【BUND】共産主義者同盟総合スレ【ブント】 [転載禁止]©2ch.net
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>>375
それ聞いたことない。あの人と当局の間に何があった? >>374
長崎造船所と同じだ。日本では海上交通を抑えたら革命が成就できるからな!
造船、港湾荷役、船員組合や、陸海空港湾20労組を掌握したと称する中核派こそが革命の主人公である!
なお、人民や労働者は主人公ではないらしい。はしゃぎまくる中核派常任ってこんな感じだぞ。
名村って80年頃に大阪から撤収したでしょう。どうしたのよ。伊万里に残ってるのかしら。 オマイら!竹内とか塩見とか三上とか・・・そんなジーさん達どーでもいいから
選挙に行こうよ!!野党は共闘!! ブントルーズ >>379
竹内陽一が70年代末(?)に離れてるのに竹内ブントと言われ続けてるのは悲劇だ。
赤軍派もしくは革命戦線の労対だった竹内陽一らが主導し、関西の労戦および学生の一部を抑えたのだろう。
プロレタリア派とはそれ総体を指すのではないか? で、首都社研ってのはあくまで首都圏部隊じゃねえの?
関西は組織としては見えなくなり、首都圏でも三支労・荒川グループが分裂したということなんだろう。
で、江東では1人議員で、もうひとり議員だったが落選してる状態と。他は不明。
そして東京で東交などに食い込んだと、それで今は自治労内の都市交にいるわけだろ。少しだけど。
東京東部の自治体や個人加盟ユニオンはそのずっとあとじゃないのか?
さらに日韓で、青とPと荒川ってなんかかぶるんだよな。
明大といいなぜか青と領域がかぶりながら、三里塚では別なのね。 竹内さんが抜けたのは80年代半ば過ぎじゃなかったかな?
あの頃は学戦と個別労戦以外は労調委(三里塚現地行動労働者調整委員会)として動いていたような印象を受ける。
まぁ、労調委に関して言えば、全国一般南部支部(赤色戦線残党)は別として、前衛派も主革派も自己解体してしまったが…。 石田純一の爪の垢でも煎じて飲むべきだ、と想いながら誰も待たない部屋に帰る我に降りそそぐ初夏の雨 昔、復権派という人々がいましたがどういう流れですか。またまだいますか 何か ここに書かれた竹ブン関係を読むと まるで三里塚、学生戦線、労働戦線から議会にまで影響力を行使した大党派みたいだね >>387
それなりに影響力はあっただろう。21世紀初頭に中大・明大ツブされるまで学生隊列が
組めるくらいに学生がいたことによる。だから各戦線にも担当者がいた。
そこが労働運動への足がかりになった。ただしもともとが小さいから限度はあったでしょう。
でも、今は学生が少なくなってるのでダメだろうね。
現在議員は2人くらいか。 成島忠夫さんが6月29日逝去されました。謹んで哀悼を申し上げます。
元三派全学連副委員長として10.8羽田闘争を領導。マル戦派分裂の後に労働者共産主義者委員会を結成。
75年「爆取」弾圧に臨時中央員会を結成。後に静岡で不動産業。享年73歳。 >>391
詳細を激しく希望!
追悼!ナルチュー! 竹ブン関西での議員ではU.Iがユニオンでも著名ですな まあ 元議員だが ナルチュウ死す……。
成忠なんて知らないって三派全学連も知らないどっかの党専従がいたな。
オレよりはるか年上なのに。世間知らずだしな。
>>393
U.I. じゃわかりません。 ナルチュー死んだのか
俺のマル戦の知り合い前衛の坂内さんしかり
岩田弘しかり
物故者になるなあ
怒涛の名大グループの人も昔の知り合いにいるが
疎遠になってるなあ みんな軽やかに逃げ出すなあ
残された後継の俺たちはどんどんきっつくなってくよ 一人ブントはそれじゃなくてもきついよな
いざとなったら自分はブントであると名乗れるが
ブントとしていっしょになるのは抵抗がある
その中でブントの先達がどんどんいなくなる ブント諸分派の身内意識ってのは結局は、マル戦でも赤軍でも最終的にはブントに戻るところがすげーな、と思う(社労党を除く)。
革共同とか社青同では絶対ありえねー。 >>399
たくさんあるから自称しても周りも誰も何もいわない。 言うぞ
火花はブントじゃないとか
政経研の出自はブントと関係ないとか
一方で第三次ブント構想には構改派まで含めてた人もいて
さまざまだ >>402
火花はわからないが、政経研系には諸説あるし自らブントという意識がないのだからブントを名乗るのことはないだろう。
第三次ブント構想の構改派ってのは統一共産同盟(労闘・労活評)とか? 遡ってかつての赤色戦線の残党とか? 今晩13日PM9時だよ。
BSプレミアム アナザーストーリーズ「東大安田講堂事件〜学生たち 47年目の告白〜」 >>407
おお、松本礼二さんたちか! 長崎弘さんなんかもそうか。すばらしい!
えっと、「遠方から」派なんかに誰がついていくんだよ。支援、それも少数のメンバーで政府と三里塚ボス交しようとした悪名高き連中。
そんなブント再建構想は、まさに「情況」派的政治。現場なき夢想だ。
今の古賀もそんな感じひきずってないか?
荒さんですか! すばらしい!
いや、ありえねえw!! そしてその広松が共労党までブントのウィングを広げる構想をしていたということ 第三次ブント構想っていうのは具体的にはなかったのでは?荒派は自派だけで第三次ブントを目指すと言ってたんだし廣松さんは大ブント構想を松本礼二が死んでからも思いとして持ち続けてたと思うが 広松さん、たしか、「赤色大東亜共栄圏」が最後の遺稿だったね。朝日新聞 >>409
広松構想は西田まで含んだブント左派ってイメージだった。
晩年に荒が接近してあれこれやったって感じ。
>>410
共労党にまでウイングって、カラーが違うような気がするなあ。
実際にあったこととして、戦旗派(西田)とプロレタリア派(いわゆる竹ブン)と米田隆介らのグループの統合話があったらしい。
機関紙名が「プロレタリア通信」とまで決まったが、直前で破綻したそうだ。
>>412
東アジア共同体構想だろ。赤色大東亜共栄圏とは言ってないでしょ。 荒派のブル転にブレーキをかけるべく
学生戦線ではその第三次ブント構想がうまくいき始めてたと聞く
荒派と西田派のブリッジになってた勢力が伸張し
うまく回りかけていた矢先広松が死に
古賀周辺から社学同再建を急がされ
東西の古賀に近いグループで
社学同(準)ができたあたりで空中分解したと思われる
広松が死んでいなかったら
社学同再建を急がなければ
第三次ブント構想は違ったものになっていたかも知れない 竹ブンと赫旗は元熱田派内で
反シンポジウム連合を組んでいたことで
その第三次ブント構想とは距離があった感じだな >>416
とりたてて“反”シンポというわけじゃなかったと思う。
支援の各党派はただ眺めてるだけって感じだっただろ。
反対同盟の集会が少なくなった分、時期的に反Xデー闘争に突入していったわけだしね。
シンポ・円卓会議に喜々としてた支援は豊島文化社くらいだった。
あそこだけわざわざシンポや会議を傍聴して、何か合意されたとき喜んでたんだから。
それテレビで見て「何やってんだろ。この人たちは」って思ったわ。 いつの話か分からないがブリッジとかありえない。荒と組もうと考えるところはなかったし荒も他と組む気は毛頭なかったろう だから廣松さんの思惑は空回りしてたがもう時間がないという思いの中で最大手とせいぜい付き合ってたんだろう そのへん廣松と荒の思惑が一致し、そして廣松死後もマルクス主義を捨てた荒のくせに、
廣松の連れ合いをグランワークショップに呼んで語らせたわけか。
鈴木邦男や宮崎学と同じ文化人としての扱いでしかなかったと。 >>418
あんな荒カルトと組もうと思うところがあるかよ。 シンポ支持派・・プロ通、三支労(荒川ひろば)
シンポ反対派・・竹ブン、赫旗、労対
中間派・・・インター、プロ青 >>422
その中で一番農民運動に熱心だったのがプロ通だな
その他は三里塚限定だ >>422
西田と統一委員会結成して北原派反対同盟に自己批判して支援させてくださいって泣きついた、
烽火はどうだったの? >>422
知らなかった! そんな話出たことあったかなあ。
そして日向がオレ様派だな。
支援から叩き出されてかろうじて熱田さんとこに間借りして、たまに集会やってたが。
>>425
あんまり見なかったな。 廣松氏は、最晩年の戦前アジア主義肯定ともうけとれる論考がまず衝撃的だった。
さらに西田、日向という水と油の両派が、ともに機関紙上でその死を追悼していたのが驚き。
加えて、どっちの記事か忘れたけど、葬儀後にその骨を骨壺にひろったのが塩見・荒の両氏だったとか。
誤りは誤り(アジア主義的主張には、釈明が必要だったのでは?)としつつ、ブントならでは?の人物のス
ケールの大きさには学ぶべきところが大きいと思いますね >>427
まあ、あの朝日の文章だけでアレコレ言ってもしょうがないだろ。
ブロック経済論はいつも出てくるものだし、平和的なアジア共同体構想――非核など――は、けっこう言われたりするしな。 両川派は小林氏が早くから広松研究で関係があったが
日向派は広松を敵対勢力の一人としか見れず
日向自身の後の文章にも「広松理論の摂取が決定的に立ち遅れていた」と書いてた
しかしながら両川派の現場の諸君がどれほど広松に拘りがあったかはいささか疑問で
日向派の諸君の摂取のスピードのほうが速く見えたな >>427
出典、ソースを激しく希望します>>・・・戦前アジア主義肯定・・・ 摂取ね。黒田を摂取したり廣松を摂取したりな。そういうのがブント的じゃないということじゃないの >>430
日向の理論的立ち遅れはいろんなところに出ていた。
荒のガキ大的な党派内メンバーの放逐も問題だったし、その後に幹部として台頭した荒チルドレンらもまだまだな面があった。
あるときヘーゲルの件を荒が「フォーラム」で書いたのだが、かなり誤謬にみちたものだった。
次号には西田派からの指摘と批判と罵倒がソッコーで載っていた。それはど日向派や日向自身の理論は稚拙としか言えない水準であった。
まあ、塩見・荒といい勝負だろ。ブント内二大党派と思われてたが、切り貼りしたものでしかなかったわけだし。 >>>431
それ朝日新聞に載ってたよ。>>412や>>413も書いてるだろ。
廣松が死ぬ直前の朝日縮刷版をめくってみればあるはず。
>>432
それそれ、それが日向革マル主義といわれた理論的立ち遅れなのさ。 >>430
> 両川派は小林氏が早くから広松研究で関係があったが
小林氏ってどなたですか?広松さんと関係がある小林というと小林敏明さんですが、敏明さんはまさか西田派じゃないでしょ。 池田とかいう反動ペテン師評論家が
駒場に在学中に荒派がいて
荒派は広松の指導がどうのこうの言っていたが
まるっきり嘘八百だ
やつが駒場にいたころは荒派と広松は水と油だ
荒が広松と親しくしてたのをどこぞで聞きかじって
勝手に当時から親しかったものと脳内変換して事実と思い込んだのだろ
こんなのがNHK出身でございと肩書きちらつかせて
革命派へのデマを振りまいている >>405
最後の方に赤軍メットを被ってデモる姿が革命的に登場!
赤軍が白昼堂々と大衆デモに加わっている姿は革命的に貴重と思われる。録画しておいて良かった。
これからもNHKが革命的動画をUPするなら生まれて初めて受信料を払おうかな。
>>BSプレミアム アナザーストーリーズ「東大安田講堂事件〜学生たち 47年目の告白〜」 西田派の小林さんというと岩波文庫から廣松版ドイツイデオロギーを編集し出版した
小林昌人さんでしょう。西田派でのペンネームは赤城護ではなかったかと思います。
僕は廣松さんが亡くなるちょっと前から名古屋引きこもりのブントシンパ扱いでしたが
本当にそんな大ブント構想があったのか、ちょっと疑問に感じました。
烽火と西田派は当時から提携して活動していましたが、本当にそんな動きがあったのかどうか。
明日の三里塚集会で先輩方に聞けるかもしれません。
あと統一委員会結成前に烽火、西田、蜂起統一ブント結成、という話は確かにありました。
これは確認済み。蜂起派が分派の権利などを主張し結局離脱しましたが。 熱田派系の三里塚50年集会は明日日曜日に文京シビックッセンター26Fで正午から開催されます。
北原派系は7月3日にすでに開催済み。 >>440
そんな顕在化した動きなんてないよ。ほぼ廣松の脳内と書籍のみじゃないの? >>441
ひさびさの反対同盟主催の集会なのに、なぜ東京でやるのか。
と関西の >>440
お〜すごい人からレスが来たな。ドイデの小林さんって西田のメンバーなのですか。初めて知りました。西田に研究者がいたとは初耳です。
希流さんが名古屋の人というのも初耳でした。広松さんと縁が深い土地ですね。敏明さんもそうですが、希流さんも河合塾人脈ですか? >>445
名古屋出身の元ハンドルC君でしょ。
インターがゴチャゴチャ言ってたが、相手にしなくていいな。インターだもの。 梅雨の晴れ間に 掃除機をかけると コトの音に振り替えると 本棚に転んでいる 廣松渉 >>407
成島忠夫氏が日韓闘争の後、いいだもも氏からマル戦派に一緒に党をつくろうと声がかかった、と証言している。(荒派『理論戦線48号』これも大ブント構想の一部かな。 研究者をやりながら党派活動家でもあり続けた人って、広松さん関係だとインターの佐々木力さん、西田派の小林昌人さん、他には誰だろ?
マル戦派にはたくさん居そうだけど。 >>449
塩川喜信とか意外とたくさんいるものだ。 男女の経済の流れ
東京大学・早稲田大学・慶應義塾大学
男性が社会で強いので
テニスサークルでは内部男子限定で更に選抜
身体しか取柄がない女子大生は本人希望さえあれば入れる
創価大学・国際基督教大学・明治大学
女性が社会で強いので(公明党女性議員・自民党女性議員・明大卒女性がiモードを発明)
イケメンが通信教育部やFOIやリバティアカデミーなど
学費の1/10程度(年間10万円程度)の有料生涯学習に参加していたりする
イケメンと売春婦は本気で喧嘩になるので精神科などが引き離すようにしている 世界革命運動情報だったら大田さんたちでしょ。ブントじゃないよ。 >>347
狭山の蜂起派を思い出したわ。西田と同じ反帝戦線メットだったわけでしょ。
だから記憶から抜け落ちてたんだと思う。 >>349>>351
さらに東洋大の民学同だが、党としてのこえではなく、いわゆる解放同盟内の「こえ」派って感じだったな。
流れとしては志賀が源流なんだろうが、すでに上田卓三らの時代なんでその関係が強かったんでしょ。
だから新時代派=こえ派ではないが、民旗やデモクラートよりはこえに近かったのは確かで、
解放同盟内でこえ派というと、まあ新時代派人脈になってしまうという感じだったんじゃないかと。
こえと民学同三派って双方で、指導・被指導の感覚がなかったから、わかりにくいんだろう。
さらに関東にいるとなおさらわからん。
スレチ失礼 >>458
構改派ではなく第五列=ソ社帝のことですが・・・・。 >>459
構造改革派としての面とソ連派としての面をもっていたのが民学同だったのだよ。 >>460
スターリンとグラムシが、どこをどうして、どーなると合流できるわけ!?
「こえ」がスタが構改系を政治利用、若しくは囲い込みした経緯があるだけ。 74年 4月 赤軍派(プロ革)結成。いわゆる塩見派。
74年10月 情況派から古賀グループが別れて游撃派を結成。
75年 5月 共産同全国委(烽火)から加納グループが別れてボリシェ
ビキ派を結成。女性差別問題が原因。
75年 5月 赤軍派臨総グループはプロレタリア独裁編集委員会を結成。
75年 8月 赤軍派(プロ革)から高原グループが別れてML派結成。
76年 3月 プロ独編集委と烽火ボリシェビキ派が統合して紅旗派結成。
79年 3月 赤軍派(プロ革)から塩見グループ追放される。塩見派は
日本社研結成。
79年 7月 游撃派とプロ革から分れたML派が統合して革命の旗派を結成。
81年 9月 紅旗派と革命の旗派が統合して赫旗派を結成。生田らが赫旗派
中央委多数派を形成したのに対し、旧游撃派グループは少数派
を形成。
83年 9月 旧游撃派グループは赫旗派首都圏協議会を結成。(85年9月に
は赫旗派首都圏委員会と改称し、さらに88年11月には共産同
首都圏委員会を名乗る。)
85年12月 赫旗派から生田グループ追放される。一時期双方が赫旗派を
名乗るが、松平グループが赫旗派を継承。 >>465
実態はスターリニストだが、スターリン批判のあとで、
平和共存路線を推めてたのがソ連だ。両者ともそこに乗ってしまったところがある。
つまりミヤケンとかが勝手に行ったといわれる「80か国共産党・労働者党声明」の会議だ。
ミヤケンらはそこから中国派へシフトするわけだ。66年までな。
さらに言うと、当時はトリアッティの構造改革が中心でグラムシがキッチリ掘り起こされるのは後になってから。 トリアッティの「社会主義へのイタリアの道」+フリフチョフの「平和共存」路線が
合体したのが1967年の共労党。 うん、で、いいだももさんが、マル戦に合流を呼びかけたのが67年。
大共労党構想もあったのですね。 革マルといっしょに上田哲の選挙応援してた飯田桃は
なんでもいいのかも知れんね >>466
>>75年 8月 赤軍派(プロ革)から高原グループが別れてML派結成・・
統一被告団でやっていた川島さん、上原さんはプロ革に結集したのでしょうか?
もし、そうであれば川島さんと上原さんはML派結成に対してどのような態度を取ったのでしょうか? とっくに死んだじゃん。なお、もも氏自身は構改じゃなかったらしいよ グラムシはレーニン主義を深化させた(真の意味での)ゴリゴリのレーニン主義者だったのに、何故か右翼スターリニストや社民どもに持ち上げられてるのはイタリア共産党のトリアッティや日本共産党現マル派によるグラムシ理論改竄の結果だろ。
前衛派の故坂内仁さんがそこらへんをよく言ってたよな…。 >>472-473
誰?
いいだももならソ連派古左翼でしょ。レーニン・スターリン万歳って言ってたらしいじゃん。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています