自己責任論者に対する根本的な論理的矛盾は自己責任を問えば問うほど
社会からのかい離が著しくなり本来社会的な存在である個人、個人が形成している
社会の崩壊を何も示さないということだ。

そういう意味では政治家の人間たちや一部の御用学者が自己責任論を言う意味には
個人が形成している社会を「特定の」個人だけ救おうとしているあからさまな利益誘導を含んでいる。

個人が社会の中で生きていく限り、いや、個人が社会の中で生まれ落ちた瞬間に
人はどんな人間であれ社会的な役割や意味を持つし、そこには責任が生じている。
自己責任論は自己の責任を強調することで社会的な責任をあいまいにする。
個人が社会に対してどれくらいの責任を果たすべきかは個人の選択であって、
もともと個人が責任がある、自己責任がある、という話と全く関係ないからだ。
個人がどこまで社会的な責任を負えるのかを決定するのが社会的な構造上の問題であり、
それを機械的に押し付けることは社会の中で個人の権利をかえって著しく侵害する。

個人を縛る法律で非正規労働を増やしておきながらそれを個人の責任に押し付けるなんて
そんな論理が、よくよく聞いてみればおかしな話であると理解できるのはそういうことだ。

個人が社会に対捨て責任があることと個人がどこまで責任を負うべきかを混同して
あたかも個人がどこまでも社会に対して責任を負うべきだなどと言い散らかす
論理ははじめから破たんしている。
そしてそれが特徴的なのは日本人の発想ではそういう論理構造はもともとない。ということだ。

私は最近本当に日本には外国、特に大陸系の外国人のスパイが数多くおり、そいつらが日本という国を
滅ぼそうとしているのではないかと本気で考えそうになる。

自己責任論を言う人間たちはその論理的な破たんもさることながら皆自己顕示欲の塊で
あまりにも日本人離れしている。あいつらは本当に日本人なのだろうか?