【BUND】共産主義者同盟総合スレ【ブント】 [転載禁止]©2ch.net
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中核派内部のおかしさについて、抽象的な告発
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1851255/1860320/110317855
私は革命主体として、中核派以外に対して、自分の中核派における上司(私は彼を上司とは認めたくないけど、中核派的には上司になっとるらしい。そのへん民主的ではない)と、
その上司はわからずやで、ストレートに言うとバカで、そこがひとつの問題である!と、広くインターネットに対して訴えかける!!!!!!
まだあんな酷い日立製作所の上司のほうが、それでも民主的やったぞ!!!!!!
中核派は全体的には革命党やけど、内部的には反革命的な思想が千円、・・・・・・・・・じゃなくて蔓延しとるのが実態やぞ!!!!!!
そんな組織は信用されず、一般人は革命よりも、小池百合子の体制内改革を支持してまうぞ!!!!!!!!!!!!
ビラなんていっくら刷ったって、自分らで満足できるデキであったって、それがただしいかどうか判断するのは相手であって、相手に届かんもんをいっくら配ったって、マスターベーションでオナホに向かって精子をふりまいとるのと同じやぞ!!!!!!!!!!!!
オナホに向かって精子をふりまきました!って、何万回振りまいたって意味ないぞ!!!!!!!!!!!!
一回好きなヒトとエッチしました、のほうが、リアルな闘いなんやぞ!!!!!!!!!!!!
私も1年半ガマンして、それでさえも、中核派内部で体制的にいろいろと隠蔽しようとする圧力を、ひしひしと実感するんやから、ホンマにやむを得ずの決起や。
革命を起こすために、タブーとされとる、インターネットに向けて内的矛盾を主張する、というのだって、正直あり得る、と私は言いたい。
この投稿はいろいろと波紋を呼ぶやろけど、波紋を呼んだほうがええと思う。
それだけ内部がおかしいんやから。 大西って聞いたことある名前だと思ったら、アイツ一年ほど前にブントの集まりに参加していたことあるぞ。アホみたいな話しばかりでみんなでスカんしていたら、勝手に離れていった >>690
おまいらのせいでAKBヲタから左派業界まで大騒ぎになったということかよ!
ブントの集まりってどの枠だよ。赤星枠含むトコ?
大西騒動の元凶は西田にあった
ということでよろしいか? >>691
なんで俺らのせいになるんだ
確か坂田昌子の勉強会や古賀茂明のフォーラム4に参加していたな
フォーラム4の談話会にも参加していたけど、何か場違いな服装や話題ばかりで、スグにボッチになってた
風の噂ではフォーラム4の幹部から今後の参加を遠慮して欲しいとか言われたみたい フォーラム4はブントとは関わりない
https://forum4.jp/賛同者リスト/
ここに大西の名前入ってるな。なのに今は中核派か。節操のない奴だ 中核派内部のおかしさについて、抽象的な告発
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1851255/1860320/110317855
私は革命主体として、中核派以外に対して、自分の中核派における上司(私は彼を上司とは認めたくないけど、中核派的には上司になっとるらしい。そのへん民主的ではない)と、
その上司はわからずやで、ストレートに言うとバカで、そこがひとつの問題である!と、広くインターネットに対して訴えかける!!!!!!
まだあんな酷い日立製作所の上司のほうが、それでも民主的やったぞ!!!!!!
中核派は全体的には革命党やけど、内部的には反革命的な思想が千円、・・・・・・・・・じゃなくて蔓延しとるのが実態やぞ!!!!!!
そんな組織は信用されず、一般人は革命よりも、小池百合子の体制内改革を支持してまうぞ!!!!!!!!!!!!
ビラなんていっくら刷ったって、自分らで満足できるデキであったって、それがただしいかどうか判断するのは相手であって、相手に届かんもんをいっくら配ったって、マスターベーションでオナホに向かって精子をふりまいとるのと同じやぞ!!!!!!!!!!!!
オナホに向かって精子をふりまきました!って、何万回振りまいたって意味ないぞ!!!!!!!!!!!!
一回好きなヒトとエッチしました、のほうが、リアルな闘いなんやぞ!!!!!!!!!!!!
私も1年半ガマンして、それでさえも、中核派内部で体制的にいろいろと隠蔽しようとする圧力を、ひしひしと実感するんやから、ホンマにやむを得ずの決起や。
革命を起こすために、タブーとされとる、インターネットに向けて内的矛盾を主張する、というのだって、正直あり得る、と私は言いたい。
この投稿はいろいろと波紋を呼ぶやろけど、波紋を呼んだほうがええと思う。
それだけ内部がおかしいんやから。 行き場を探して最後に中核が喜んで受け入れたんだろう。
西田が自分らで積極的に受け入れていたら何ら問題は起きなかったというのにさ。
今からでも遅くない。「共に統一委員会で斗おう!」と言って招聘しなさいよ。
そして日立争議とAKB闘争を共にやるんだ。
いいな、わかったな。 ブントか
懐かしいねえ、と言っている場合ではないぞ
共産主義革命を達成するには、まず改良主義の民進党と社民党をせん滅すべきだ
合わせてこれらに選挙協力する日共をせん滅すべきだ >>698
ウヨには左翼扱いされ、ここで反動右翼扱いされ、かわいそうに。
マトモかつ客観的な分析なんてブント諸派にはできないだろうから期待しないけど。 >>697
くだらん。わたしの知るところでは、ブントは共産主義を語り、革命を語るけど(それも大声でw)、
「共産主義革命」なんていうタームは絶対に使わない。それがなぜかは、考えてみたらいい 前田裕晤が語る―大阪中電と左翼労働運動の軌跡
↑
これ、おもしろいよ マッセンストの分析としては
東大出版会から出てた「新左翼と労働運動」で分析されてるな >>702
そりゃそうだな。共産主義革命?
共産主義ってなんだってことがわかってないのだろう。
高次の社会主のことじゃない。運動そのものを指すしか言いようがない。 >>704
むかーしから読んで聞いてる話以上のこと? このタイミングでオスプレイ墜落で
沖縄の怒りが沸点に 全国ニュースじゃオスプレイ事故はもう無かったような扱いだな
ひどいもんだ この年譜って正しいですか?
「社学同(ML)が共産同(ML)を作った」と言う資料を見た事ないのですが。
1963末-1964 社学同全国委が三派(マル戦派、ML派、関西社学同)に分裂。
1963.11 社学同ML派が新しい前衛党結成のための準備組織としてマルクス・レーニン主義者同盟結成。委員長・豊浦清(東大)。
・社学同マルクス主義戦線派:石田寿一(東大)、望月彰(東学大)らが1962.12に結成の研究グループ。『マルクス主義戦線』を発行。ML派の形成後、同派との間の対立激化。
1964.02 ML派が社学同ML派の書記局設置。
1964.02 ML派の書記局に対抗して共産同内少数派とともにマル戦派が新書記局設置。
1964.03.21-22 マル戦派、共産同再建大会を開催。共産主義者同盟(マルクス主義戦線)に改称。
1964.04 ML派が共産同ML派結成。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− おれは、そもそも共産同(ML派)では無くて、ML同盟と認識していたよ。 派生は同じでも組織によって温度差がある
ML派はまだブントと見られてるふしがあるが
マル労同はブントとは見られていなかった雰囲気がある 1962年ごろに、ブント再建のための準備委委員として
今井たちが「マルクス・レーニン主義者同盟」を作ったのがML派の原点と思う。
社学同ML派が、1964年に共産同ML派を作ったのではなく
社学同ML派が、1968年にML同盟とSFLを作ったと思ってるが。
共産同ML派というと、1974-75頃に誕生した、全国委員会から分裂した
ML派と、赤軍派(プロ革)の分派のML派を思いつく。
社学同ML派が作った「共産同ML派」と言うのは知らない。 >1964.04 ML派が共産同ML派結成。
これは知らないな。どんな資料に由ってんだろう。
ML派の機関誌「赤光」は53号までが社学同ML名義。
54号以降はML同盟が引き継いでたはず。
「共産同ML派」があったとしたら機関誌名は何だろう。 64年にマル戦が抜けた後の東京ブント総体が、6回大会で議長を
やったよっちゃんたちのグループや、8回大会議長のさらぎさんたちの
グループ(SM)も含めて共産同MLと呼ばれたんだから、その資料は
あってるよ。中心にいたのは佐竹だけど、PBやCCまできちんと組織
されていたのかまでは知らない。佐竹たちが抜けてML同盟を作った
後、残ったメンバーが統一委員会を名乗るわけだ。 情報提供に感謝します!
詳しそうなので、あと三つほど質問させてください。
Q1
「よっちゃん」とは誰ですか?六回大会の議長は「松本礼二」と
書いてありますが。これとは別の六回大会ですか?
Q2
リベラシオン社の資料に
1964/3/21
共産主義者同盟再建大会―開催(マルクス主義戦線編集委員会)と
共産主義者同盟再建大会―マルクス・レーニン主義者同盟(共産同再建大会実行委員会)〜未成立?
書かれていますが、「マルクス・レーニン主義者同盟」の共産同再建は
成立したのでしょか。
Q3
「証言 連合赤軍 4」P17に豊浦氏が、「1965.3に社学同の旧ML派と独立派が統一。
同年7月に関西派も統一。でも自分たちは統一派に加わらずに新ML派をつくった」
と言う趣旨の発言をしてますが、この新ML派が毛沢東思想のML派でML同盟に
なっていったML派ですか?
Q1 松本議長は安保の時点で日共港区委員、つまり日共の中堅カードル
だったエライ人なんだけど、実際は一切の権威主義と無縁な、全電通労働者
上がりの気のいいおっさんだったから、若い者も含めて、みんな親しみを込めて
本名 たかはしよしひこ由来で、”よっちゃん”と呼んでいたんだよ。
Q2 詳しい経緯は分らないけど、当時医学連のドンで2次ブントの政治局員
をやった石井さんの回想(「ブント一代」)を読むと、佐竹はかなり孤立してい
たみたいだね。一方、赤軍の議長だった塩見の回想には、6回大会後の話と
して、ML派もいずれブントに合流することで話がついていたというくだりがあるから
まあそう云う事だったんだろう。佐竹 茂(渚 冬彦)と云えば、60年代初期から
中期にかけての東京ブント唯一のイデオローグだったわけだから、佐竹さんとしては
自分の下でブントの統一を実現するという自負もあったんだろうけど、結局孤立して
別党コースになったんだろう。
Q3 この時点での独立派というのは、明治の斎藤や中大の味岡、バックには後に
情況出版を立ち上げる古賀(杉本)がいた訳だけど、ここと統一した社学同ML
と云うのがちょっと分らない。あるいは当時塩見が一定の影響力を持っていた早大
や専修大の社学同を指しているんだろうか、
いずれにしろ、よっちゃんやさらぎさんはおろか千葉さんや佐藤さんまで鬼籍に入って
いるのだから、裏の事情を含めた東京ブントの歴史が本当に分っているのは、古賀
石井両氏ぐらいしかいないと思うよ。もしこの時代のことを詳しく知りたいなら、直接
聞いてみることをお勧めする。 このQ3で言ってる旧ML派てのは
独立派以外のSM系(千葉、さらぎ)、佐竹影響下のグループ(今井)、松本礼二グループ、etc
をひっくるめてML派と言っているものと思われる
塩見影響下の早大、専大グループは関西ブント系と言ってもいい
65年のブント統一委員会は
この、旧ML派、独立派、関西系の
おおざっぱに分けて三つのグループが連合したものと言って良い 塩見影響下の早大グループは関西系だが
専大社学同は関西系というよりさらぎ派に近い
SMグループ、佐竹グループ、松本グループはMLブントとして合流したが
原潜・日韓闘争の路線論争を巡って分裂
ML多数派、独立派、関西系が合流して統一委員会へ
佐竹、豊浦、今井などは後にML同盟へ
このあたりのことはさらぎの「革命に生きる」に書いてある 色々分かってきました。ありがとうございます。
でも
「1964.04 ML派が共産同ML派結成。」
これのウラ取りがどうしても・・・。
その頃の「赤光」「マルクス・レーニン主義」が大原社研にも
国会図書館委もなくて。
それはそれとして「公安当局が黒田寛一の所在確認!」の一報から
20年で今度は「植田の本名確認!」と新年早々ネタに事欠きませんな。 「1964.04 ML派が共産同ML派結成。」
このML派てのは、後のML同盟をつくるML派じゃなくて
マル戦に対抗するグループをひっくるめた東京ブントのML派で
そこには、SMグループ、松本グループ、佐竹、豊浦グループ等が含まれている
このあたりのことは
「さらぎ徳二 革命に生きる V 情況1998年3月号」にかなり詳しく書いてある >>726
> 「1964.04 ML派が共産同ML派結成。」
> これのウラ取りがどうしても・・・。
> その頃の「赤光」「マルクス・レーニン主義」が大原社研にも
> 国会図書館委もなくて。
64年はまだML同盟ができる前の話だから
この頃の「赤光」はいくら探してもあるはずがない
この頃のML派と後のML同盟を混同してはあかんよ >727 このくだり(要約)が1964.04てっことでいいですか?
千葉正健の率いる青年労働者の組織は小さな存在だった。にも拘らず、千葉はML派への参加を選択した。
こうして私は、小仏山荘でのMLブント集会に参加し、第二次ブント再建への一歩を踏み出すのです。
しかし、このML派も原潜・日韓闘争の路線論争を巡って分裂する残念な結末を迎えます。
1964.8.2の「日韓・改憲阻止・反戦全国労働者学生集会(大手前国民会館)」に
「共産同ML」の名で参加しているのは、小仏で「共産同ML」が結成されているから
と言うことですかね。
>728
「赤光」のno.1-53はML同盟結成(1968.10)前は「社学同ML」から出ているようですが
「赤光」no.1を出したのは>>721に書いた新MLによって? ML派になんでそれほど拘るのかしらんけど
これ以上の裏の事情は当事者しかわからん
存命している古賀、石井、味岡、斉藤あたりにでも直に聞いてくれ 斉藤克彦てどうしているのですかね?
明大独立ブントを古賀氏と供に一から作りあげたが
明大学費闘争で裏切り者として失脚して以来
その後どこで何してるのか?非常に興味あるのですが
明大学費闘争最盛期学生会委員長の中澤氏は
退学処分後叛旗派と接触があってその後生協運動に身を投じている
斉藤の消息はネットで調べてもとんと出てこないし
どなたかご存じの方おられたら教えてください いつだったか忘れたが
最近神津陽が斎藤克彦と会って話をしたと神津陽塾の回覧板に書いていたのを
見た記憶がある 斎藤はずっと情況派だろ。遠方と游撃の分裂で游撃に。例の牧田の爆弾騒ぎで
ちらっと名前を聞いたような記憶がある。古賀と同時期に游撃を辞めてからは
市井の人ではあるけれど、ブントは基本的に人脈の繋がりだから、情況系のフ
ォーラムに行けば、今でも普通に会えるんじゃないか。 70年代派の小生ににとって、この間のオールドブント氏によるカキコは大変勉強になりました。
当事者以外には表面化されていないのではないでしょうか。ブンド史の深さを改めて認識している次第です。 >>725
たしか蜂起派No3は専修大じゃなかったっけ?80年代前半に離脱したらしいが、
さらぎ著作集刊行会には名前が出てるんで、それなりに関係は続いていたと思
われる。もっとも現在の蜂起派との関係というより、元二次ブント人脈という
意味でだが。 RGとは
関西ブントの後の赤軍派やRG派に成っていく部分が最初に言い出したが
ブントが各派に分裂した後は
各派の非公然武装部隊のことを各派がRGと自称していた
狭意では共産同RG派=共産同赤報派 おーにっちゃんが自白した事から、中核派、動労東京の内情をまとめていくページです。
★動労東京について
・立ち上げメンバーには大西秀宜も加わっていた
・前進社の意向に沿う活動内容だった
・動労東京の委員長の名前は吉野氏。保線員。
・動労東京委員長の吉野氏に、飲み屋で「ブログを止めろ」と詰め寄られた
・委員長:吉野氏の資料は前進社のものを踏襲したもの
・吉野のジジイと罵っている事から高齢の模様。おそらくは下記画像のマイクを持つ人物
・動労東京のメンバーには片野氏もいる。片野氏もブログを止めろという立場
・動労東京のメンバーには飯田氏もいる。
【動労東京メンバー】
委員長:吉野氏(保線員)
鉄砲玉:片野氏
鉄砲玉:飯田氏(事務局)
★東部ユニオン
・片野氏というメンバーがいる※動労東京と兼任?
・東部ユニオン内部では片野氏に困っている人がいっぱいいるっぽい
・白井氏というメンバーがいる
・小泉氏というメンバーがいる
【東部ユニオンメンバー】
片野氏:年齢は還暦。60歳。(2017年現在)
白井氏:
小泉氏:
★前進社について
・大西にブログを止めろという立場
ソース
http://onicchan.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-c5d6.html
http://onicchan.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-003f.html お〜い、ブントの残党ども
生きてるかあ???
生きてたら返事ぐらいしろや〜 高校生のころ解放委員会ーマル青同の流れにいたんだけど、74年ごろだと思うけど
烽火とゲバルトやって集会場を逃げた記憶がるんだけど、何で烽火とマル青同がもめたか知ってる人いる?
俺は高校生の下っ端で何も知らずに集会行ったらゲバルトに巻き込まれたんだけどわけわかんなかったなー。 解放委がL研をたぶらかして抱き込みに成功したら8.25共闘を一方的に解散しようとした。
これが烽火とマル青との対立の一番の原因じゃなかったっけ?
マル青結成時は一応解放委とL研の対等合併となっていたが、のちに一方的な併合だったって
自分たちで認めたんだが、具体的な経緯は俺みたいな部外者はわからない。
ただし、マル青結成の時点で佐野さんがやけに距離を置いたような雰囲気だったし、実際結成直後に
離脱したってことは、それなりの複雑な事情があったんだろうな。
置いてきぼり食らった烽火と怒涛は、しばらく自分たちだけで8.25名乗ってたけど、詳しくは知らない。
それよか、その当時の烽火の装備はなかなか見ものだったのを思い出したわ。
中とかも服の下に小手や鎧を着こんでいたが、烽火の小手は手首の先まであって、たしか指の第二関節
くらいまで防御できる代物だったな。天気もいいのに全員折り畳みじゃない傘を持参。
確か赤坂見附駅あたりで、マル青と遭遇してドンパチ。マル青潰走は気分が良かった。 >>747有難うございます。
確かに8.25の中でもめてるってのは聞いたような気がする。なんとなく思い出してきたような・・。
言う通り赤坂だったと思う。確か清水谷公園の帰りかな。必死で逃げた。その後も狭山の集会とかで何回か
ゲバしたことも思い出してきた。その頃はまだマル青同もまともで
危ないから高校生部隊は先に逃げろ、とか言ってたような気がする。烽火派ホント強かったんでひたすら逃げたように覚えてる。
その次の年、たぶん75年のGWあたりから党内の様子が明らかにおかしくなって、このままんじゃヤバいって
思って、離脱。そのあとプロ革やらJ線やらにしつこくオルグられたなー。しかしマル青同ってなんであんなにおかしくなったんだろう?
俺の周囲にいたのはけっこうまともで、トンデモ左翼という感じでは無かったけどな。その頃の人たちは今どうしてるのかな。 いち!に!ピッーーーー!
鋼鉄の労働者階級と堅忍不抜の党中央に敬礼! このころの「堅忍不抜の党中央」ってだれなんだろ?石井さんとかか? この国はある意味では北朝鮮以上の国民を騙す国家だと思う
★★★★政治家・マスゴミ・が隠す日本の真実!★★★★
↓ ↓ ↓
https://www.youtube.com/watch?v=D6YjUs6fZ6c
https://www.youtube.com/watch?v=pX9COqRfCSU
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 左右を問わずおよそ政治活動をする人々は自らの正当性を主張する。しかしそれは必ずしも、自らの接待的正義の主張であると
は限らない。革マルを除く新左翼各派は多少の濃淡はあれど、自分たちがいくつもある党派の一つにすぎぬことを認めていた。
三里塚闘争などにおいては、特にそうであったと思う。
解放委は身近にいなかったので知らないが、L研もそうした認識は持っていた。しかしマル青が結成されて以降、彼らはあたかも
自分たちだけが正当な革命党(派)であると主張し始めたように思う。実際のところ彼らの主張は他の党派と比べて特別目新し
い物などなかったと記憶する。他の党派と比べてマル青が秀でていた点があったとしたら、もっともらしい言葉遣いを多用し、
自らの主張があたかも目新しく、かつ絶対的に正しいがごとく粉飾する技術くらいではなかったのではないか。
「自分たちだけが正しい」という点では、革マルと同じではあるが、革マルが数年間かけて他党派との全面的敵対関係を作り出し
たと比べて、マル青はわずか数か月でそれをやり切った。三里塚闘争から召還すると同時に、反対同盟を支援する勢力としてかか
わってきた過去を清算し、逆に「反対同盟を指導する前衛党」として自らを演出したことがそれを示していたようだ。
部落解放運動においてもかの「明日の投票用紙に代えて、銃を支給する」で話題となった都知事選では、解放同盟都連に押し掛け
大量逮捕されるという事態を生み出したが、それも同じだろう。
俺みたいに外からマル青を見ていると、何のことはない、彼らは結成の時からトンデモだったと思う。
知り合いにL研が二人いたが、一人は都知事選事件の少し前にはマル青から離れていた。彼は解同都連の専従だったから、板挟み
状態の中、マル青と決別したらしい。もう一人はその後もマル青で活動していたらしいが、大学にも戻ってこなかったから、いつ
まで続いたのかは知らない。二人ともそれなりに親しくさせてもらっていたから。マル青の悲劇は今でも記憶している。
そういえば、付属高校の一人がフォード闘争の少し前からマル青に行き芝浦に就職したと聞いていたが、彼もそれっきりだ。 違うんじゃないかな。
斉藤は元ML同盟だけど、解放委→マル青同には参加していないはず。 >>752
今日久しぶりに証言・連合赤軍を読み返してたんだけど、永田洋子を送る会での重信のメッセージが載ってた。
「67年の正月に会議室へ行ってドアを開けたらMLの連中が赤い毛語録を持って一斉にお経のように
唱和していてびっくりした。その時MLはもう絶望だって思った」ってなことを書いている。
これを読むと、毛派はすでにこのころからおかしかったんだなーと思う。マル青同が変質していった、と
思っていたんだけど、そうはなかったってことなんだと思う。
実際のところ彼らの主張は他の党派と比べて特別目新し
い物などなかったと記憶する。他の党派と比べてマル青が秀でていた点があったとしたら、もっともらしい言葉遣いを多用し、
自らの主張があたかも目新しく、かつ絶対的に正しいがごとく粉飾する技術くらいではなかったのではないか。
という指摘は本当にそう思う。中にいてもそれは感じたし、それがどんどんエスカレートしてついていけなくなったという感じ。
75年の春、都知事選、解同とのトラブル、岡大事件と続き周りはみんな消耗して離脱していった・・・。
でもその原点はすでにずっとその前にあったんだ・・・。今手元にある「党旗」を読むと
なんと空疎な言葉が連なっているんだろうと、胸が苦しくなる。 旧ML少数派がML同盟を作って後
毛派に「ひさしを貸して母屋を取られる」
状態になった時点でもうブントとは無縁の集団になった、ってことだよ
だいたい毛派にいかれた連中の末路はみなカルト集団と化している
というのは歴史が証明している
こんなのはブントとは無縁だ ↑>>旧ML少数派がML同盟を作って後
共産同ML派とML同盟のことでしょうか? 70〜80年代のブント諸潮流とマオ派の関係の整理をだれか解説してくれない?
リベなんとか社のhpで過去の烽火派の機関紙を見て驚いたのが、ソ連「絶対悪」、中国「相対悪」といった
視点で中越戦争を論じていたこと。
指導部の政治路線としては目くそ鼻くそ以下の中ソに対し、あの客観的な烽火派が、当時は、やっぱり「中国はソ連と違っていいよね。文革の将来は期待できるよね」とか、当時の心中では思っていたんだろうか? >>758
旧ML派のうち1966年の第2次ブント結成にいかなかった部分が
68年にML同盟を結成
その後あれよあれよという間に毛派に乗っ取られる ↑ちょっと訂正
旧ML派のうち1966年の第2次ブント結成にいかなかった部分が
ひさしを貸した毛派にあれよあれよという間に洗脳され
68年にML同盟を結成 >>759
当時宮本共産党と蜜月だったにも拘らず、私は樺さんを深く尊敬していると語った
毛沢東にせよ、赤軍のハイジャックを評して、赤軍派は確かに無茶苦茶だ。だが
無茶苦茶をやらずしてどうして革命など出来ようか、我々も若いころは皆同じ事を
やったのだ。と語った周恩来にせよ、革命第一世代はその感性に於いてやはり
革命家だったのだと思うよ。
今井公雄さんが書いている、本多さんが中国の援助の申し出を断ったと云う話は
60年代半ばの事だと思うけれど、おそらく同時期にはブントにも同様の申し入れが
あったんだろうし、その辺の事情を勘案すれば、ブントが総体として中国びいきだった
のも肯ける話ではあると思うけどね。 >>762
旧ML少数派(第2次ブントに参加しなかった部分)の中心人物は佐竹茂であるが、
佐竹はML同盟結成には一応名を連ねてはいるが同盟の要職には就かず
ML同盟結成直後に表からは姿を消している
このあたりの事情はよくわからないが
毛派に盲従するML同盟を巡って
色々と何かゴタゴタがあったのではないか??
と想像することはできる >>763
中核派は中国とのパイプ役の一人の井上清とかとは割と仲が良かったから、中国からの
援助の申し入れとかのルートはあったんだろうね。
党派レベルでは中国からの援助を受けていたのは割とあったんだと思う。もっとも、その
額に関しては相当の格差があったんだろうが。あるいは中抜きの違い?
俺の知ってるのは日中友好協会を通じた貿易あっせんの形で実質的な資金援助だったけど、
どうやら現ナマもあったらしいし。
全然関係ないけど、70年くらいに革マルの解放でMLの内部抗争に関する言及があって、
「純毛派対混紡派」って書いてあったのは笑えた。「ブンブク連合」もそうだが、他
党派を誹謗する能力だけは他を圧倒していたな。 >>759
あの当時って文革の影響でマオ派系に向いたところが多かったからなあ。
今ここで書くには面倒なのでまた今度。 >>767
そんなこと言わないで、早く書いて下さいな。
それと
>>毛派に盲従するML同盟を巡って
色々と何かゴタゴタがあったのではないか??
と想像することはできる
というくだりで、ML同盟がマオ派そのもの、っていう認識だったんだけど、違うんだろうか。
ここで言っている毛派っていうのはやはり日共の所感派とか左派とかの人のこと?どこかで所感派の
某氏がL研の佐野さんの裏に居たって聞いたような気がするんだけど。 >>768
>>所感派の某氏がL研の佐野さんの裏に居たって聞いたような気がするんだけど。
これが、解放委とL研合流の背景ですか? 今日は北朝鮮から日本人暗殺テロ指令の暗号送られたらしいけど 日本共産党は朝鮮工作員だからもちろん日本国内の朝鮮殺人工作員を全力で支援するんだろ?
日本共産党員こわい ブントと毛派統合の背後に所感派がいた・・・・という都市伝説か mao派って、結局黒田、大塚、西沢,etcのことでしょ。ここから金出てたことや、
金を巡ってMLも参加してゲバルトになったことは事実だし。ただこの辺と豊浦や
畠山との関わりがあんまりよくわかんない。関西ブントは毛学とか毛研と繋がり
深かったようだけど、豊浦、畠山とかは関東だし。やっぱり佐野さんか?? >>765
> 「純毛派対混紡派」って書いてあったのは笑えた。「ブンブク連合」もそうだが、他
> 党派を誹謗する能力だけは他を圧倒していたな。
クロカン的お下劣ネタの流れ。面白くもなんともない。
60年前後に「ズロース、ズロース」と叫んでたらしいから。 >>768
いまMLをめぐる話になってるが、70年代の五派共闘とかもややこしいからさ。 >>769
所感派ってさらぎ徳二も所感派だったしねえ。
だからめんどくさいって。 社会党内毛派の黒田寿男、岡田春夫らが結成した(1948年)労働者農民党の破たんが
毛派がほとんど(まったく)無視したのが、後の毛派を象徴している。 いろんな人がいろんな人名を書いているけど、佐野さんだけはみんながさん付け。
やはり、人柄なんだろうな。 佐野茂樹
っていうから
元近鉄プロ野球選手の
頭の禿げた佐野かと思ったわ
違うのね 佐野さんの足跡
80年代 共産主義○○団
90年代 毛沢東思想学院
2000年代 チベット支援
2010年代 お元気ですか? 森田実先生講演(2011.12.26)
私も79歳で、25歳くらいまではプロの革命家だったんですが、60年安保が終わったと同時に
自由人になりまして、出版ジャーナリズムの世界に入りまして、ジャーナリズムの中で生きてきたんですけども。その間に、私より何年か若い男が京都大学からやってきまして、一緒に私の後輩ですか、
部下をやってたんですよ。
彼はそのうちに私は辞めろと潮時だと言ったんですが、のめり込みまして、ついに世間をアッと言わせました赤軍派という極左グループを創設しまして。「佐野茂樹君」っていうのが今病床にあってですね。
ちょっと危ないという話を聞いているんですけど。その男が、何年間か獄中で独房暮らしで、哲学者になって帰ってきまして。世界の最大の問題は環境破壊だと。環境破壊を直すために人生を送ろうと。
家族とも全て別れ一人になりまして。京都大学で影響力があった男ですから、時々帰ってきてはカンパを集めまして、金を作っては中国の黄河の流域を旅しまして、樹木を植えたり。それではダメだっていうんで、
こけーれんを植えると。苔の研究所が鳥取大学にあるのでそれを巻き込みまして、そういう努力で中国8千年の歴史の中で樹木を切り倒しても樹を植えなかったっていうんですね。戦争ばかりやっていたから。
それで丸裸になって、それが土や河に流れて河が黄色くなったんですね。
そして黄河になったんですね。しかもだんだん土砂が溜まって、今時々水が運河に流れないようになってしまったと。それが深刻な水問題生み出してたんです。そういうのを直すには緑化しかないと。
それこそ死に物狂いでやってます。日本に帰ると必ず東京に来て私を訪ねて来まして、危機迫る執念の話をずっとするわけですよ。私は聞いて意見を言うだけだったですが、その危機迫る話を聞き続けて。
彼はチベットにも長く住みまして、ありとあらゆることをやって、エネルギーを使い果たして病床に倒れて今起き上がれないという状況になっているんです。
彼は私よりも4、5歳若いですけどね。そんな事をずっとやってきましたで、こういう破壊された土地をどう直すかというのは、彼を通じてだけじゃないんですが、ずっとやってきたんです。
その後の佐野さん、どうなったのかなあ・・・・。 >>745>>748
>高校生のころ解放委員会ーマル青同の流れにいたんだけど、74年ごろ
74年、「解放委員会ーマル青同の流れ」の活動家が
当時通っていた高校の生徒会長になったんだよね。
その潮流の高校生って、結構いたの? 73-4年ころはまだ8.25共闘で集まっていたように思う。なのでいろんなのがいたけど
東大の赤れんがなんかで会議をすると3-40人はいたような気がする。革共同系や解放派,構改系は見なかった。
今から考えると慶応とか南部とかからも来てたんで怒涛、さらぎとか居たんだと思う。
ずいぶん昔なんでうろ覚えだけど。
74年ころってもうすでに高校生運動はかなり退潮期で、かの2.11紀元節粉砕高校生集会の時のような感じはなかった。
反戦高協なんて一人で旗持っていたもんな。あいつ一人でガッツあるなーとか8.25界隈の高校生は噂してた。確か新宿高校だったような。 俺は労学連枠には参加していたが、8.25には参加していなかったので、よくわからんが、
さらぎも8.25に参加していたんだっけ?さらぎにイメージとしては、格好だけの革命戦争
派だから参加しないような気がするんだけど。
革左と組んで5.15共闘とか名乗ってた記憶があるんだが、時期が違うのかなあ?
ちなみに、俺たちの間では8.25=武装解除派ってイメージが定着してたな。L研のことを
「赤ヘル民同」とか言ってたし、当人たちも「どうせ私たちは赤ヘルべ平連ですから」と
いじけてた。
その時期だとアヤメ闘争関係の会議が慶応病院で開催されてたのには参加してたが、こっち
にはさらぎも来てた。あと「エル裁」って名前でのろしも。「RG裁判を支える会」の略称だろうが、
最初聞いたときは赤報だと勘違いしてて、それで覚えてるわ。もっともプシ共闘のY氏が仕切って
いて、どこも党派性を出さず(出せず)に健全に大衆闘争を前進させようって感じだった。
68〜69年は全国的にはAGHが突出して多かったらしいが、70年以降は急速に後退して言った感じかな?
71年の6.17沖縄返還協定調印阻止闘争では、地方からの動員数で一番多かったのが北海道の40と聞いた
記憶がある。北海道と言えば、革マルの天下みたいで学生の中核もろくにいなかったはずなので、そん
なところが他の地方より多いって驚いたから、それも覚えている。その年の秋の三里塚・沖縄闘争で相
当数逮捕者が出たし、その後はいわゆる「対Y戦」だから、高校生の組織を維持するのが他党派に比べて
も難しかったんじゃないだろうか?元AGHの人を何人か知ってるが、72年以降の世代は知らない。 隙あらば自分語りだろうがこんな長文書いて誰が読むと思っているのか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています