【ライダース】街着 レザースタイル 75【ブルゾン】
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レザースタイルに合うファッションを語るスレです
「【このスレのルール】
・ハイブランド禁止
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【ライダース】街着 レザースタイル 74【ブルゾン】
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/fashion/1516771223/
VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvvv:1000:512:----: EXT was configured シャーリプトラよ、このようにすべては実体ではなく、生まれることも、なくなることもありません。 汚れているとか、清らかであるということもありません。迷いが減ったり、福徳が増えたりすることもありません。 このような実体はないのだという高い認識の境地からすれば、体も感覚もイメージも連想も思考もありません。 目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心もなく、色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も様々な心の思いもありません。 (つまり、お釈迦様が説かれた「十二処」は小乗仏教が言うような実体ではありません。) 迷いの最初の原因である認識の間違いもなければ、それがなくなることもありません 同様に迷いの最後の結果である老いも死もないし、老いや死がなくなることもありません。 (つまり、お釈迦様が説かれた「十二縁起」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではなく生まれたりなくなったりしません。) 苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません。 (つまり、お釈迦様が説かれた「四諦」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではありません。) このような境地ですから、菩薩様達は“智慧の完成”によって、心に妨げがありません。 誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に開放された境地にいらっしゃいます。 過去・現在・未来のすべての仏様も、この“智慧の完成”によって、この上なく完全に目覚められたのです。 “智慧の完成”は大いなる真言、大いなる悟りの、最高の、他に比べるものもない真言であり、すべての苦しみを取り除き(取り除く真言であり)、偽りがないので確実に効果があります。 「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」 (智慧よ、智慧よ、完全なる智慧よ、完成された完全なる智慧よ、悟りよ、幸あれ。) シャーリプトラよ、深淵な、“智慧の完成”の修行をするには、以上のように学ぶべきなのです。」 この時、お釈迦様は瞑想を終えられて、「その通りです」と、喜んで観音様をお褒めになられました。 そして、シャーリプトラや観音様やその場にいた一同をはじめ、世界のすべての者達はお釈迦様の言葉に喜びました。 イェーイ!!!!!
ファ板勢い一位ゲットオオオオオオオオオオオオ!!!!! >>4のルールを破る奴ばっかだからな!
もう一度書き込もう! ここはずっと>>4のルールで運用されてますのでルールを守れない人は消えて下さーい イライラしている奴らのために為になる話をしてやろう! 『般若心経』は正しくは『般若波羅蜜多心(プラジュニャーパーラミターフリダヤ)経』と言いますが、インドのサンスクリット語の原典にはタイトルはなく、中国で、結びの言葉に「経」を付加してタイトルにしたのです。 「般若波羅蜜多」について説く経典は多数あって、それらを総称して般若経典と呼びます。般若経典は紀元前後から作られ始め、12世紀頃まで作られました
『般若心経』はその中の一つで、般若経典の神髄を短くまとめたとする経典です 『般若心経』がいつどこで書かれたかははっきりしませんが、インドで観音信仰が広がり、仏教が密教化していった5-6世紀頃ではないかと推測されています。
4-5世紀に生きた鳩摩羅什によるとされる漢訳本があるため、もっと早く成立していたと思われていましたが、最近の研究では羅什訳は後の時代の偽作の可能性が強く、『般若心経』の成立が確実に確認できるのは7世紀初頭頃になってからです。 『般若心経』には、玄奘訳のように観音菩薩の説法に当たる本文だけからなる「小本」と、本文の前後に物語の基本的な設定に当たる序文やエピローグを含んだ「大本」の2つの系列があります。
上の和訳では「大本」だけにある部分は青字で大筋を訳しました。この部分がないと、お釈迦様も登場せず「仏説」としての根拠がないので経典として成立しません。
歴史的には、最初に般若経典から神髄だけを抽出した「小本」が作られて、後に経典として体裁の整った「大本」が 作られたようです。 「般若波羅蜜多(プラジュニャーパーラミター)」は「智慧の完成」、「完全なる智慧」という意味です。
「プラジュニャー(パンニャー)パーラミター」を「般若波羅蜜多」と音訳しているのは、これが固有名詞と考えるべき特別な智慧だからです。
大乗仏教では修めるべき六つの修行・徳目を「六波羅蜜多」と言い ますが、その中の最後の最も重要なものが「般若波羅蜜多」です。
「心」と訳されている「フリダヤ」は、直訳すると「心臓」ですが「神髄」という意味で使われます。つまり「般若心経」とは、「般若波羅蜜多の神髄」であると共に「般若経典の神髄」という意味です。 「フリダヤ」は「真言」という意味でも使われるので、「般若波羅蜜多の真言」という意味だと解釈する説もありますが、結局はどちらでも同じです。
なぜなら、『般若心経』の中に「般若波羅蜜多は大いなる真言である」と書いてあり、『般若心経』の主張は「般若波羅蜜多の神髄は真言である」ということだからです。 『般若心経』は「般若波羅蜜多」の修行方法を説いており、文章の流れからして、明らかに真言を伝授することを核心としています。 お釈迦様の生きておられた当時の多くのインドの宗教・思想では、禁欲・苦行や無念無想の瞑想を行って欲望や執着を制御することで解脱ができると考えていたのですが、
お釈迦様は、あるがままを観察する瞑想で得られる智慧によって、欲望や執着の原因を理解してそれをなくすことで解脱ができると考えました 仏教では何かに集中し、一体化して心を静める瞑想を「止(シャマタ、サマタ)」、何かを観察し、分析する瞑想を「観(ヴィパッシュャナー、ヴィパッサナー)」と呼びます。
「六波羅蜜多」の5番目の「禅波羅蜜多」が「止」に、6番目の「般若波羅蜜多」が「観」に相当します。 『般若心経』は観自在菩薩が智慧第一の長老シャーリプトラに説法するという設定になっています。
観自在菩薩はその名前が示している通り、「観」の瞑想に秀でているとも解釈できる大乗仏教の菩薩で、一方シャーリプトラは小乗仏教の智慧を象徴すると考えられる人物です。 仏教の経典類は「三蔵」と呼ばれる「経」「律」「論」に分類されます
原則としてお釈迦様の説法を記録した「経」に対して、お釈迦様の教えを解釈し、体系化したものが「論」です。小乗仏教の各宗派はそれぞれに「論」を作りましたが、シャーリプトラがお釈迦様の教えを解釈してまとめたことが、「論」の始ま りとも言われています。 「観」の瞑想では、どのように集中するかということと、どうような教説に即して観察・分析し智慧を得るかということが問題になります。
以下にこの2つを説明しましょう。 『般若心経』が「般若波羅蜜多」の修行で得られる智慧として説いているのは、大乗仏教の「空」の智慧です。
つまり、「般若波羅蜜多」の智慧は「空」を理解する智慧であり、瞑想修行の中ですべてを「空」であると洞察するのです。 『般若心経』が次々と数え上げながら、「空」である、「無い」と否定してい るのは、「五蘊」、「十二処」、「十二縁起」、「四諦」など、お釈迦様が説かれたとされる仏教の中心的な教説、教説で使われる基本的な概念で、「法(ダルマ)」と呼ばれるものです。 小乗仏教(部派仏教)はお経を解釈しながら、世の中のあらゆるものを細かく分析して、真に存在するものを「法」としました。
そして、観の瞑想によって「法」を見極め、我々が一般に存在していると思っているものは観念でしかなく、しかも、真に存在しているこの世の「法」(有為法・行)は無常なもので、
し たがって執着することは苦であり、どこにも私はないのだという智慧を得て、煩悩をなくすことで悟りが得られるとしました。
そして、「法」は、悟りと関係し た清いものであったり、煩悩と関係した汚れたものであったり、また、生じてはすぐに滅するものだなどと考えました。
これら小乗仏教の思想は「アビダルマ論」と呼ばれます。 しかし、大乗仏教は、小乗仏教が「法」を大切にし過ぎるあまり、これらを実体のように考えていると批判しました。
(当時、大乗仏教が批判の対象にしていたのは、小乗仏教の中でも主に「説一切有部」と呼ばれる部派であり、その後、東南アジアで主流となっている「上座部」とは違います。)
『般若心経』は、小乗仏教の「アビダルマ論」を知っている人を対象にして、「法」も含めてすべてのものは「空」であって、
もともと真実に存在しているもの ではないのだから、生まれることも、滅することも、汚れているということも、清らかであるということもないのだと、一つ一つ批判しているのです 『般若心経』は決して「五蘊」、「十二処」、「十二縁起」、「四諦」などの仏教の基本的な教説を否定しているのではなく、これら「法」を実体視することを否定しているのです。
そして、この「空」を洞察する智慧によってこそ悟りに至ると説いています。 一連の「空」の説法の中でも最も重要なのは、大本が最初に観自在菩薩が見極めた内容だと語る「五蘊」の「空」です。
玄奘訳では「五蘊は空である」と訳されていますが、サンスクリット原典では「五蘊があり、それが空である」と書かれています。
つまり、お釈迦様が悟られた五蘊説をまず認め、次にそれを実体と 見ることを否定しています。
五蘊説は「無我」を説く仏教の基本的な教義で、これを理解することが『般若心経』を理解する基本になりますので、長い付加的な説明をつけて訳しました。
五蘊の無常を瞑想する修行法は「五蘊観」と呼ばれ、古来、これだけで悟りに至れるとされてきました。 「色」は一般に「形あるもの」とか「物質」と訳されることが多いですが、自我への執着をなくすために説かれた本来の「五蘊説」の文脈では「体」ですので、ここでは「体」と訳しました。
ちなみに「蘊」は「集合体」の意味で、実体ではないということですが、5つ集まっているから集合体なのではなく、五蘊の それぞれが集合体でどれも実体ではないという意味です。 また、玄奘訳に「色不異空 空不異色/色即是空 空即是色」という有名な一節がありますが、サンスクリット語の大本などにはこの前に「色性是空 空性是色」などと訳される部分があって、三段階の説明となりました。
経文を直訳すると下記のようになります。
(1)
(A)色は空性であり
(B) 空性こそ色である
(2)
(A)色は空性と別ではなく
(B) 空性は色と別でない
(3)
(A)色なら空性であり
(B) 空性なら色である 似た文が6つ並んでいます。『般若心経』は読経や瞑想修行を目的として、リズムや繰り返しを重視して書かれているので、それぞれの文の違いにはあまり意味がないかもしれません。 (1)、(2)、(3)は表現は違いますが、論理的には意味はほぼ同じです。ただ、(A)と(B)については、インド仏教の伝統では下記のように大きな意味の違いがあると解釈されてきました。 (A)は言葉によって実体に執着することを否定する智慧の段階を表現しています。
それに対して、(B)は何も存在しないという極端な考え方を否定すると共に、言葉のない体験に執着することも否定する智慧の段階を表現しています。 (A)は言葉によって実体に執着することを否定する智慧の段階を表現しています。
それに対して、(B)は何も存在しないという極端な考え方を否定すると共に、言葉のない体験に執着することも否定する智慧の段階を表現しています。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています