>>18-20
>判決は裁判官の主観に過ぎない

少し考えれば分かることだと思うが、判決に至る経緯に裁判官の主観が混入する。
これは現実としてその通り。だが、論点はそこではないことに気付かないのだろうか?

論点は差別は客観的に証明できるかどうかだ。

裁判の判決と言うのはいくら裁判官の主観が混入しようが社会では客観的事実としてみなされることを言う。
裁判の決定を裁判官の主観に過ぎんと言って無視することは出来ない。それが法治国家なんだな。

例えば、裁判で女性が女性という理由で不当に解雇された。そして裁判で差別だとして判決が下った。
社会では差別があったとして扱われる。これが差別の客観的証明となるわけだ。
つまり差別の客観的証明は可能ということになる。

>南アフリカではアパルトヘイトは
>差別ではなかったということになるんだが?

その場合は社会運動等によって差別だと認めさせるプロセスが必要と言うだけだ。
例えばアパルトヘイトは差別であり禁止すると言う法律を作る。このことにより差別となる。
少し考えてみればわかると思うが、奴隷制度もアパルトヘイトも反発するものがいて社会に差別だと認めさせたからこそ
今の我々が差別だと(主観ではなく客観的に)認識することが出来る。というか、奴隷制度もアパルトヘイトも
客観的に差別だと言えてる時点で客観的な証明は可能だな。

とにかく、本題に戻ると、差別は証明可能なものだ。

>女子にも被害が及ぶからなんか?w
男子は昔から武道が必修という学校が多かった。
根底には女の子に柔道は危ないと言う考えがあるからだろう。

ID:qFMOzz9PとID:R+7jl2qBはIDは違うが多分同一人物かな?
ちょっと頭悪すぎるぞ。