>>604
>血の医療は瞳を得るためのものじゃなくて、獣の病治すため。上位者の血を輸血したって意味がない。死ぬだけ。当たり前だ。種が違うんだから。

それはおかしい
医療教会の「拝領」の大前提が崩れるそ
人ならざる者の血を使わずしてどうやってウィレームの言う「血によって人を超え、人を失う」が起こるんだよ
ローレンスの獣の病制御実験は飽くまで血の医療に伴い発症する獣化という障害物への対策に過ぎないと思う
実験棟の部屋名プレートのどれにも拝領マークがあって、その中で行われてたのは器具を見れば分かる通り血の医療であり、目的はどこからどう見ても瞳の獲得だっただろう?


>テキストに血は生物を規定すると書いてある以上、人と獣を証明してるのは同じ血で、人と獣は切り離せないのよ。どっちも己なわけだから。
>己を証明してる血に人と獣両方が内包されてる以上、別種の血を入れて片方を切り離すことなんて出来ないんだ。獣の否定は人の否定にも繋がる。

獣性が人の奥底に潜んでるのを認めるのと同じように、ならば人が今なぜ獣にならず人を保ってるのかってのにも目を向けてみようってのが上の考察だ
獣性は人のものだけど理性による思索も意志も人のものでしょ
身を窶した男の言葉をなるほど人は=獣だったんだ!と言うならそれは獣の抱擁に敗れた状態なわけで
ミコラーシュの言う通り「獣の愚かを克す」という姿勢でどう立ち向かうかが彼らの課題なわけじゃん
本来切り離せない獣性を何とかしたい、そのために人を捨てて変態に至るのが血の医療であり、そうして思考回路を、人の限界を超えるために脳の作りを改造するのだから理性が混乱しどうしても抑えてた獣性が現れてしまう、という考察
瞳に至る変態条件と獣に至る変態条件を同一と考えた根拠は>>601後半を読んでくれ
人は確かに獣だけど獣が全ではないと思う


>かつての教え「かねて血を恐れたまへ」が歪んで「血の渇きを恐れたまへ」に変わり、教会は血に拘る
>なぜなら人を証明してるのが血だからだ。教会は人を人らしくさせるために血を配る。血を飲む文化まで定着してしまうほどに。

「ヤーナム独特の血の医療を受けたものは、以後、同様の輸血により生きる力、その感覚を得る」「故にヤーナムの民の多くは、血の常習者である」

血にこだわるのは人らしくあるためではなく、輸血液テキストのこの文の「生きる力、その感覚」から分かるように、ヤーナム民が最初に酔ったのは血の遺志に対してだろう
人血を飲むのは輸血の後の気の狂いを鎮めるためだけど
人血の鎮静剤が血の医療によって生じる倒錯(変態の初歩)を鎮めるなら、それってつまり人血ならざる血の医療が気の狂いを起こす、と言えると思う
そしてお婆ちゃんが鎮静剤渡してくれたりと皆が狂う赤月はやはり血の医療と同じ効果があるとも思う

匂い立つ血の酒の流行りはそれとは別で「それは血に飢えた獣を強く惹きつける」から分かるように獣化の兆候の一つだと思う

要するに最初から血を欲してたわけじゃないんだよ
「血の遺志」中毒を植え付けられて、その上で変態可能状態に至る倒錯に際して現れた理性の枷を外した獣性に負け、獣化が始まり、人血が美味く感じ始める、って流れ


>内から沸き上がる獣を否定なんで出来る訳がない。自分が一番わかってるんだもの。人は獣なんだってことが。
>だから「啓蒙的真実は誰に理解される必要がない」。

そこで諦めたら試合終了でブラッドボーンが始まらねえよ…それを分かった上で抗おうとしてあれこれしてるのがビルゲンワースに医療教会に狩人様だろ