≪黎明期の電通≫

http://list.jca.apc.org/public/aml/2005-September/003431.html

1935年(昭和10)の2.26事件が起きる前年、吉田秀雄は上海に渡り、排日運動が熾烈をきわめる中で、
邦字新聞、日系漢字新聞など、中国市場の媒体の殆どを電通扱いにしている。

この吉田秀雄の快挙の背後には、
当時の中国市場、ことに情報機関を完全に掌握していた日本軍との、何らかの連携があったに違いないが、
そのあたりのことは、現在の「電通」幹部は、全く知らないようだ。

この人物は、戦後、吉田秀雄に迎えられて「電通」に入社し、取締役になっている(1975年8月死亡)。

塚本 誠は、元憲兵大佐であり、戦前は、上海で有名な影佐禎昭大佐の「梅工作機関」など、いわゆる特務機関と連携し、
或いは特務機関の束ね役として、反日運動などの弾圧の指揮をし、汪精衛の南京政府づくりの舞台裏でも活躍したようだ。

実は、吉田秀雄が上海で塚本 誠と懇意になったのは、
こうした時代、つまり塚本 誠が中国市場の情報関係の人間たちに絶大な力を持っていた時代なのだ。

尚、塚本 誠は、東条英機が政権をとると憲兵特高課長に迎えられているが、
一方では近衛文麿と、彼をとりまく学者、ジャーナリストたちとも親しく、憲兵特高課長という顔の他に、
ジャーナリズムとの根回し役もつとめていたようだ。

この時代、吉田秀雄は、「読売」の正力松太郎、「同盟」の松本重治、「毎日」の吉岡文六、田中香苗、
そして、「朝日」の団野信夫、宮崎世龍などと懇意になっている。

1936年(昭和11)1月、政府は、地方新聞など反対派を強引に封じ込んで国策通信社である社団法人・同盟通信社を発足させた。
そしてこの時から、「電通」は、通信社部門を失い、広告代理行専業の会社になったわけだ。

http://heiwarikkoku.jugem.jp/?eid=50