オレが思うに、カトリンと蜂子の差はね、
死に対する考え方の違いではないかと思うのですよ

カトリンは、自分の死が少なくとも「このいまにありうる」とは思ってない
自分の死は、いつかわからないけど漠然とした先にある
父上母上より先に逝くかもしれないが、「このいま」ではないと思ってる

蜂子は、自分の死が「このいまにありうる」と考えている
「このいま」死んだとしても悔いのない生き方というものを考えている
それはたぶん、真に死に直面して、そういう考えが染みついているのではないかと思う

前者は、計画をするゆとりがある。
計画をするゆとりがあるってことは、明日計画を立ててもいいってことでもある。
カトリンはそうやって生きてる

蜂子は、このいま死ぬかもしれない私が、その死の瞬間に満足に死ねればいいと思ってる
見方によっては刹那的だけれども、強度に満ちてる
今日やるべきことは、明日に延ばせない

その差なのですよ どちらが良いとも悪いとも言えない
オレは両方とも理解できるが、いまは蜂子のように考える事が多い
子どもが生まれたとき、娘を最初に抱いたとき、嫁さんの汗をぬぐったとき、
オレがいまここで死んだらこのひとたちはどうなるんだろうと思った
そういう想いにとり憑かれると、なぜ今日のことを明日に引き延ばせるのかわからなくなる

蜂子はそういう目線から、カトリンの生きざまに甘えを見てるわけでふ
ただ、みながみなそれを理解するわけではない
これは真に実感をともなってないと、ほとんど理解できない
もしかすると、大病したかどうかってよりも、
子持ちのひととそうでないひととの感覚的な断絶かもしれませんがな

と、山手線のなかで思いますた