細かい変化のせいで、 日本語は自動翻訳が難しい言語とされている。簡単にプログラム化できないのだ。 単純に言葉の言い換えだけの話でないことがわからなければ、 なぜ日本語が優れているかも理解できないだろう。 >>71 >>55 にも書いてるけど I love youを様々に訳す、っていう考え方を持つ事が出来たのも 物語に感情を織り込むっていう、海外産の表現方法を日本人が知った結果なんだよ それまでの日本文学に、キャラクター発の感情表現はない。物語に進める為の感情表現だけ 和歌やら俳句やら浄瑠璃やら、感情を表現する作品や物語はたくさんあったにも関わらず 日本人はそれを文学に融合させる事はしていなかった いや。歌舞伎の世界にあったよ。 顔のわずかな表情だけでいろんなものを表現していたんだ。 言文一致以前の日本文化は、形としては残らないが、 そういったものの世界でちゃんと西洋の文化をしのぐものを創り上げていたんだ。 だからこそ百年ほど前に始まった今の日本文学でも西欧の小説をしのぐほどだ。 西欧人はあまり評価していないが。 たとえば日本には和算というものもあった。 西洋文化を取り入れる過程で日本人の優れた独自の文化は陰に追いやられたが、 日本人が日本人として誇りを持ち、それを認めさえすれば、 その価値がすぐに理解できるようになるよ。 >>78 >I love youを様々に訳す、っていう考え方を持つ事が出来たのも 様々に訳す、ということじゃなくて、様々なニュアンスの違いがあるものを、 たった一つ、I love youという英訳しかできないというところに、 英語という言語の単純さ、つまりは、意味を伝えるだけの言語の限界がある。 それゆえ、そこに日本語の不幸がある。 日本語は意味を伝えるだけの言語ではない。 感情を伝えるのに優れている。 しかしこれはお互いの共通の認識、意思疎通といったものが ちゃんと下地になければならない。 日本人という単一民族という国民性だからこその文化かもしれないな。 英語圏の雑多な他民族国家では不可能といえよう。 言語を越えた、いや、言語を内包する、大きな意志疎通の中で成立する文化だ。 これこそが真の純文学、日本文学の生まれる土壌だ。 英語だって I LOVE YOU.って書くのと i love you って書くのと I Love U って書くの違うじゃん youって呼びかけずにハニーって呼びかけるだけで親愛の気持ちを表せる 俺が英語をよく知らんから上手くいえないけど 明らかに日本語のほうが多い、なーんてことはいえないと思う。 多いものもある、だけど少ないものもあるでしょ、自由とか概念がないものは近年に慌てて作ったものだし 自動翻訳が難しいのは日本語のせいじゃないよ たとえば日本語に近い言語、韓国語となら英語よりも自動翻訳はいい仕事する 英語との差分が大きいってだけで、日本語は自動翻訳が難しい言語なのではない 和算や日本の独自の簿記には限界があって(桁数の表記の問題)とか やはり淘汰の結果だと思うよ 実際に欧米でもローマ数字は衰退してアラビア数字になってるし そういう、日本語は特別っていう国粋主義はどうなの? 世界を日本人化しなければ、日本文学は理解されないのかもしれない。 マンガやアニメで世界中の人間を日本人化し、 そのあとで、日本の作家の出番だ。 世界日本人化計画―― これを進めよう。 思いやりの精神と、謙虚さという美徳をそなえ、 相手を敬い、和の心をもって己の喜び、人生の喜びとなす。 礼節を知り、わずかな所作にも美を見いだす。 これほどの美しい民族はいるだろうか。 ああ、日本人に生まれてきてよかった。 日本人最高! 韓国人がさハングルは優れた言語で、合理的にできてるからすべての音を表せる もし宇宙人が来て地球人に発声できない音が合ってもハングルなら表せる みたいなたわごと言って、自画自賛してるが(文化人ですら言う) それと同じにおいがする。 国内のみで慰めあってる、負け犬の遠吠え >>81 >I LOVE YOU.って書くのと i love you って書くのと I Love U 表記が違うだけじゃん。 そんなの日本語じゃ、ひらがな、漢字、カタカナ、で余裕で上回るよ。 ハニーじゃすでに単語自体が変わっている。そういう話ではないんだ。 あなた、君、お前、おぬし、てめえ、あんた、おめえ、自分(関西限定) 漢字を含めれば、貴方、貴女もある。これらすべて、youだ。 >>83 現実を正しく認識すればいいだけだから。 いつかわかるときが来るよ。 欧米人が世界共通語を英語にしようとしているのが、むかつく。 日本人の中にも欧米人に洗脳されている奴がいるし、 これから少子化で絶対数も減っていくし、 このままだと日本文学より先に日本人自体が絶滅してしまうんじゃないか。 どうする? 日本語ほど文体というものの面白さを表現できる言語はないぞ。まじで。 だーかーらー、それに関してはそうだけど 中東ではらくだの呼び方がいろいろあるように フランスでは香りの言い方がいろいろあるように むらがあって、そのむらの部分に差があるだけだろ それと全部youだって話しだけど、小説でしょ、単語だけピックアップしてもしょうがないでしょ、 英語だとたとえばイギリスっぽい単語混ぜたり、黒人のスラング混ぜたり 南部訛り混ぜたり 別な手段でニュアンスの違いなんか伝えてるよ 人称を表すボキャブラリの差だけ取り出して、 だから日本語は複雑、日本文学は外人に理解できないなんて 能力のない翻訳家のいいわけだと思う、信じちゃだめだよ >>86 じゃおまえ漢語由来の言葉使うのやめて、大和言葉だけでしゃべれ 中国語を取り込んで発展させたように、世界共通語が英語になっても それは日本語の発展でもある つか返り点やレ点をつかえば今でも英語を日本語に取り込む事は可能なんじゃないかな? 英会話の役には立たないけど >>87 >人称を表すボキャブラリの差だけ取り出して、 ボキャブラリの差ではないことがわからないから理解できないんだな。 一旦そういったものから離れて、冷静にじっくり考えてみるといいだろう。 実は日本語における文体の変化もそこにある。 今でこそ差がなくなってきているが、 日本語はその文章から老若男女がわかった。 日本語という言語には、伝達という意味以外の味付けがほどこされている。 それがわからなければ文体の書き分けもできないし、 文体の妙技も楽しめないだろう。当然、情操なんていうものも感じ取れない。 とにかく冷静になれ。冷静になって考えてみよ。 日本語が長い階級制度の下にクラスによって人称の区別ができたのはわかるよ (ある意味、自慢するようなもんじゃなく悲しき歴史だとも思う) でも、それがそうでない言語に比べて情操があるとか優れてるとかは、勘違いだってはなし (そんなこと思ってないならいいけどさ) 別な言語では伝達以外の意味づけはそこじゃないところでやってるんじゃね って意見ね つまり君がやってるのは左ハンドルの車の助手席見て 「うわーこの車、ハンドルねえじゃんw、うちの国の車のハンドル見てよバラエティに富んでるでしょ」 って言ってるようなものじゃないの? 【ポエム禁止!】の批評を見たのが、このスレ立てた発端なんだ 【翻訳しても通じる詩的さ】を取り上げた理由は 原文で使用された表現が翻訳されて、就職に使用された言葉の文化背景が変わっても 読者の感覚に訴えかけ続けるなら、それは感情に訴えかける表現として 素晴らしい出来をしているんじゃないか、っていう考えで言ったに過ぎないので 最近よくある悪い意味でのポエム小説(難解のみが売りの、読者を煙に巻くような表現)が 翻訳されると、読者が感じていたような衝撃は薄れてしまうんじゃないかな?って思ったからなんだけど 表現の為の文体として、詩的要素は重要だけど 作者の心中を書き連ねただけの、詩的表現は 読者置いてけぼりで訳分らなくなるでしょ? ただ、詩的表現をナシにして物語のスジばかり書いたものは ただの物語で、文学ではないし 他国との文体差異を取り上げた理由は 自国優位の差別化を図る為ではないので そっちの方向でエキサイティングしないでね 文体の美しさは各国にあるし、自国文体が美しいと感じる事に 誇りを持つ事は、別に悪い事ではないけど 何故その文体なのか、それがその文章の中で詩的美的として何故成り立つかを考える場所なので いま討論されていた事については、芥川さんが既に充分思い悩んでくれているので それ読んであげて。彼もきっと浮かばれる 【文芸的な、余りに文芸的な】http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/26_15271.html 文学=詩、ってのはまあその通りだと思うけどね 最近になって小説が生まれたけど ほんの百年くらい前までは作家は皆詩人って呼ばれてたしね 今もまだ居るけど >>91 >でも、それがそうでない言語に比べて情操があるとか優れてるとかは、勘違いだってはなし それが勘違いじゃないんだな。 たとえば、一人称の小説を、僕、俺、私、あたし、オイラ……、 どれにするかで作風、文体が変わることはわかるだろう? 日本人ならわかるはずだ。 しかし、外人は、そんなものはどれも同じだ、ただの書き方の問題、 たいしたことない、本質とは関係ない、要は中身だ、という考え、価値観だ。 だから奴らはIだけで十分なんだ。 ボキャブラリーや人称の区別のためだけの、多様な一人称ではなく、 僕でしか醸し出せない雰囲気、 俺でなければ感じさせることのできないそいつの生き方、 そういったものを日本人は微妙に感知して、それを小説に生かしているんだ。 その特異な感覚こそ日本人の文学、純文学だ。外人には絶対に理解できない。 もちろん人称に限ったことではないぞ。 文体は人称だけでは決まってしまうような生易しいものではないからな。 1さんはハンドルネームつけないの? 一句引用するね。小林秀雄訳です。 また見つかった、 何が、 永遠が、 海と溶け合う太陽が >>97 僕、オナニーしちゃった。 俺、オナニーしちゃった。 私、オナニーしちゃった。 あたし、オナニーしちゃった。 オイラ、オナニーしちゃった。 おぉっ、スゲェ本当だ。 おまえ頭いいなw トリップ付けといたー、なんかあったらこれで出現するね 【詩】は作者⇔読者だけど、【小説】は作者⇔主人公←読者の作りなんだよな 物語が進むにつれてキャラクターの考えている事、置かれている状況が複雑になっても 作者は読者に、主人公への共感を持ち続けて貰わないといけない。面白いと感じてもらえないから。 読者からの共感は、文章によって読者の感情を揺さぶる(感情操作)事で得られるから 感情に訴えかける表現・文体=詩的表現、は重要 読者の感情操作が出来るって事は、それはどうあっても詩的表現なんじゃないかなー?って思うんだ。 ただ、作者の心に浮かんだ情景を書き連ねただけの、作者感情的なだけの文体は 読者を煙に巻いて、【難解だからスゴい!】て思わせているだけだから、詩的表現に該当しないんじゃない?って 作家の個性ある文体を持った作家、って最近いるんだろうか エンタメ性で持っている人が多いイメージなんだが >>97 もしかしたら、個人を主張する言葉がIしかなかったから、個人性を出すために、詩的表現を生み出したのかもなぁ >>98 内面描写、状況描写が適当な配分されてると、バランス良く頭に入るな ランボオの文章は、若さが文章に溢れてるよなーって思う。 眼に映る情景すべては自分に何かを訴えている、って思ってる感じが ちなみに自分の好みは、ウホッの相手であるヴェルレーヌの詩だったり(http://poesie.hix05.com/Verlaine/verlaine.html ) なんか受け身なんだよね、この人の表現の方が。だから掘られたのだろうか… よいフレーズを思い付いて物語を書いたら、詩的文体に特化するし シチュエーションを思い付いて物語を書いたら、エンタメ性に特化する いまそんな気がした。 奥泉とポッポの共通性を書いたブログの記事が大幅に更新 記事の途中に新たな共通性を三つ程付けたし http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/book/1284477255/48 このスレにも関係している記事になっている ふっと思い出したけど江國香織って確か詩から出発していたんじゃなかったけ? 文体とか書き出しとかを話題にするなら、石川淳は避けて通れないと思う。 以下「狂風記」の書き出し。 なんといふ木か、途方もなく大きい木が一本、もろに横だふしに、地ひびき打つて……その木はだいぶまへから 日でりにも風雨にもそこに野ざらしになつてゐるやうだから、たつたいま落ちかかつたわけではないが、それでも くろぐろとした幹はうなりを発するまでにすさまじく、あふむけにのけぞつて、大枝も小枝もなく、葉の一つすらなく、 手足をぶつたぎられた巨人の胴体が泥まみれに、ほとんど血まみれに、投げ出されたといふけはひであつた。 >>109 そんな文章は今だとまったく需要無さそうだね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる