貧困者に「なぜ自炊の方が安いの割高なカップメン食べるんだ?贅沢だ!」という批判があるよね。
似たような批判はいろいろな弱者にもある。
ある人は言った。カップメンを高いと言える自炊能力はすでに文化資本だと。
自炊能力を得るためにお金や時間を投資できなくて割高なカップメンを食べているのが貧困なのだと。
貧乏してると気持ちに余裕がなく炊事洗濯掃除全般がどうでもよくなる。
良いものを選ぼうとか考える余裕もないからパッと買ってすぐ使えるものを買う。
湯を注ぐだけですぐ食べられて洗物も出ない割高なカップメンを買ってしまう。
貧乏なのにカップメン、ではなく貧乏だからこそカップメン。
まさに「カップメン食べられなくなったら死ぬしかない」状況。
同じようなことがあるかもしれない。それが病人や老人や生活保護者だったら想像できるから寛大なわけだ。
なぜ「ハンバーガー食べられなくなったら死ぬしかない」の場合も同じかもしれないと想像できないんだよ。
そういう部分を見ると
「ああやっぱりこの人も弱者を贅沢と批判してる人と同じように他者への想像力が欠如してるんだな」
って思ってしまうんだよね。
だからこそ他者への想像力が必要ない、誰がかわいそうとか、誰を助けようとか、回転寿司食ってたら贅沢かとか、ハンバーガー食ってたら贅沢かとか、
そういう「判断自体」を一切しないBIがいいなと私は考えてしまうんですよ。