明治期に渡欧したインテリが小説を持ち帰って
儒教的な(実はそーでもないんだが)江戸文学を否定し
小説のための自由な小説を作ろうと考えた、これすなわち純文学
だが誰も書けなかった

そこで私小説とか共産主義とか戦争、社会とか
外部の構造をたのむ形式を建ててはやっぱり行き詰まって崩壊
そんなこんなで100年やって小説はただの手段だという
常識的なところに落ち着いてきた、要するに純文学は存在しない
だがそれじゃ収まりがつかないわけだ
文学界も出版業界も困っちゃう

気の利いた作家は欧米の流行を取り入れようとしてるけど
それは国内では中間小説扱いになる
そこでは小説は目的を持った建築物で、『純』じゃないからね

国内の純文はとうぶん「何も建てられない変な建材」を
建材の状態のまま愛でるガラパゴスのままだろう
それならさっさと滅びるべき

これからの時代、文学をやりたいなら語るべきものをもちなされ
書く技術はほどほどでよい