★てか今の小説って、昔の文学と全然違うだろが★
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
今の小説に求められている(売れる)ものは、
そんなクラシックなもんじゃないだろ。
丸山健二も「まだ見ぬ書き手へ」でそんなようなこと言ってる。
正直、今はどんなものが小説なのか、最近わからんちん。
だれかおしえれ。ほれおしえれ。 ラノベは脇に置いておいたとして、
わしは単純に、今は読みやすさが求められていると思っちょる。
難解な表現で「文学」してるものは受け入れられなくなってるような。
活字離れが成せる、時代の流れかのお。どうよ。 おしえれ。
三島や川端や夏目や芥川は、もうクラシックで、
作家志望者の参考にもならん、と言い切れるのかのお。
わしにはわからんのだ。
おしえれ。 当時だって軽い読みものはあって
そして消えたたけやがな
それに仮名遣いをべつにすれば
(あと使わなくなった単語とか)
芥川も夏目もそんなん堅苦しくないし
お話も今あってもおかしくないと思うけど
いしだいら、とか台詞回りとか設定の男女を川端の小説と入れ換えたりして
古典文学好きなスイーツがニヤリとするような仕掛け入れたりしてる
そういう使い方もあるよ もちろん日本人の国語能力の低下はあるだろうけど
50年後100年後ラノベなんかみんな消えて
東野圭吾も赤川次郎も消えて村上春樹あたりだけ残って
未来人は、平成の作家読みずれえな、やれやれとかどういう意味?
とかやってるよ やってねえよバカw
現代人が古典を読みづれえと感じるのは、昔は口語体が統一されてなかったからだろがw
おまえは国語力より国語の歴史を勉強しろ。 >>6
>芥川も夏目もそんなん堅苦しくないし
夏目、芥川らが、今の世の日本人が普通に使っている日本語をつくったといっても過言ではない。
だからこの二人のは堅苦しくない、読みやすいと感じるんだ。で、それに続いた川端や太宰。
これが、たかが小説家が文豪と呼ばれあがめ奉られるゆえん。現代の小説家は文豪にはなれんし、お札に印刷されることもない。 確かに、映画やテレビがなかった明治時代の文豪のレトリックや表現とは、
今の小説は明らかに違うだろうね それよりなにより、昔の小説ってつまんないよ。
ひょっとしてすごいんじゃないかと思って、
しっかり読んで、無理矢理感動しようとしたんだけど、
やっぱりあまり感銘をうけない。
つまんなくてしょうがない。昔の文学。 いや、レトリックとしては同じだ。レトリックは蓄積だからな。
違うのは、映像がなかった時代だから「描写」がもてはやされた。
見たことのないものを読者に想像させるんだから、できるだけ描写が必要とされた。
しかし現代では冗長な描写はむしろ読む気をそぐ。そのへんを注意しないとな。 芸術とは常に前衛でなくてはならない、という強迫観念があって
その〈前衛〉という言葉はもとは戦争用語で〈最前線〉という意味だった。
文芸、文章の芸術は、芸術の一表現だから常に前に進まにゃならん。それこそ前線の切り込み隊長がごとく
部隊(芸術家連中=作家連中)を前進させるために。
その結果、今現代の純文学が不可思議な状態に陥っている。文学は終わったとか言われるのもそのせい。
もうできることは全てやった、今まで起こった芸術運動で取り入れられることは全てやった、だからもうダメなんだって言って
いいやまだゴチャゴチャさせれば何かできるはずだと、妙に頑張ったのがポストモダンな人たち。
過去の文豪は前衛つまり前線に立って戦うために昔日の戦法を心得ておくという意味で十分に参考になる。
それに川端が名前あがっているけど、そこら辺の新感覚派の人たちは案外論ぜられてないところがあるから
まだまだ文学はやれることあると思うけどね。小難しく行くにせよ、正統派としてのリアリズム手法で行くにせよ。 >>4
>おしえれ。
教えてやろう。
文学とは、知的作用や、社会的価値の伴う高次で複雑な感情を、ひとつのストーリーにのせて描き出すことだ。
俺は天才だから、それを意図して描ける。最初から、何かを、もっている。
しかし、多くの凡人作家は、ストーリーを進めていくうちに、偶然、そういった感情やシチュエーションに出くわして、それを創出し、人気を博したり、巨匠扱いされるようになる。
昔の作家は後者だな。ラッキーマンが多い。
しかし、これからの作家は、俺のように天才にならなければならぬ。わかったな? 気に入った作家の文体を学ぶために、
よく、原稿用紙にまるまる書き写すといい、という話を聞くが、
昔の作家を書き写すのはやめといた方がいいかな?
あまりに古すぎるような気がしてさ。 酷評スレのネット軍師はこんなところでフカシてたのかw 昔の小説なんて〜、といって切り捨てるかいやいや読んでおこうとなるかは人それぞれだと思うんだが
海外小説の扱いをすごく迷う。>15の文体模写みたいな、まあ戦前の作家が直哉を写経したみたいなことはせんが
たとえば省力技法、氷山の理論で有名なヘミングウェイなんて、あれはどうすりゃいいんだろうね。
話の筋や展開だけ追ってても面白いもんだが、やはりヘミングウェイっていったら元祖ハードボイルド文体なわけじゃない。
邦訳でしか読めない層はどうすりゃいいのかなって。 >>18
教えてやろう。
文学といっても二通りある。世界基準の「文学」と日本独自の「純文学」だ。
わかりやすく単純に説明すると、世界基準の文学は中身で勝負。純文学は文体の雰囲気が重視される。
で、おまえがこだわっている文体の雰囲気は世界基準でいうとちんまい話になる。
日本語は表現力が豊かだから、文体にこだわることができる。僕や私の主語一つとってもぜんぜんニュアンスやイメージが違うからな。わかるな?
しかし毛唐語には無理だ。日本語ほど非論理的にできていないから感覚的にも扱えない。厳格な文法に縛られる。
要するに、外人は、そんなこまけえことはどうでもいいんだよ、だ。日本人に比べて、な。日本人はその点、繊細すぎるんだな。もちろん外人の中にもこだわる奴はいるが、総じて、だ。
が、しかし、最近の日本人も変わってきた。ゆえに、純文学も流行らなくなってきた。ま、そのうち消えるな。作家が生活できんから。
俳句や短歌のように愛好家同士の趣味の世界に入ることになるだろう。電子出版で生き残れるかどうかだな。
おまえの好きなヘミングウェイは、日本ではケータイ小説やラノベの中に生きている。省略技法だなw ケータイ小説やラノベだと権威がないから馬鹿にされているが。
ま、権威というか、中身か。中身があるかないかで、同じ技法でも、評価に天と地との差ができる。
では、結論だ。日本もこれからは「文学」の時代だ。
そして、「ちゃんと日本語で読めよ、この小説はな。」と言えるくらいのもんを書いて、日本語の読めない毛唐を馬鹿にするくらいビッグになれ。わかったな? こういう馬鹿が偉そうに喋りたくて立てたスレか
しかもオッサン臭いし 世界基準の「文学」っつーのを、もちっと説明してよ。
ドラマツルギーやストーリーテリングを磨く感じ?
侘び寂びの世界などに拘泥した過去の純文学を忘れて、
大きな世界観や人生観を描けばいいのですか? >>23
教えてやろう。
世界基準の文学とは、「何が書いてあるか」、それがすべてだ。
その書いてあるものを読んで、影響を受けなければならない。価値観が少なからず変化しなればならない。魂が揺さぶられなければならない。
俺は天才だが、この天才の魂を揺さぶるものを求めて、本を読みまくっていた。
そうだ、魂のある人間には書物が必要だ。文学が必要不可欠だ。わかるな?
まずは本を読みまくれ。そして己の魂を感じろ。おまえは何に感動したか。何に衝き動かされたか。
それをもって、おまえはようやく己の魂を知ることができる。
魂のもつ人間の書いたものは、どれも素晴らしい。不完全ささえ輝きを放つ。
魂のない人間が技術にこだわる。むろん習得可能な技術はデフォであって否定されるものではない。
では、結論を言おう。「己が書くべきものを知れ!」
要するに、おまえは何を書きたいんだ? それを書いて読者にどういう意識変化をもたらせたいんだ?
それがわかってさえいれば、問題ない。おまえは一人前の作家になれる。 あのお、すいません
あたしは23じゃないんですが、いまいちわかりません
24さんの解説、確かに読んでると興奮させられるんですが、
結局どうすりゃいんだか、困っちゃいます
文学で「何が書いてあるか」を問うた場合に、
日本と世界の違いは何ですか?
己が書くべきものが、どんななら世界に通用するんですか?
すいません馬鹿で 全米がぬいた!
自称天才じじいと文学少女のからみ。 >>26
では教えてやろう。
日本と世界の違いは、日本は着ている服装にこだわっているが、世界は服を着ている人間を見ている。
つまり、日本人はお洋服をほめているんだな。いいお洋服を着ていると雰囲気があって、見ている人間をいい気分にさせてくれる。が、しかし、それだけの話だ。弱い。
何が弱いかは、ま、わかる奴にはわかるだろう。石原御大が純文学の選考委員を辞めた理由もそこにある。
世界に通用するためには、世界が何に衝撃を覚えるか知らなければならない。
しかし、世界に通用させる、などと考えること自体、結局、いいお洋服を着ようとしている行為に過ぎない。わかるな?
世界は、いやこれからの日本人は、お洋服を着ている人間のほうを見るようになる。
おまえは何に感動する? 何に衝撃を覚える? 自分自身に問いかけてみろ。答えはそこにある。
もしそれが自分でも「わからない」のなら、おまえはいままだ経験不足だ。本を読みあされ。
読書を通して人間の心の深淵に入り込み、そこで自分自身と出会い、向き合え。
結論を言おう。
たとえばもし「馬鹿」であることがおまえの魅力であるなら、それを極めろ。それで勝負してみろ。馬鹿の頂点に立ち、それで人々を感動させてみよ。人々の価値観を変えてみせよ。
小説ではないが、天才バカボンという先駆者がいる。 木に上るのは、バカと猿だろ?
卑下してんのかw
>>28
つか主観的な洞察に尽きるだろ。
どう受け取り、感じ、思い、そしてどう行動するか。
人物像が主体となるだけで、そんなご大層なことじゃない。
むしろ、現実にはありふれている事物をいかに伝えるかだけだと思うが? ふむ。可能性を考慮しつつ、ふと「どうでもよくね?」と気付くw 昔の文学は、参考にはなるが
書き写したりはしないな。
だって文体が古臭いだろ。やっぱり。 書き写したりはしないが、一日一時間は耳で聞いてるな、落語とかw
読むのと聞くのとでは情報の入り方が違うし
イメージが形成される場所(意識の)も違っていて面白い × 今の小説って、昔の文学と
○ 今の小説って、昔の文芸と
「文学」の学は、数学の学であり、物理学の学だ。
数を学ぶのが数学、物理を学ぶのが物理学。
すなわち「文を学ぶ」のが「文学」。
わかるか? 小説(だけではないが)という、「文」を題材とし、
それを研究する学問のことを「文学」というんだよ。
昔も今も、「小説」と「文学」はイコールじゃない。
「小説」は研究対象。いわば天文学者にとっての「星」だ。
「ラノベが文学? はあ? 全然違うだろ」とかいうアホも多いが、
同じこと。違ってて当たり前。星と天文学が違うのは当然。
それを言うなら「ラノベと文芸は違うだろ」だ。
「学」という字の存在を忘れてる奴が多すぎる。 円城塔をどう自分の理屈に取り込むかずっと考えてる。
作品は読まないけど。 いや、やっていることは認めるけど、作品は読まないってことでいいか。 円城塔の作品はなぜかむず痒い。嫉妬はまだしていない。 読んだら嫉妬するだろうから読まない。素直に認めることはないだろうと思う。 昔の文学(三島だの太宰だの)は思想が小説の中に入ってた気がする
今の文学はそういうのがないと言うか。ポストモダン文学は意味がわからんまま終わったし 漱石は通俗作家な気がする。
今ならラノベにきっちり対応するだろう。 ラノベはどうか分からんけど今の新聞連載小説くらいなら卒なくこなしそうな気はする >>48
おまえ猫しか読んどらんだろ
草枕や門を読め
夏目漱石は紛うことなく天才文豪だよ >>39
ラノベの定義は?
涼宮ハルヒやとらドラ!をラノベというのか?
ならば、ゴシックはどうだ?
氷菓は?
太宰治の走れメロスはラノベではないのか?
宮沢賢治の銀河鉄道の夜は?
早川書房の一連のSF小説とラノベの違いは?
神林長平が電撃文庫から本を出せばラノベ作家なのか、それとも神林長平はそもそもラノベ作家なのか?
亡国のイージスを書いた福井晴敏はガンダムのノベライズを書いたが、福井晴敏はラノベ作家なのか?
そのガンダムは挿絵やグラビアページがある角川スニーカー版と、挿絵を一切排した角川文庫版の二種類あって内容は全く同じなのだが、角川文庫版もラノベなのか?
ラノベとはそもそもなんだ?
活字で世界を構築していることに違いはないとおもうが、他の小説との違いはなんだ?
フランス書院が美少女文庫というレーベルを出しているが、あれはなんだ? ゴシック
桜庭一樹は直木賞作家
ラノベ作家ではない ラノベは電撃文庫や角川スニーカー文庫などいわゆる「ライトノベルレーベル」から出版された文庫本をいう。
レーベルの特徴としてアニメチックな表紙や挿絵があげられるが、新潮文庫や早川書房などラノベレーベル以外の文庫本が同様のことをやってもラノベとは呼ばれない。
従って太宰治や宮沢賢治はラノベではない。
また直木賞作家の桜庭一樹は富士見というラノベレーベルから出版されたものであり、ラノベと呼ばれる。
桜庭一樹の代表作でもある伏鉄砲娘捕物帖はアニメチックな表紙で書店に並んでいるが、出版レーベルは文藝春秋であるのでラノベではない。 太宰治がラノベか否かなんてどうでもいいが斜陽と美少女はぶひれる 桜庭一樹ってずっと男だとおもてた
ゴシックは読んでみればわかるが文学だ 夏目漱石と西尾維新の違いってなんだよ。
文学としての完成度や作品の善し悪し、ましてや好き嫌いは置いといてな、どちらも言葉だけで世界を構築する小説家であることに違いはないだろう。
挿絵があればラノベ、なんて乱暴な言い方だよ。
「吾輩は猫である」や「ぼっちゃん」に挿絵をつけたらラノベなのか?
それとも「化物語」から挿絵を抜いたら文学なのか?
そんなの全然関係ないだろ。 読み古した草枕の文庫本を枕元に置いておくとオサレだぜ ラノベってのは現状商品であることを最も意識的に望まれてないかな?
商品の中から、世代も時代も超える何かを持っているものが
後世に残っていくんだろうけど、
作品として残っていく何かではなく消耗品を求められる環境に置かれてるような。 >>59
レーベルだよ
電撃文庫、角川スニーカー文庫、富士見書房、ファミ通文庫、講談社ラノベ文庫などの若年層向けレーベルを一般的に「ライトノベルレーベル」と呼ぶ。
例えば、
福井晴敏の「機動戦士ガンダムUC」は角川スニーカー文庫から出版されたものと、角川文庫から出版された二つがある。
スニーカー文庫版のほうはラノベと呼ばれるが、角川文庫から出されたものは普通にSF小説と呼ばれる。
内容は全く同じ。
スニーカー文庫版には巻頭に設定イラストが描かれている違いだけ。 ちょっと待った
ラノベなんかは、全くお話にならないので、
ラノベは問題外として、
今の小説と昔の文学の違いは、
なんだろう? 今は読者の方に迎合しがち、昔は読者がむしろ迎合してくれた、とか >>63
有川浩とか面白いと思うんだが全くお話しになりませんかね ラノベは子供向けのレーベルだといってるだろ。
大人が読む新潮文庫とか文春文庫とアピールの仕方が違うのは当たり前でしょうが。
話になるならないじゃなくてだな、大人が読むもんじゃないんだよ。
せいぜい高校生くらいまでだ。
それ以上の年齢のやつが読んでいたら、そいつはプリキュア見たりドラえもんのしずかちゃんで抜いたりしているキモヲタだ。
子供に読んでもらえるように表紙をアニメ調にしたり、挿絵を増やしたりと、レーベル編集部では涙ぐましい努力をしているんだよ。 太宰治は自分の小説をどんな層に読んで欲しいと考えていたのかな。
走れメロスはやっぱり子供向けに書いたんだよな。すると今でいえばあれはラノベということになるんだろうな。
子供向けのように言われている夏目漱石の我が輩は猫であるは人生の悲哀を描いていて意外と大人向けに書いたのかもしれんね。あの長大な文章量も子供が読み込むには少しきついものがある。 >>67
「走れメロス」は中学のときの国語の教科書に載っていたよ。
「ぼっちゃん」は高校の教科書だ。
つまり太宰はいまでいえばラノベ作家だな。 ま、五十、百年後の教科書にラノベは載らないと思うけどな。
もしも載ってたら日本オワタ、ということで。 ラノベといっても色々あるからなあ
65がいう有川浩あたりは教科書に載ってもよさげな作品はあるよ 子供向けに書いただけでライトノベルって、
このスレのやつとんでもない馬鹿野郎だな
66みたいなやつも的外れ
ラノベを定義づけするのにレーベルなんて関係無いでしょ
お前すっげえ馬鹿だな ライトノベルレーベルという言葉も知らんバカがいるのかw >>72
きみ、ラノベ読んだことある?
ないでしょう。 >>68
太宰治は教科書に乗っている
西尾維新は教科書に乗ってない
それが答えだ 作者買いされる例外中の例外と言えば杉井光
デュラララの作者だっけ確か おれも72とおなじラノベなんて実は読んだことがなかった。
えろっちいアニメ調の表紙で、中身はきっと挿絵だらけ、文章と呼べるものはない。
そういうものだと、なんの根拠もなく信じ、なんの下調べもせず小説とは別物だと思い込んでいた。
ある日、ゴシックというアニメをみた。
割と面白かったので原作を買おうと思い立った。
漫画だと信じて買いに出かけたら、そこにあったのは小説だった。
小説、なんだよ。
でもそれがラノベというものだと理解するのに時間はかからなかった。
ゴシックが並んでいた棚には、他にラノベがたくさん並んでいたからだ。
おれはずっと考え違いをしていた。
ラノベとは小説だったんだ。 要するに、おまいらのレベルじゃ、
読むのも書くのも、
ラノベってことなんだね(^o^)/ まあ、正直いって「格調高い」のその意味を説明出来るほど知らないのは事実だが、誰か教えてくれないか。 >>82
うむ、格調高い小説はそれはズバリ大原まりこ先生の一連の作品群だ。
特に「ハイブリッドチャイルド」と「戦争を演じた神々たち」は至高!
キンドルからも出ているからぜひ読みなさい。 すげーよ、このスレッドに大原まりこが降臨してんのかよwww
いくらなんでも、>>85はモノを知らなさすぎるだろwww >>83
竹宮ゆゆこって電撃作家のわりに文体が昭和の女流作家してて萌えるわ 村上春樹より西尾維新のほうが格調高いのは言うまでもないかな 箱根山日経平均Appleギリシャ神田愛花なでしこ
城市立向陽台小学校評判Y子(兄の友人へ東京電機大学中学校評判千円ふぇらJS )が
現在妹結子JCフェラ3千円兄は嶋崎亮●(TDU万引少年S)
近日その際中の画像も公開3千円フェラJC
ザキシマ結子 父=嶋●慎太郎(近○相姦←結子と)兄(嶋●亮介(東京電機大学中学校評判万引少年)は
小人病を苦に自殺。ザキシマ結子?顔交尾見る?Google検索『稲城市立向陽台小学校評判Y子』 どうせ記憶だろw
ていうか大原まりこって検索したら
記憶の書いた小説がトップの近くに出るのって凄くない?w 昭和のおっさんです(^_^)v
平成ラノベの開祖といわれる谷川流「涼宮ハルヒの憂鬱」を読んでみたら冒頭からキョンくんの独白がとりとめもない洪水のように語られていて驚いた思い出があるわ。
アニメからくるイメージとは違って、否、アニメのイメージはそのままなんだけどそれを上回る語彙の豊富さ、比喩の面白さに引きつけられて、一気に読み終わった。
ああ、これがラノベなのかと、他の小説と違うといえば言えるかもしれん。けれど、これがちゃんと小説なんだよね。
ラノベに対する偏見に怒る人たちの気持ちはわかるよ。知りもしないで知ったかぶりする、それも「おれは、おまえらみたいな低俗なものは読まない高尚な人間なのだ」といわんばかりの上から目線には腹も立つだろう。
結局のところある程度以上の人気作家、例えばこのスレでも名前が出ている西尾維新や竹宮ゆゆこを読んだ人と読んでいない人とでラノベに対する感じ方が違うのだろう。
小説は高尚なものだと信じて疑わないひとは、いやいや小説は娯楽ですよと千回解いても理解しようとする努力をしないのだから仕方ないのですよ。諦めようぜ。 以前と比べても小説はそこまで進歩していない(特に直近の数十年間は)が
夏目漱石~川端康成~太宰治あたりまでの時代は小説も劇的に変化していたと思ふ
──むしろ劇的に変化を推しすすめたから彼等は歴史的にも評価されるのだろう──
しかしここ数十年間はそこまで真新しいものも現れていないのが実情ではないだろうか
強いていえば安部公房や大江健三郎は海外の新しい文学理論も積極的に取りいれていたから革新性はあった 時代が変わっただけ
昔は飲酒運転が合法だった
そんだけ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています