親父、お袋の思い出
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まだ健在だけどいつか来るその日が
怖い。
楽しかった思い出有難う。 大杉漣さんが急死
「ソナチネ」や「HANA―BI」など、北野武監督(71)の映画をはじめ、数多くの作品で存在感を示した俳優の大杉漣(おおすぎ・れん、本名大杉孝=おおすぎ・たかし)さんが21日、急死した。
66歳。
徳島県小松島市出身。
所属事務所が「弊社所属の大杉漣が、2018年2月21日午前3時53分に急性心不全で急逝いたしました」と公式ホームページで発表。
葬儀は本人、家族の意向により親族のみで執り行う。
大杉さんは現在テレビ東京で放送中の連続ドラマ「バイプレーヤーズ〜もしも名脇役がテレ東朝ドラで無人島生活したら〜」(水曜9・54、全5話)に出演中だった。
名バイプレーヤーの突然の悲報に芸能界には衝撃が走った。 業界トップシェアの企業を作り上げて最後の晴れ舞台は園遊会だった親父の栄光は息子ながらすごいとしか言えない
愛人も3人くらいいたのも親父らしかった >>164
いいこと言いますなー 涙
今日、父親の月命日で墓参り
行ってきました へそのゴマ取ったらポンポンが痛い
カーちゃんの言うことは正しい 子供の頃我が家には車はなかったが休日は親父とよく自転車で出かけた
街中から商店街に公園や河辺のサイクリングとすごく楽しかった
平日は近場しか行動できないが休日親父と行くのは知らない場所ばかり
一緒ならどこでも行けるワクワク感で休日が待ち遠しかった
無計画にふらっと駅まで自転車で行き電車を乗り継いで見知らぬ場所に行く時なんかは小旅行の気分だった
街で自転車屋を見つけると空気を入れた
自宅で入れるポンプ式と違いボンベから圧送されるエアーの迫力に目を丸くした
親父はオレの知らぬ間にチェーンに油をさしといてくれたりハンドルの曲がりを直しといてくれたりビスを締め直してくれたり
大半の不具合は親父が直してくれてた
パンクするとバケツに水を張り穴を見付け出しゴムシールみたいなのを張りつけて直してくれた
出先でチェーンが外れて絡まった時には手を真っ黒にして直してくれた
その手をどうするのか心配で見ていると公園の砂場で少量の砂をとり手を揉み水道で洗いニコッと笑う
油落としになると知ってスゲーと思った
やがて大人になり免許をとり我が家にも自家用車がきた
家族を乗せて遠出したのも最初の頃だけでもっぱらデートや友人と海に山にのドライブ
気が付くと親父と行動することもなくなっていた
親父は相変わらず休みになると自転車に乗って出かけていた
洗車をしている横で自転車に油をさし綺麗になったねと微笑み出かけていった
そんな親父もやがて歳を取り自転車に乗れなくなった
それでも支えとして自転車を押して散歩に出掛けていた
しかしとうとうそれも無理になり病院の送り迎えを車でするようになった
車はいいねと助手席の親父が言う
病院の帰り道に子供の頃とは逆にどっか行く?と頷く親父を横目にドライブがてら遠回りして帰ってた
もっと早く色んなとこへ連れてってあければ良かったと思いながら
やがて親父が死んだ
そして車も必要ではなくなった
今はまた子供の時のように自転車に乗っている 曙太郎、生命の危機乗り越えリハビリ 必ずリングに
大相撲の元横綱でプロレスラーの曙太郎(48=王道)が都内の病院で懸命なリハビリを続けている。
昨年4月に急性心不全で入院し、心身不調で生命の危機もあった。
ベッドから起き上がることさえできなかったが、昨年10月からリハビリを開始し、10メートル程度なら自力で車いすを動かせるようになった。
まだまだ長い道のりだが、再びリングに上がることが曙を支えている。 倒れてから、まもなく1年がたとうとしている。
曙はまだ、都内で入院生活を送っている。
助けを借りて車いすに座ると、両手を車輪に置き、病室の10メートルの距離を30秒近くかけてゆっくり移動した。
すぐに息が上がるが、理学療法士2人とクリスティーン麗子夫人(46)、長男コーディー洋一君(17)、次男カーナー大二君(14)が見守る中、力を振り絞って病室の往復を繰り返した。
「リングに上がれないから夜も眠れない。仕事に戻らないと。プロレスに」。 胸に痛みが走ったのは、昨年4月12日の朝だった。
数日前から調子が悪く、プロレス団体DDTの大牟田大会(福岡)に出場した翌日に北九州市内の病院へ向かった。
急性心不全だった。
右脚蜂窩(ほうか)織炎と感染症もあってさらに心臓に負担がかかり、心身の不調が続いた。
一時は意識不明となり家族が覚悟するまで容体が悪化したが、何とか一命を取り留めた。
210キロ前後だった体重は150キロになった。
体調が安定し、10月からリハビリを開始した。
大相撲では横綱まで昇進し、プロレスでは3冠ベルトを巻いた男が、座るどころか、枕から首を上げることさえできなかった。
足や手を動かすことから始め、軽いダンベルを使って筋力をつけ、小さなボールを握って握力をつけた。
1日1時間。
地道な運動を続けた。 車いすは動かせるようになったが、自力で乗り込むことはできない。
少しずつ機能は回復しており「早く家に帰りたい」と言うものの、まだ立つこともできない。
来週にも、大型リハビリ器具の置かれている部屋での新たな訓練に入る。
リハビリの主治医へあいさつ代わりに「曙って知ってるか」と尋ね、戸惑っている相手に「日本を照らす光のことだよ」と言ってニヤリと笑った。
医師との仲が一気に縮まったという。
まずは日常生活をこなせるようになることが目標になるが「ベルト取れるように頑張ります」と言った。 “鉄人”衣笠祥雄氏が大腸がん死去、19日まで仕事
元広島の衣笠祥雄氏が23日に死去したことが分かった。
死因は上行結腸がん(大腸がん)。71歳だった。
2215試合フルイニング出場の記録を持ち「鉄人」として親しまれた。
87年にはプロ野球界2人目となる国民栄誉賞も受賞した。
76年盗塁王、84年打点王、MVP。
通算2677試合、2543安打、504本塁打、1448打点、打率2割7分。
96年野球殿堂入りした。
19日に横浜スタジアムで行われたDeNA−巨人でTBSの解説を務めたのが、公の場に姿を現した最後になった。
体調を気遣い「代わりましょうか?」と関係者から打診されたものの、仕事への強い意欲を示したという。 2千安打の内川、野球を2度やめかけた 支え続けた両親
■自らの骨盤を削り移植手術
野球生命を断たれかねない病を患ったのが、父親の一寛さん(61)が監督だった大分工高時代。
1年秋に左かかとの骨に穴が開き、液体がたまる「骨嚢腫(こつのうしゅ)」になり、
自らの骨盤の骨を削って移植するなど手術を3度も行った。
一時は寝たきり状態になったことも。
3カ月もの入院で、一寛さんすら「(退院後も)動けるようになる保証もないし、再発するかもしれない。違う人生を歩ませた方が、とも考えた」と弱気になっていた。
ただ本人は、不屈の精神でリハビリに励んでいたという。
内川は「今苦しくても体が良くなればまた野球ができる。できる時に一生懸命やろう」と逆境をプラスにとらえ、高校2年春ごろに選手として復帰。
“親子鷹(おやこだか)”で目指した甲子園出場こそならなかったが、苦しい時期を共に歩み乗り越えた。 ■プロ入り後、イップスに悩む
2度目の危機は、母・和美さん(61)に救われた。
横浜(現DeNA)時代、思ったようにボールを投げられない「イップス」や、
首の神経障害など故障も重なり、選手として伸び悩んだ。
8年目の2008年1月初旬。
オフを過ごす大分市の実家で、和美さんに「今年だめだったら野球をやめる」と、言い放った。
すると、和美さんは優しく諭した。
「やり残したことがなければやめなさい。なにも恥ずかしいことはないんだから」。
これで肩の荷がおりて開き直った。
背水の覚悟でシーズンに臨み、右打者史上最高打率3割7分8厘を残して初の首位打者、最多安打などのタイトルをとった。 両親に支えられ、たどり着いた2千の数字。
現在は大分・情報科学高野球部副部長の一寛さんはスタンドで観戦し、
足踏みはしたものの大台達成を見守った。
「聖一らしい安打で原点に戻れたんじゃないかな。苦労したかいがあった。おめでとう」。 外航船に乗ってた父親は俺が子供の頃は年に数日しか家にいなかった
たまに家にいると怖いオジサンのようで緊張しまくりだった
船を降りてからも一人遠くで定年過ぎまで働いてからようやく戻ってきた
その頃には俺は学生で家を出て一人暮らし
そんな父親も1月に他界。まともに話した記憶が無い
普通の家庭で父親から教えて貰うような事を教わってない 産みの母親は俺を産んで少しして離婚
そりゃそうだよな、親父=旦那がほとんど家にいないんだからさ
名前を知ったのは俺が30になる頃
顔は親父が亡くなって遺品を整理した1月に写真を見つけて初めて知った
その時、知らなければ良かった事もあれこれ知ってしまって今本当に苦しい 世話になった。迷惑も掛けた。でもアンタらの事なんて知ったこっちゃ無え!
アンタらも自分の両親どうしたよ? って言えたらどれだけラクなんだろう… 35の時点でどっちも居なくなった
ある意味子孝行だったな
要らない迷惑はいっぱい掛けられたけども 父が亡くなって四年が経った。
兄や母は父のことをよく言わないが、俺からしたら、とても良い父親だった。
自分一人で会社を興し年収数億まで大きくするもバブル崩壊と共に倒産。
それでも希望を捨てずに生きた父は、思い出すと、とても偉大だ。 父は子供の時から神童で、一流大学を出てトップエリートとして
やってきたが、俺は会社人間の父を見て辟易してしまったので
フツーの大学を出て、平民としてを気楽な人生を歩んでいる。
そんな父が先日、遺言を何も残さずいきなり亡くなってしまった。
なぜ、父が努力で培った文化資本を継いでやれなかったのかと
今更ながら後悔の念に駆られてる。 父親が亡くなって今年で17年になる。
小中高と家族と行動したくなくて散々、反発したな…最後には折れてくれたけど、自分なりの自立を見せたつもりだった。 うちの父は釣りと旅行と山登りと写真が趣味でね。子供の頃、よく近所の川に釣りに連れていかれた。芋を練った餌は魚にあまり好まれず、たまにウグイがかかるだけ。正直、つまらないと思ってた。
車を買ってからは山に家族旅行に毎年行ってた。一眼レフのカメラで嬉しそうに家族を撮影してたけど、照れもあって写真を撮られるのは好きじゃなかった。
インドア派だった自分は山登りが嫌で文句ばかり言ってた。
思春期になった頃には家族旅行自体断るようになってた。
父は退職して間もなく病気になって、旅行も釣りもできなくなった。
細くなった腕ではカメラを持つこともできない。
何十年も続けていた庭仕事もできず、
今では家より入院生活に慣れてしまったみたいだ。
酸素チューブを入れ痩せ細った父を見てつくづく思う。
なんで子供の頃の自分は父との時間を大切にできなかったんだ。
どうしてもっと元気なうちに孝行しなかったんだ。
俺は馬鹿だ。 あっさり絶縁された俺からすると
美談が多いな
イイことだ なんで絶縁されたんだよ
余程のことだろうがさ
親は何故縁を切ったのか
自分に非があるなら改心して誠心誠意謝るべきだな
生きているうちに
どっちが死んでも謝れない
それが生き方を変えるチャンスでもある
人生諦めたら終わり 私の母は昔から体が弱くて、それが理由かは知らないが、母の作る弁当はお世辞にも華やかとは言えない質素で見映えの悪い物ばかりだった。
友達に見られるのが恥ずかしくて、毎日食堂に行き、お弁当はゴミ箱に捨てていた。
ある朝母が「今日は〇〇の大好きな海老入れといたよ」と私に言ってきた。
私は生返事でそのまま高校に行き、こっそり中身を確認した。すると確かに海老は入っていたが殻剥きもめちゃくちゃだし彩りも悪いし、とてもたべられなかった。
家に帰ると母は私に「今日のお弁当美味しかった?」としつこく訪ねてきた。
私はその時イライラしていたし、いつもの母の弁当に対する鬱憤も溜まっていたので「うるさいな!あんな汚い弁当捨てたよ!もう作らなくていいから」とついきつくいってしまった。
母は悲しそうに「気付かなくてごめんね…」と言いそれから弁当を作らなくなった。
それから半年後、母は死んだ。私の知らない病気だった。母の遺品を整理していたら、日記がでてきた。中を見ると弁当のことばかり書いていた。
「手の震えが止まらず上手く卵が焼けない」
日記はあの日で終わっていた。
「今日は〇〇の好きな海老を入れた。相変わらず体が思うように動かなくてぐちゃぐちゃになったけど…喜んでくれると良いな」
何で食べてあげなかったのだろう…今でも後悔と情けなさで涙が止まらない。 パート先で「〜さんは負けず嫌いだから」って言われたからってやめてきたとか言ってた。家でもいつも怒って夫婦喧嘩してた。 アスペの父親、アスペADHD併発の母親、蠱毒のようだった この9月に亡くなった。覚悟はしてたから実感が湧かない。でも、ジワジワと来るんだろうなぁ。親父、良く頑張ったよ。 親父の財布はいつもパンパンに膨らんでて、中身を数えるのが好きだった
高校の時に流行りのコンポを大型家電量販店におやじと買いに行き、店員に
「ご予算は?」と聞かれ「いくらでも」と答えたり、「お前には学生のうちからいろんな経験をさせおきたい」と言ってて
大量の本を惜しみなく買ってくれたり、大学時代は夏・冬休みに海外の親父の知り合いの家に預けてくれてそこの親父さんに観光に連れてもらってた
親父は今や80を超えて長男が後継者になり、悠々自適に散歩をしたり本を読んでいる
業界の会合にはいまだにご意見番として参加している
親父の葬式のときは恥ずかしくない三男として務めを果たすのが当面の緊張する晴れ舞台だ 俺の親父は、5年ほど前に末期の糖尿で亡くなった。
放漫経営で会社は潰すわ、母親は不幸にするわ、元極道者のどうしようもない親父だった。
生前から、親子の縁は切れたも同然だったし、葬式もしなかったよ。
なにしろ、しんだとき一銭も残さんかったからね。
後は、今年で喜寿になる母親をできる限り大事にするだけだよ。 イギリス人のお父様はロンドンに住むウィンザーズ家の親戚で投資家だった。僕も23までロンドンで育って今は日本の大阪に住んで商売をしている。
母は日本人で離婚を機に母と大阪に来た。
ハーフで金髪なので日本に来てから日本人女性を食いまくってもう女は飽きて商売で儲けることだけが楽しみな高所得独身貴族。
英国紳士のお父様はいつもスーツで事務所で市場の動きを見てて、息抜きに紅茶とスコーンでくつろいでた。
僕も投資の手解きを親父から学んで、今も利益を出せている。
親父はジュードロウに似てた記憶だだ。 じゃあリアルなこと書いてやろか?
俺の親父は俺が中学の時に家で首吊って自殺した
これがリアル リアルなこと書くなら、子供のころ毒親の親父に虐待されてた いや、男。それで友人もできない人を好きになることもできない欠陥人間になった うちの両親は検査受けたら間違いなくアスペルガーの診断受けるだろうという典型的な発達障害
20年以上前はほとんどの人がそんな知識ないし、親戚中には俺がおかしいと言い触らされて家庭でも変なこだわりを押し付けられて本当に苦しかった
こだわりに従わないと真冬でも部屋着のまま外に閉め出されるのは普通だった
アスペルガーが強く遺伝した兄弟は今も親と住んでいるらしいが、俺はもう両親とは10年連絡取っていないし転居先も知らせていない 文章見る限りだと
自分が発達障害に見えるが違うのか? 文章自体は読んでるぞ
じゃあなんでお前だけは家を出ていけたんだと思う?
(事実ならの話だが) ハゲのこどおじが俺は発達障害じゃない!と子供部屋から発狂中 なんだよ発達障害って、皆ある意味発達できてない部分はあるだろうに
じゃあリアルストーリーの続き
親父の首吊り死体を一番初めに見つけたのは俺なんだけど
「悲しみ」というより「終わったな」と思った
それが親父の死の生物の「終わり」じゃなくまず一番に
俺がやってきたことが終わったって感覚になった。全てにおいてね 夜空に浮かぶ 星に打ち明けよう
この世を去って行く 人々の愛情を
ある時は憎しみで 意識して遠ざける
狂い始めている 歯車に絡みつき
お父ちゃん、ありがとな 誰の言葉で喋ってんだよ
自分の言葉で喋れや、クソ野郎
自分の言葉すら持たないのか?いや、持てないのか
しょうもない奴だなあ >>201
実話として捉えると切ない話だな
けど優しい母親だね
心配かけたくないのと残された少ない時間に自分でなく子供に何かしてあげたいと
その血が流れているから後悔と言うか相手を思いやれる気持ちが湧いてくるのだろう コピペだから嘘ってことはないだろ
真実の話を最初に投稿した奴がいるわけだろ >>233
それをコピペしたやつ>>201の実体験じゃないだろって話だぞ
それぐらい分かれよ うむ
すまない
俺のせいだ
信じてレスなんかしたから 親父の兄弟は皆優秀で、SONY、日立製作所などで活躍し定年した後は悠々自適に趣味に生きている
兄弟の中で一番できの悪いといわれてきたうちの親父が結果的に親類で一番成功した。
郷里の寺の修繕費を住職にお願いされ全額負担した
技術者も親父の会社から海外に送り、その前の査察なのでアジアのほとんどの国に赴き業界では様々な協会の役員にもなり
10年前に天皇陛下から受勲もされた
「お前の親父さんて一代目なんだろ、そこがすげーよ」と大学時代の友人に言われた
そいつの親父さんが多角経営や投資もしてる大地主でいまだにそいつとプラべでも会員制クラブでもつるんでる
奴も俺も本妻がありながら愛人を数人囲っている 親父も叔父も優秀で寺に寄附したり退職後も余裕な暮らし
自分は地主の息子と連んで愛人数人囲ってやりまくり
羨ましいだろ? 別に。40代にもなってやりまくりなんて書くやつって・・・
10代20代でやりまくっとけよ童貞 俺の親父は遊び人でいつもフラフラしてるような人だった
商売はお袋任せで家事に育児にといつも忙しそうにしていた
親父は子煩悩でもあったから日中はよく遊んでくれたが酒飲みで夕方から深夜まではいつもいなかった
○さんいる?とよく店に色んな人が訪ねてきてたが子供の俺にはどうゆう関係なのかはわからなかい
そして中学の終わりに親父は突然倒れて死んでしまった
通夜葬儀は店を片付けて自宅でやったが近所の女性陣が手伝いに来てくれて料理を沢山作ってくれた
男性陣も段取りやら準備やら仕切ってくれて俺はただ見てるだけだった
おまえは親父の傍にいてやれと線香当番しながら何か俯瞰したように回りの大人たちを眺めていた
通夜が始まる前の夕方にはもう人が集まりだして酒盛りみたいな感じになっていた
次から次へと人が増え坊さんが供をあげる頃には店の前が人集りのようになっていた
相変わらず女性陣は台所と勝手口をせわしなく動き回り料理を作っていた
どこから持ってきたのか外には椅子やテーブルが次から次へと並び酒と料理が運ばれていく
子ども心に通りすがりの人まで飲み食いしてるんじゃないかと気をもんでいたがどうも知り合いらしい
通りがオープンカフェのようになってしまいパトカーが表れた
大変なことになってきたなと心配していると世話役のおじさんが警察官に何やら指示している
そして2〜3人のお巡りさんが交通整理をしてくれていた
それは朝まで続いた
そう宴会は明け方まで続いたのだった
せして告別式の朝になり坊さんが供をあげながら焼き場に出る出棺の時にはザッと千人単位の人々が見送る何か異様な光景となっていた
焼き場からお骨を持ち帰り家に戻るとすっかり片づけられた店の祭壇前に留守番の数人が陣取り談笑していた
世話役のおじさんがはいこれ香典と芳名帳ねとお袋に指差していた
おれはそのデパートの紙袋の山を見てこれ全部そうなのかと驚いた
何十袋もあるデパートの紙袋の中は全部香典だったからだ
世話役のひとりがじゃあこれでと帰りに際に言った
おまえの親父さんはこう言う人だったんだぞとこれだけ別れを悲しんだ人が集まったんだと俺に言った
他のおじさん達も如何に親父に世話になったかと話してくれた
俺もだ俺もあんな事があった助けられたと回りの大人たちが揃って言った
そしてその晩お袋に手伝ってと言われ香典袋から現金をだす作業でまた驚いた
3万5万10万と大半の袋に大金が入っていたからだ
中にはお世話になりましたと一筆箋が書かれていたり悲しい気持ちや関係性が書かれたものがあった
へーっと読みながら集まった金の束をお袋が輪ゴムで束ねるのを見てまたびっくりした
いちにいさんしとレンガのように置かれた束がそこにあった
百万を10コ束ねたものが何個もできあがる
お袋に何これどうなってんの?と聞くとこれがお父さんの人柄ってことかなあと
意味がよくわからなかったがそれから会う人会う人に親父のことを聞かされ理解していくことになった
おかげで我が家は路頭に迷うこともなく兄弟はみんな大学まで行けたし相変わらず商売も忙しく親父だけがいない日々が過ぎていった
今は俺の嫁が店を切り盛りし俺は親父のようにフラフラと街を彷徨っている
同じことをしながら ちょろっと書き込みあったから久しぶりに見たけど
>>224の続き書こうか?
こういうのを経験した人って結構少ないような気もするしね じゃあ続き書くよ
見つけた瞬間>>224な気持ちになってずっとぼーっと
親父の死体を見てた。けど報告は必要だと思い
母親に報告したんだが親父の死体を見た瞬間に
「これは首吊りじゃなくて病死にってことにしましょう」と言われた 死体を見て第一声がそれか?と思ったが
俺もこのままの状態で放置はできないと思い
とりあえず下ろすことを考えたが方法が分からない
「救急車呼ぼう」って母に言ったが
「病気で死んだことにするのよ!布団に運ぶのよ!!」
って言い出して聞かなかった そして親父の書斎にあったハサミを取り出して母が紐を切り出した
もちろんそんな物で切れる訳が無い。そしたら母が
「〇〇!(私の名前)台所から包丁持ってきなさい!」って大声で怒鳴られた
この人は一体何がしたいんだろうっていう虚無感に襲われた 色んな体液と汚物が出てる親父という屍を見つつ
台所に包丁を取りに行ったんだが
その包丁を持った瞬間にこれで母を殺すのも
一つの選択肢なんじゃないかと思った 包丁を持って部屋に戻ったんだが
必死にハサミを動かしてる母を見た瞬間に
この人イカれてると思った。このまま母を殺すことも
可能だったが、変に冷静になってこの先のことをまず考えた この先の事とは「このままここに住めるのか?」→無理だろうな
「学校は転校しないといけないのか」→転校だよな
「今の野球のクラブも退団しなきゃいけないのか・・」→退団するしかないな
そんなことを考えながら母親に包丁を渡した 包丁を渡したら母は狂ったように紐を切り出した
だが切れない。俺が親父の体を下で支えてたが切れなかった
そこから何を思ったのか母が首回りの部分の紐を包丁で切り出した
「何やってんだよ!傷つけるのかよ!」って言って母から包丁を奪った 書斎のテーブルを引っ張ってきてそこに親父の足を乗せた
「足を押さえといてよ」って母に言って俺が
紐の上の部分を包丁で切った。ドスンという音と主に床に転がった
もう死後硬直が始まっていたたので親父の体は棒のようになっていた 親父の書斎は中2階にあったので普段ソファーで寝てることもあった
だから母に「ここに寝かせたらいいのか?」と聞いたら
「違う。下の寝室に寝かせる」って言い出した
そこから親父の遺体大移動が始まる まだ両親生きてるけど親父はパーキンソン検査中、お袋は長いことガン闘病。
いまは少しずつ弱っていく姿をふとした瞬間に思う日々です。 お父さまの遺体を運ぶことになろうとは‥意外な展開で続きが気になります‥。 親父の首から紐を外しゴミ箱に入れた
(これが後で問題になるのだが・・・)
母に「じゃあ1階に運ぶわよ」と言われ親父というか屍を持ったのだが
「人間ってこんなに重いのか・・おんぶや抱っこは
持たれる側の協力があるから成立するんだな」って変に冷静になってる自分がいた 俺が上半身を持って母が下半身を持って階段を降り始めたんだが
あまりの重さにこれは2人じゃ持って下ろすのは無理だと感じた
だから「ここに毛布をひいて滑らせろう」って俺が提案したら
珍しく母が賛同し毛布を持ってきて階段を滑らせた もちろんスムーズにできる訳もなく
何度も親父は頭や背中や腰は階段にぶつけてたと思う
だがなんとか1階にはおろせた。寝室自体は近いので
そのまま毛布に乗せてフローリングを滑らせて運んだ 屍をベッドに乗せるのは二人でなんとかできたが、次は母が
「体を拭いて服を着替えさせましょう」って言い出した
親父の遺体ははカッターシャツとスラックスだったし
「上半身の着替えは無理だろ。もう固まってるし」って言ったら
母は納得したようだった 結局着替えは諦めて上から布団をかけた
初めは興奮?してた母だったがこのくらいから
顔がどんどん青ざめてきてほとんど話さなくなった。ぽそっと
「〇〇(私の名前)。救急車呼んで・・・」と言われ電話した >>264
何で最初からそうしなかったのか
不審死で警察が現場検証を行うのは確実だから、下手な偽装工作は犯罪を疑われるだけなのに
首吊りでは恥ずかしくて親戚や町内に顔向けが出来ないという思いがあったのかもしれないが >>265
それはそうなんだけどね
こっからまた色々あったんだよ。こっからの方があったかもね
今はちょっと疲れてるんでまた後で続き書くよ 電話をして15分ぐらいで救急車がきた
子供心に「そんなの首に跡がついてるに・・・病死って」
もちろん救急隊員は見たら一瞬で分かる。見た瞬間にどこかに連絡した
そして15分ぐらい経ったら警察が来た そりゃそうだよなそうなる
で警察が来れば特定するためにも各部屋を調べる
片付けたとしても糞尿の形跡は見つかるだろう
遺体からも
首に跡だけでもあれだが鬱血や皮下出血とか検死すれば更に確定的になる
で何故偽装したのかとなるがたいした理由がない
自殺だと保険金がでないと言うが確か何年か経ってれば出るはずだし
するとやはり体面的な何かを気にしたのかどうか
不思議だ >>268
そうだね。そうなったよ。では続き
警察は死体を確認したら家を調べ始めた
母は憔悴しきってた(後で思えばふりをしてた?)だったので
事情聴取にも俺が答えることになる。今じゃ中学生に
そこまで聞かないだろうが当時は何でも聞いてきた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています