マグマグニュースより 続き

そんな中で、方子妃は韓国で障害児の教育を始める。ポリオ等で麻痺した子ども達は、家族の恥として家の中に閉じ込められていた。
方子妃はその子どもらの自立能力を引き出し、育て上げることを目指した。
新聞に公告を出し、延世大学の隅に間借りし、一年ほどすると聾唖や小児麻痺の子供らが10人ほども集まった。優秀な若い先生を雇って教育を授けた。
資金が足りないので方子妃は、趣味で作っていた七宝焼の品を売ることにした。
品を作る時には、足踏みバーナーで火を起こして使うので、60代の方子妃には、重労働だった。
生徒数が多くなると、新しい土地に建物を建て、慈恵学校と名付けた。資金集めのため、方子妃は朝鮮の王朝衣装のショーを海外等で80才過ぎまで行った。
このような方子妃の努力で慈恵学校は児童数150名、校地4000坪、教室や寄宿舎以外に農場なども備える規模になった。

ある時、方子妃が日本への募金旅行から帰り、風呂場をのぞくと、ぬれた体の子ども達が抱きついてくる。方子妃はよそゆきの洋服が泡だらけになるのもかまわず、子ども達を抱き寄せ、「ただいま」と一人一人の顔をのぞき込む。
一緒に訪れた在日韓国人の権さんは、この光景を見て胸が詰まり、この方のためならどんな応援もしようと心に誓ったという。
権さんはその後の在日大韓民国婦人会中央本部会長である。

1989年、方子妃は87才で逝去された。古式通り、1000人の従者を伴った葬礼の行列が、旧朝鮮王宮から王家の墓までの2キロの道を進んだ。墓には19年前に亡くなられた垠殿下が、待っておられる。
韓国の首相や日本の三笠宮ご夫妻らが列席され、多くの韓国国民が見送った。

日本の皇族として生まれ、朝鮮王朝最後の皇太子妃となり、さらに「韓国障害児の母」となり数奇な運命をたどられた方子妃は、
「一人の女性として、妻として、私は決して不幸ではなかった」と述べられている。
日韓の架け橋になろうとの15才の時の決意のままに、その後の72年間を生き抜かれたのである。