上記のソクラテスの言葉において、金銭や身体への気遣いに比べて、魂への気遣いの方を重視してそれを優先すべきであるということが語られているからといって、
それは、もちろん、経済面や身体面への配慮をおろそかにしてもいいということを意味しているわけではありません。
身体が不調となり、健康を害して病気になってしまえば、魂を気遣うための思考活動にも支障をきたしてしまいますし、
病状が悪化して重病となれば、最終的には、善く生きるための前提となる命自体が失われてしまうことになります。

それはちょうど、ソクラテス自身の人生が、晩年は経済的にも困窮した状態にあり、
最後には、無実の罪によって死刑判決を下されることになりながらも、その判決から逃れるために自らの考えを曲げることもなく、
理不尽な死刑判決を受け入れ毒杯を煽り死んだ。
その間際、ソクラテスは『悪法もまた法である。』という旨の発言をしたのだ。

最期まで、自分の考えと生き方を貫き通した人生であり、
そうした知の愛求と善く生きることを探究し続ける姿勢を貫き続けたソクラテスの生き方と死に様自体が、
ソクラテス自身の魂の善さと気高さを明確に表しているのと同じ関係にあると考えられることになります。