>>592-602
なげーから細部まで読んでないのは申し訳ないんだけどさ、
テキストに血は生物を規定すると書いてある以上、人と獣を証明してるのは同じ血で、人と獣は切り離せないのよ。どっちも己なわけだから。
血の医療は瞳を得るためのものじゃなくて、獣の病治すため。上位者の血を輸血したって意味がない。死ぬだけ。当たり前だ。種が違うんだから。
己を証明してる血に人と獣両方が内包されてる以上、別種の血を入れて片方を切り離すことなんて出来ないんだ。獣の否定は人の否定にも繋がる。
だから人を人たらしめる杖やトップハットを身につけたりする。獣化は我を失い理性吹き飛んだ時に起きる
エミーリアが祈ってたように獣からの誘いを恐れよというのは、獣に対する憎悪や怯えから我を見失うことからの獣化のことを言ってる
ヤーナム市街見ればわかるが、市民らはわざわざ獣を磔にして燃やしてる。ただの狩りじゃなく、処刑なんだよ。それぐらい彼らは獣に対して強い恨みを持ってる。
だから病が広がっていく。

聖職者たちはそんなヤーナムの人々より、半ば宗教的に人という種に拘る。
かつての教え「かねて血を恐れたまへ」が歪んで「血の渇きを恐れたまへ」に変わり、教会は血に拘る
なぜなら人を証明してるのが血だからだ。教会は人を人らしくさせるために血を配る。血を飲む文化まで定着してしまうほどに。
でもそれはなにも解決しないのは言わずもがな。血は人と同時に獣も証明する。
教会という獣からの脱却、人と獣を切り離す上位的存在への昇華を目指すあまり、獣に対する怯えが散り積もる。獣への誘惑とはまさにこのこと。
あんな状況下なのに祈ってるエミーリアを見れば一目瞭然。聖職者はそこらの人間より獣に怯え、かつ憎んでいる。だからより恐ろしくなる。

んで問題なのはヤーナムが余所者を忌み嫌う差別と偏見にまみれの街であること。
ギルバートが言ったように余所者に優しくない。ヤーナムの連中は余所者も獣同様の扱い。
でも余所者だって同じ人間だし、獣だって同じ人間だった。ていうか獣に関しては完全に「お前が言うな!」状態なわけだ
身をやつした男が怒るのはソレ。皆獣のはずなのに外見が違うだけで狩人の処理対象。獣化した側からすればたまったもんじゃない
ようはこれ、健常者たちが自分達の血の中に獣が内包されてるのわかってないんだよ・・・いやわかるはずわけない。自分の中の血の成分がどれぐらいかなんてわかるわけない
わかるわけない・・・が、わかってしまったら?それはどういうことになるか。

血は己を証明する。つまり血は真実を証明している。
仮に己の血の中に潜むものを感知できるほどの思考を手にいれたとしたら?それはまさしく真実を見ているのと同じ。
ヤーナムの連中みたいに肉眼で得たウソっぱちな知識による偏見ではなく、内面で感じ取り真実を感じ取ること。
それってまさしくただの瞳ではない「思考の瞳」じゃないのか?
けどもしそれほどまでに飛躍した思考能力を人間がもらい受けたとして、己の中に潜む獣を感じ取った人間はどうなる?
内から沸き上がる獣を否定なんで出来る訳がない。自分が一番わかってるんだもの。人は獣なんだってことが。
だから「啓蒙的真実は誰に理解される必要がない」。


というお話。