所が残暑が初秋へ振り変らうとする時分、
夫は或日会社の出がけに、汗じみた襟を取変へようとした。
が、生憎襟は一本残らず洗濯屋の手に渡つてゐた。
夫は日頃身綺麗なだけに、不快らしく顔を曇らせた。
さうしてズボン吊を掛けながら、「小説ばかり書いてゐちや困る。」と何時になく厭味を云つた。
信子は黙つて眼を伏せて、上衣の埃を払つてゐた。
 それから二三日過ぎた或夜、夫は夕刊に出てゐた食糧問題から、
月々の経費をもう少し軽減出来ないものかと云ひ出した。
「お前だつて何時までも女学生ぢやあるまいし。」
――そんな事も口へ出した。信子は気のない返事をしながら、夫の襟飾の絽刺しをしてゐた。
すると夫は意外な位執拗に、「その襟飾にしてもさ、
買ふ方が反つて安くつくぢやないか。」と、やはりねちねちした調子で云つた。
彼女は猶更口が利けなくなつた。夫もしまひには白けた顔をして、
つまらなさうに商売向きの雑誌か何かばかり読んでゐた。
が、寝室の電燈を消してから、信子は夫に背を向けた儘、「もう小説なんぞ書きません。」と、囁くやうな声で云つた。
夫はそれでも黙つてゐた。暫くして彼女は、同じ言葉を前よりもかすかに繰返した。
それから間もなく泣く声が洩れた。
夫は二言三言彼女を叱つた。その後でも彼女の啜泣きは、
まだ絶え絶えに聞えてゐた。が、信子は何時の間にか、しつかりと夫にすがつてゐた。……
 翌日彼等は又元の通り、仲の好い夫婦に返つてゐた。
 と思ふと今度は十二時過ぎても、まだ夫が会社から帰つて来ない晩があつた。
しかも漸く帰つて来ると、雨外套も一人では脱げない程、酒臭い匂を呼吸してゐた。
信子は眉をひそめながら、甲斐甲斐しく夫に着換へさせた。夫はそれにも関らず、まはらない舌で皮肉さへ云つた。
「今夜は僕が帰らなかつたから、余つ程小説が捗取つたらう。」――さう云ふ言葉が、何度となく女のやうな口から出た。
彼女はその晩床にはいると、思はず涙がほろほろ落ちた。
こんな処を照子が見たら、どんなに一しよに泣いてくれるであらう。
照子。照子。私が便りに思ふのは、たつたお前一人ぎりだ。
――信子は度々心の中でかう妹に呼びかけながら、夫の酒臭い寝息に苦しまされて、
殆夜中まんじりともせずに、寝返りばかり打つてゐた。