一人も無之候へば、出し申すことなるまじくなどとは一も二もなき喧嘩腰にて、側杖を打たるるわたくしどもこそ迷惑千万に存じ候。
 九、霜は又右の次第を秀林院様へ申し上げ候ところ、秀林院様は御返事も遊ばされず、
唯お口のうちに「のす、のす」とのみお唱へなされ居り候へども、漸くさりげなきおん気色に直られ、
一段然るべしと御意なされ候。如何さままだお留守居役よりお落し奉らんとも申されぬうちに、
落せと仰せられ候訣には参り兼ね候儀ゆゑ、さだめし御心中には少斎石見の無分別なる申し条をお恨み遊ばされしことと存じ上げ候。
且は御機嫌もこの時より引きつづき甚だよろしからず、ことごとにわたくしどもをお叱りなされ、
又お叱りなさるる度に「えそぽ物語」とやらをお読み聞かせ下され、誰はこの蛙、彼はこの狼などと仰せられ候間、
みなみな人質に参るよりも難渋なる思ひを致し候。殊にわたくしは蝸牛にも、鴉にも、豚にも、亀の子にも、棕梠にも、
犬にも、蝮にも、野牛にも、病人にも似かよひ候よし、くやしきお小言を蒙り候こと、末代迄も忘れ難く候。
 十、十四日には又澄見参り、人質の儀を申し出し候。秀林院様御意なされ候は、三斎様のお許し無之うちは、如何やうのこと候とも、
人質に出で候儀には同心仕るまじくと仰せられ候。然れば澄見申し候は、成程三斎様の御意見を重んぜられ候こと、
尤も賢女には候べし。なれどもこれは細川家のおん大事につき、たとひ城内へはお出なされずとも、お隣屋敷浮田中納言様迄入らせらるべきか。
浮田中納言様の奥様は与一郎様と御姉妹の間がらゆゑ、その分のことは三斎様にもよもやおん咎めなされまじく、
左様遊ばされ候へとのことに御座候。澄見はわたくし大嫌ひの狸婆には候へども、澄見の申し候ことは一理ありと存じ候。
お隣屋敷浮田中納言様へお移り遊ばされ候はば、第一に世間の名聞もよろしく、第二にわたくしどもの命も無事にて、この上の妙案は有之まじく候。
 十一、然るに秀林院様御意なされ候は、如何にも浮田中納言殿は御一門のうちには候へども、これも治部少と一味のよし、
兼ねがね承り及び候間、それ迄参り候ても人質は人質に候まま、同心致し難くと仰せられ候。澄見はなほも押し返し、
いろいろ口説き立て候へども、一向に御承引遊ばされず、遂に澄見の妙案も水の泡と消え果て申し候。その節も亦秀林院様は孔子とやら