>>557
物語の中の解釈を巡るいざこざにプレイヤーも考えることがプレイヤー視点であり切り捨てるべきと言うなら仕方ない。


「血が生物を規定するように」としている一方で見つかる血中の獣の証明があり、デュラも見出したように人は皆獣だという。
しかし一方で同じ人同士なのに獣を忌み嫌う現実があり、その忌み嫌う人々らも同様に獣の血が流れている。
この構図はそっくりそのまま脳液のテキストで書かれた啓蒙についてと同じ構図で、
それは人間には絶対に理解できないものだっていう絶望を指し示している。
「その甘さ驚くように」と形容されているように、己が当事者(獣)となって初めて人=獣を理解する。それが人間の限界なんだと。
「見た目獣ならお前は獣だ。死ね」ってなるのが人間。でもほんとは自分も獣。それを己が獣になることを察してようやく気付く。
その滑稽さたるや。でもそれが人間なんだと。

肉眼ではなく知識で物事を正しく見ること、それが思考の瞳。
けども人間には先入観や偏見という物事を正しく見るために障害となる認識がたくさんある。獣やカインハーストたちに向ける眼差しのように。
それがある以上人間は人間の形保ったまま上位者になれない。その反証としているのが「白痴」としているロマであり、
認識力の低下ないし皆無といった状態こそが、先入観や偏見に左右されないあるがままを見据える(高次元)思考だと思う。
そしてもし、その先入観や偏見を捨て去ることが出来たら、人は獣を恐れないし、負の感情を持つこともなくなり獣化もしなくなるかもしれない
血という根幹部分に根付いた人の証明と獣の証明のうち、獣化が取り除かれた人間というのは、それは立派な「進化」と呼べるんではないだろうか?
こうじゃダメ?